第18話 小さな親切

「なんてこった」

「なんてこった、とはどういう意味?」とサナが言った。

「いろいろだ。エマが死んだこと。君がエマにそっくりなこと。エマが幽霊として僕の前に現れたこと。君がエマのふりをしたこと」

「それでも地球は回っていること」

「そう、それもある」と言って私は顔をしかめた。「でも、今はそんなことを考えつくほど冷静じゃなかった」

「そのうちのいくつかは私が解決できると思うわ」

「ぜひそうしてもらいたい。できれば地球が回っていること以外で」

「もちろん。その回転軸が二十度強傾いていること以外で」

「そう、それ以外で」

 サナはそれを聞くと話し始めた。

「まず、もちろん私と姉は似ている。姉妹だし、当然ね。でも、姉妹にしてもかなり似ている方だと思う。顔の作りもそうだけど、身長も体重もだいたい同じだし、性格だって結構似てる。違うのは生理の周期ぐらいかしら。そのこと、知ってた?」

 私は首を横に振った。私が知っていたのは、エマの生理周期が非常に不安定だったということだが、特に指摘する気にはなれなかった。

「そう」と、サナはまるで興味がなさそうに頷いた。「まあ、それはどうでもいいことだわ。とにかくそれで一つ解決したわね。私たちが似てるのは、メンデルの法則の気まぐれのおかげというわけよ」

 サナが無言でワインのおかわりを要求したので、私は彼女のグラスにもう一杯安ワインを注いでやった。考えてみると、私は安ワインでずいぶんと色々なことを手に入れてきた。はたして今回も、サナは先を続けた。

「姉は、二ヶ月ほど前に酔っぱらい運転の交通事故に巻き込まれたの。道を歩いていたら、急に車が突っ込んできてドン──それでおしまい。将来への夢も、不安も、借りっぱなしのレンタルDVDも、生理周期も、もうなにもかも関係なし。残ったのはいくらかの保険金と、損害賠償と、私と同じサイズの服だけ。そう思っていたのだけど、あなたがエマの幽霊を見たというのなら、姉は何かしらの未練も残していたのかもしれない」

 私は曖昧に頷いた。

「あなたは幽霊を信じる?」とサナが言った。

「さっきも言ったように、僕にとって、それが現実的なことかどうかはあまり関係がない。僕は確かにエマの幽霊と暮らしていた。信じるかどうかという問題ではなく、それは僕に起こった現実なんだ」

 サナはふん、と鼻を鳴らした。

「あなたともう一時間一緒にいたら、私は日本語とあなたの言語の通訳になれるわね」

「僕の言語は語彙が貧困だから、色々と喋ってみるしかないんだ。君が通訳してくれるなら、僕にとってもありがたい」

「いいわ。通訳してあげる」サナは言い、無表情に続けた。「さっきあなたが言ったのは『私はエマが生きていようと死んでいようと関係がない。なぜなら私はおとぎの国の住人で、この世界の生死を引き受ける必要がないからだ』という意味よ」

「妥当な翻訳とは言えないと思う」と私は言った。

「いいえ、そういうことなのよ」とサナは言った。「あなたは気づいていないかもしれないけれど、そういうことなのよ」

 私は沈黙した。その他のどんなことが私にできただろう? サナの言ったことは、どんぴしゃ大当たりだった。ある者は神を信仰し、ある者は人間社会を信仰し、ある者は自分の脳みそを信仰する。私は自分の脳みそで考え出した世界の成り立ちを信仰していた。サナやエマが信じているものを、私は信じていなかった。

「姉がよく話していたわ」とサナが言った。「あなたは自分をロマンチストだと思っている。実際にそうなんだろうとも思う。でも、あなたがやっていることは、他人からすれば、ただの卑怯な言い訳か、馬鹿の戯言にしか見えないかもしれない。あなた以外の人たちが、上手く逃れることを許されずにあがいている側で、あなたは自分を笑うことで、どんなことからも上手く逃れてしまう。それは自由なようにも見えるし、何も引き受けないただの無責任にも見える」

「エマはずいぶん僕のことを理解していたみたいだ」と私は言った。

「それはきっと、姉も以前はそういう人間だったからだわね」とサナは言った。「でも、姉があなたのことを理解していたかどうかは分からない。姉はずっと答えを知りたがっていたわ」

