第17話 彼女の名は
私はキッチンに行き、その辺に放り出しておいた安ワインの栓を抜いて、二つのグラスに注いだ。エマはベッドの上から立ち上がり、私が座っていたキッチンの前のスツールに陣取った。私は彼女と向かい合って、立ったまま話を始めた。
「実はこの二ヶ月ばかり、君の幽霊と一緒に暮らしていたんだ」
「どういうこと?」
「そのまま、文字通りの意味だよ。二ヶ月ぐらい前に、急に君の幽霊が現れた。最初は君が──生身の君が──やって来たんだと思って特に気にしなかった。でも、いつまでたってもそれは喋らないし、不思議に思って触ろうとしたら、僕の右手はそれをすり抜けたよ」
彼女はそれを聞いてしばらく黙り込み、グラスのワインを一気に半分飲んでから口を開いた。
「あなたは別に私をかつごうとしているわけではないのね?」
「かついでない。僕は馬鹿げた口はきくけど、夢物語は絶対にしない」
「それもそうね」
私は彼女の言葉に驚いた。なんといっても、彼女はその昔、私の語る言葉は夢物語だと考えて私に愛想を尽かしたのだ。
「でも私はこうして生きているわ」
「そう。だから不思議なんだ」
「じゃあ一体それはなんだったのかしら?」
私は少し考えた。
「こう考えてみたらどうだろう。あれは僕の脳みそが作り出した、僕の現実だった。君が生きているのとは関係なく、そして君が僕の部屋で二ヶ月暮らしたかどうかとは関係なく、僕の生きている時間に存在した君だ」
「それはメタフォリカルな話?」
「違う」と私は言った。「さっきも言ったように、僕は馬鹿げた口をきくけど夢物語は絶対にしない」
私の考えていたことは──今でも考えていることはこういうことだ。
ロマンチストには、空想主義者よりも現実主義者の方がよっぽど近い。ただちょっとばかり、ロマンチストの方が受け入れる現実の間口が広いのだ。彼らにとって、起こり得ることと、起こっていることと、起こったかもしれないことと、実際に起こったことの間にはなんの区別もない。彼らにとっては、起こり得ないこと以外の全てが平等に現実である。彼らの頭の中を覗けば、人生が一本のラインではなく、ただの一点で描かれているはずだ。
私が時折過度の楽観主義者に思われるのはそれが理由だ。私は未来を憂うことができない。しかし同時に、私は未来を心待ちにすることもできない。それは、普通の人々が現在を嘆き、喜びはしても、憂い、心待ちにしたりはしないのと同じ事である。
ロマンチストたちは、みな一点に凝縮された人生の中で身動きが取れずにいる。だから彼らは、自分の大切な物に、その瞬間にあるだけの親切をつぎ込むのだ。
私はそのことをエマに説明したが、彼女はそのせいでますます混乱したようだった。エマは、グラスに入ったワインの最後の一口を飲み干してから言った。
「ねえ、悪いんだけど、話がよく理解できないわ」
「無理もない」と私は言った。「でも以前の君を思い出してほしい。僕たちは大体同じことを感じて生きていたはずだ。もしそれで納得できないなら、僕が二ヶ月間一緒に暮らしたのは、ちょっと頭がいかれた男が、精神安定剤の恩恵を受ける前に見た幻影だということでも構わない。さっきも説明したように、それは僕たちにとってはあまり違いがない」
エマは少し不安そうに、眉根を寄せて考え込み、しばらくしてから口を開いた。
「つまるところ、あなたはいまだにロマンチストをやっている、ということでいいのね? 今ここにいる私に親切にしてくれようとしている、ということでいいのね?」
「まあ、だいたいそうなるかな」と私は言った。
「それで、私たちがこれからどうなるか分かる?」
「分からない」と私は言った。「ねえ、未来なんか知ったことじゃないんだ。僕たちはそれが手出しできないものなんだということを知ってる。手出しできないものに手を伸ばすよりは、直に触れられる物に最大限の力を注ごうとする方がいい。未来を考えるなら、今をなんとかすることを考えなくちゃならない。それが僕の考える、真っ当に現実的な人間なんだ。真っ当に現実的であるためには、今の瞬間を見ているしかないんだ」
「それを聞いて安心したわ」とエマは言った。
私は微笑んだ。彼女はまるで、もう一度体中の細胞を入れ替えて、私の拡大家族に復員したかのようだった。
「一つ伝えたいことがあるの」とエマは言った。
「なんだい?」と私は上機嫌で言った。
「藤野恵麻は二ヶ月前に死んだわ。はじめまして、私はエマの妹のサナよ」
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