第16話 まるで生きてるみたいだ

 私は数年ぶりに耳にした彼女の言葉に打ち震えた。そこにいるエマははっきりと肉声で喋り、確かな存在感を備えていた。髪の毛は風にたなびき、額にはうっすらと汗をかいていた。生きている人間のようだった。

「まるで生きてるみたいだ」と私は言った。

「もちろん生きてるわよ」とエマは言った。「死んだとでも思ってたの? それともそれは、『また会えて嬉しい』ということの婉曲な表現?」

「どうだろう」

「どうだろう、ってどういう意味よ。まさか本当に私が死んだと思ってたんじゃないでしょうね。なんなら、今から実家に電話して、うちの両親に『娘は生きています』って証言させてもいいわよ」

「本当に生きてるのか」と私は言った。「いや、気にしないでくれ。それについては──つまり『どうだろう』の意味については、今はちょっと説明しにくい。正直に言って、僕は今すごく驚いている。まともにものを考えられそうにはない」

 彼女はくすりと笑った。

「あなたがまともにものを考えるとろくな事がないから、それぐらいでちょうどいいわ。でもいいわよ、ゆっくり考えなさい。それで、私には『まあ上がれよ』とは言ってくれないの?」

 そこで私はまあ上がれよ、と言い、彼女を部屋に上げた。彼女が私のそばを通り過ぎるときに、かすかな汗の匂いがした。


 なんてこった! 生きている!


 そこで、私の茹でキャベツの中のなにかのスイッチがパチンと入った。スイッチの入った私は、発作的にエマの腕を捕まえ、彼女をきつく抱きしめた。私はエマの肉体と、体温と、汗の匂いと、その他諸々を感じた。

 もちろんこれはとんまな行動だったが、我々ロマンチック同志は、親切成分が身体の中に不足すると、このような行動をとることがある。お腹の空いた赤ちゃんが、ミルクを欲しがるのと全く同じ生理現象だ。

 それでエマはキャッと小さく悲鳴を上げたが、しばらく私の好きなようにさせてくれた。四年も付き合いがあれば、私の生理現象は熟知している。彼女は「よしよし」と言った。私は「うまうま」と言った。抱き合っているときの私たちは、傍目から見ればダンスを踊る紳士淑女だった。


 五分後、親切成分の欠乏を補った私は、彼女から身体を離し、完璧に理性的かつ紳士的態度で言った。

「説明しよう。コーヒーでも飲みながら」

「ありがとう、ジェントルマン。いただくわ」と、エマは淑女そのものの口調で微笑んだ。


 紳士淑女に戻った私とエマは、久しぶりに出会った好意を持つ元恋人同士がお互いに身体をくっつけずに行動する、という難題を非常に優雅にやってのけた。私はキッチン前のスツールに座り、彼女は私のベッドに腰掛けて話し始めた。

「それで」とコーヒーを飲みながら彼女が言った。「まだロマンチストをやってるの?」

「たぶん」と私は言った。「でも、もう生粋のロマンチストとは言えないかもしれない。安定とは言えないかもしれないけれど新しい仕事も見つけたし、驚いたことに、仕事仲間とたわいもない話ができるようになった」

 彼女は笑った。

「そうね、以前のあなたはそれはしなかったわ。有能なスペイン語講師ではあったけど」

「ひょっとしたら、スペイン語講師という人種が変人の集まりなのかもしれない」

「雑誌の記事書きが変人の集まりでないとでも?」

「それは言えてるな」と私は言って、ふと気づいた。

「なんでそれを知ってるんだ?」

 彼女は傍らに置いていた袋から、雑誌を一冊取り出した。私とナオが手がけたスペイン特集が掲載された雑誌だった。

「この扉ページの記事、あなたよね?」

「そうだ。読んだの?」

「読んだわよ」

「そいつは奇妙だ。その企画を担当した人間は、『誰がこんなものを読むのか見当もつかない』と言ってたよ。まさか君だとは」

「また私を笑わそうとしているの?」と言って、エマは笑った。「それを言ったのはきっとナオさんね。記事に署名があったし、何度かあなたから名前を聞いたことがある。彼女は元気にしてるの?」

 私はナオがロマンチストになったことは伏せたが、嘘はつかなかった。

「最近連絡を取ってないんだ。でもたぶん、いろいろあるけどなんとかやってると思う」

 彼女は複雑な表情でふふん、と笑った。

「私のことは聞かないの?」

「ちょうど聞こうと思ってたところなんだ。でも、君については謎が多すぎて、何から聞けばいいのか迷ってたところだ」

「なんでも聞いて」

「そうだな……この二年ほど、どうしてた?」

「特に何事もなかったけど、なんとかやってたわ」

「また謎が増えた」と私が言うと、彼女は笑った。

「でも本当なのよ。この二年間、特に何事も起こらなかった。会社と部屋の往復。誰も私を好きになってくれないし、心躍る瞬間も、リラックスする瞬間も無し──そりゃまあ、美味しいご飯を食べるときはたしかに多少心が躍ったけれど──とにかく、何も起こらなかった。ここに来るまで、私は笑い方を忘れてしまってるんじゃないかと思ったぐらい」

「でも、君の笑い顔は前と変わらず可愛らしい」

「私の顔を褒めるのはあなたぐらいよ。親にだって言われたことないもの」と彼女は言った。「他には?」

「他には、とは?」

「他に聞きたいことは?」

 私は考えた。

「そうだな。聞きたいこと、というより、君について話したいこと、という方が近い」

「それ、いいわね」と彼女は言った。「ねえ、一つ提案があるの。そのお話が長くなるなら、ワインでも飲みながらゆっくり話して。ウィスキーでも、ビールでもなんでも。どうせあなたのことだから、部屋にお酒ぐらい常備してるでしょう? 久々に飲みたい気分なのよ」

 そこで私たちはそうすることにした。上手くいけば、完全なる酔っぱらいの再臨だ!

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