「なんの答えを?」

「ロマンチストは世界を救うのか、それとも、ただの救いようのないまぬけなのか、ということよ。姉はその答えをずっと出せないでいた。私が今日ここに来たのはそのためよ。あなたにその答えを教えてもらうために、私はここにいるの。あなたが私に親切にしてくれようとしているというのなら、その答えを教えてくれるのがそれだわ」

「うむ」と私は言った。

 私は今やエマの天国からの疑問に答え、目の前にいるサナに親切を施し、そして私と同じロマンチストになったナオにも、先輩として誓いを立てなければならなかった。

「君が納得するかどうかは分からないが、一つ僕に示せるものがある」

 私はそう言うと、キッチンの対面式テーブルを回って、自分のベッドへ向かった。

「ここに僕の今までの最高傑作がある」

 サナは顔をしかめた。

「ベッドの上に最高傑作があるの? まさかそこで私と愛を交わそうとか言うんじゃないでしょうね」

 私は肩をすくめ、ベッドの上にあった雑誌を取り上げた。

「僕は今、ロマンチストが世界に立ち向かえるのかどうかの伺いを立てられている」

「そうね」

「僕の言うことは全て自分を守るための戯言かもしれないと思われている。でも、僕は今までに二度、はっきりと世界に立ち向かうためのことやってのけた」

「そう?」

「そう。これに載っている記事はその中でも最高傑作だよ」

「それが全ての解決方法だと言うの?」

 私は一つ咳払いをした。私は朗々たる声で宣言した。

「僕はこれからの一生、ロマンチストとして世界に戦いを挑むと誓おう。ロマンチストは全員、誇りを持って自分を笑っているのだということを誓おう。他人が信じることとは違っていても、自分の信じることは、それと同じぐらい価値があることなのだということを唱え続けよう。全てのロマンチストは、ロマンチストであることを選んだことに引け目を感じる必要はない。幸いにして、僕はこういう媒体で物を言う機会を得た。その全てをロマンチシズムの普及に費やすと誓おう。この記事は一種の教典だ。ロマンチストたちはスペインの月のもと、いかなるときもその誇りを失わずに済むと宣言しよう」

 そのときの私は完全なる酔っぱらいだった。完全なる酔っぱらいは、嘘をつくことができない。そして、私は間違いなく、完全なる酔っぱらいたちのやることを気に入っている。

「驚いたわ」とサナは言った。「あなたは筋金入りね」

「もちろん」と私は言った。「筋金入りでなけりゃ、僕のような人間は務まらんよ、君」

 サナは笑った。そこで、私たちは、少しばかりの親切を交わし合うことにした。私たちは、パチンと大きく音を鳴らし、ハイ・ファイブをした。



 そういうわけで、私は今でもロマンチストである。結局私はロマンチストであることを止められなかった。この舞台も、あとは短いエピローグを残すのみだ。


 サナと私は友人として付き合いを開始した。彼女はなんとか私のロマンチシズムを理解しようとし始め、その代わりに私に現実世界の作法を教え込み始めた。手始めに、ハリウッドの超大作は以降無期限禁止とされるはこびである。彼女によると、教典を書くほどの人物がハリウッドに感動していては、威厳が保てないらしい。

 私はエマの墓前をまだ訪れていない。しかし、エマもあれから私を訪れてきてはいないのだから、痛み分けという所だろう。いずれにせよ、私と藤野姉妹は小さな親切を交わし合い、今を何とかすることに専念しているということになる。


 ナオ──ナオはいまだに私の前に姿を現していない。

 おそらく、彼女はいつか、突然私の目の前に姿を現すだろう。そして私は彼女に触れようとし、彼女を捕まえるか、そうでなければ宙をつかむことになるだろう。

 彼女がどこにいるのかは分からない。しかし、ナオはロマンチストになり、私は体中の細胞を何度入れ替えてもロマンチストのままだ。ロマンチスト同志は、いつでも望むときにスペインの月を見て、その月の下で親切を交わし合うことができる。


 普通の人にはできないかもしれない。しかし、私たち、人間を愛するロマンチストには、そのくらいの芸当は朝飯前なのだ。


(了)

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スペインの月 宮上拓 @miya-hiraku

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