夏の夜
しらす
夏の夜
カロン、と氷が音を立てた。
風の無い夜だ。太陽が沈んでもアスファルトは長く熱を孕んだまま、じりじりと空気を温め続ける。
汗を吸った寝間着の襟をくつろげ、網戸を立てた窓際に座っていた私は、その涼やかな音に我に返った。
読んでいた文庫本を膝に置き、サイドテーブルに視線を遣ると、水滴がびっしりと付いたアイス珈琲のグラスが目に入った。
そうだ、十分ほどしたら飲もうと淹れておいたんだ、と思い出して私は苦笑する。
珈琲は好きではない。香りはまるで花のようで、黒蜜のような色をしていながら、飲めば痺れるような苦みが口一杯に広がる。初めて飲んだ時は「騙された」と思ったものだ。
だが冷ました珈琲に牛乳と氷を入れ、しばらく置くと氷が解けて水っぽくなり、多少は飲みやすくなる。
だからと言って、そこまでして飲みたいものでもない。珈琲が我が家にあるのは、彼女が好きだったからだ。
ああそうだ、と思い出す。彼女は私の淹れたアイス珈琲を美味しそうに飲んでいた。
可愛らしい女性だった。手が小さくて、指も細くて、私の家にあるグラスは手に余るようだった。それを両手でぎゅっと握る姿は子供のようだった。
もっと小ぶりなグラスを買おうか、と言ったが、彼女は「これでいいわ」と笑って言った。
今になってみれば、あの時わざわざ小さなグラスを用意しなくて良かった、と思う。
なにしろあの夏以来、彼女とは一度も会っていない。
再びカロン、と音がした。私はグラスを手に取り、分離しかけたアイス珈琲を軽く振り混ぜると、一息に飲み干した。
味はやはり好きになれないが、冷たさが心地良い。
風の音も、虫の声もしない夜に、他に音を立てる物はなく、静かに夜は更けていった。
カロン、と氷の鳴る音で不意に目が覚めた。
いつの間に眠っていたのか、私は膝に文庫本を載せたまま、籐椅子に体を預けていた。
網戸の向こうから、微かな風が吹いて来る。しかし生ぬるい空気を掻き回すばかりの風は、幾ら吹いても涼しくはない。
サイドテーブルに視線を遣ると、氷が殆ど溶けたグラスを置いたままだった。グラスの表面に溜まった水滴が落ちて、テーブルを少し濡らしていた。
そうだ、片付けるのを忘れていたな、と思い出して私は苦笑する。
元々ずぼらな方ではない。夏でも冬でも、飲み物の容器の底には水滴が溜まるもので、それを放置してテーブルが濡れるのが好きではないのだ。
飲み終わればすぐに流しへ持って行き、濯いで水切り籠に入れるのが習慣だ。そうしないと落ち着かない性分だった。
ではどうして置きっ放しにする癖がついたのかと言えば、彼女がいつも、洗い物もそこそこに私の袖を引いたからだ。
ああそうだ、と思い出す。まるで力のない彼女の細い指は、だからこそ却って振り払えなかった。
淋しそうな女性だった。真昼の太陽の中、黒く影を落とし棒立ちになっている彼女を目にした時、そのまま倒れてしまうのではないかと思った。だから声を掛けたのだ。
咄嗟に持っていたペットボトルのお茶を差し出すと、彼女は「ありがとう」と微笑んだ。
今になってみれば、あの笑顔こそ彼女の武器だったのだ、と思う。
なにしろあの夏の間中、私は彼女が何をしてもその笑顔で全て許してしまっていた。
再びカロン、と音がした。私はグラスを手に取り、溶けて水になりつつある氷を一息で口に含んだ。
もう味は全くしないが、珈琲の花のような香りが僅かに残っている。
網戸を抜ける風の音を微かに聞きながら、穏やかに夜は更けていった。
カロン、と遠くで音がした気がした。
項垂れるようにして籐椅子の上で眠っていた私は、ふと目を覚まして、膝に文庫本が無いことに気付いた。床に落ちたのだろうかと辺りを見回したが、どうにも見当たらない。
視線を巡らせると、相変わらず熱気を孕んだままの風が吹いて来る。その網戸の一か所が破れていた。
カーテンを引きながらサイドテーブルに視線を遣ると、空になったグラスも、濡れていたテーブルもすっかり乾いていた。
そうだ、あの文庫本は捨てたものだったんだ、と思い出して私は苦笑する。
元々恋愛小説を読む習慣などなかった。どろどろとした感情とは無縁の人生を生きてきて、どうしても共感できない話が多いからだ。
幼い頃から勉強は好きだったし、感情を交えない論説文は大好きだったが、国語の授業の半分は苦労したことを覚えている。
それなのになぜ恋愛小説を読んでいたのかと言えば、彼女に是非読んで欲しいとせがまれたからだ。
ああそうだ、と思い出す。色恋に不慣れな私を好ましいと言った彼女は、しかし次第に不満げな顔になっていったのだ。
夢見る少女のような女性だった。恋愛小説を読む以外にも、あれこれと私にしてほしいとせがんでいた。
その要求が今一つ理解できないながらも、私はできる限り彼女の願いを聞いてやろうとした。それで彼女が嬉しそうに笑えば、私は満足だったのだ。
今になって見れば、あの時点で結末は見えていたのだ、と思う。
なにしろあの夏に、私は初めて恋を知ったばかりだったのだ。
再びカロン、と音がした。捨ててしまったあの文庫本に、私はまだ未練があったのだろうか。
最後に話をした日、文庫本を読んでいた私の元に、彼女は浴衣姿で現れた。祭りに行こう、とやって来た彼女にアイス珈琲を差し出し、一緒に飲んだ。
その後どうしたのかは、不思議と思い出せない。思い出そうとすると、強い眠気に襲われる。
カロン、と玄関で音がした。
籐椅子から体を起こすと、開いたままの窓から吹き込む風が強まっていた。
カーテンが膨らんでは萎みを繰り返し、膝を軽く撫でていた。いっそ閉めてしまおうかと立ち上がった瞬間、ガチャンと音がした。
驚いて音のした方を見ると、サイドテーブルのすぐ脇でグラスが割れていた。
そうだ、あの時の気分は丁度こんな感じだった、と思い出して私は苦笑する。
平常心で受け止められたわけではない。突然の衝撃に私の心は粉々になって、笑う事も泣く事も出来なかったのだ。
いつからだろう、感情を表に出すのは苦手になっていた。それが災いして、言いたいことは何一つ言えなかった。
ではどうして今、心穏やかに彼女の事を思い返しているのかと言えば、それが自分でもよく分からない。
ああそうだ、と思い出す。最後に私が見た彼女の顔は、私と同じ苦しみを味わっている顔だったのだ。
「ひと夏の思い出じゃない。貴方だってそのつもりだったんじゃないの、どうして、どうして」
泣きながら、悲鳴のような声を上げながら、弁解ともつかぬ弁解を繰り返す彼女を抱きしめて、それからどうしたのだったか。
今になってみれば、彼女が泣いたのはその時が初めてだった、と思う。
なにしろあの日は酷く暑くて、体中が焼け焦げるようだった気がするのだ。
再びカロン、と音がした。私は立ち上がって玄関に向かい、熱で拉げたドアを一気に開けた。
全身が黒く煤け、もう可愛らしさの欠片もないが、そこに立っているのはあの日の彼女だ。
祭りの夜、浴衣を着て下駄を履き、我が家の玄関に立った、あの日と同じ。
カロン、と目の前で涼やかに下駄が鳴った。
夏の夜 しらす @toki_t
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