第15話 彼女はおそらくロマンチストになった

 日本に帰ってきてからの私は、比較的心穏やかに日々を過ごしていた。その間に私はこの文章を書き始めたわけだが、その他にも、例のスペインの記事を読んで、私に依頼を持ち混んできた雑誌がいくつかあった。

 私はいっぱしの気分でそれらを引き受け、それらのうちのいくつかが、また私の名前つきで活字になった。まずまず順調な再スタートと言っていいだろう。初めのうちはナオを通して話が持ち込まれていたが、そのうち、私に直接持ち込まれる記事も増えていった。

 そうして数週間が過ぎるあたりで、私はしばらくナオに連絡を取っていないことに気づいた。スペインでの親切の交わし合い以来、私とナオは、特に恋人関係というラベルを自分たちに貼り付けていたわけではなかった。ナオはスペインの最後の数日間、初夜の熱狂に比べれば幾分トーンダウンしていたし、何か別のことを考えているような雰囲気だった。そして私の方も、なんとなくの気恥ずかしさを覚えるようになっていた。


 重要な教訓。愛は消えても親切は残る──ただし、自分が親切をしているという自覚があれば、の話だが。


 ともあれ、私はナオの声を聞くために、彼女の携帯電話の番号をコールした。彼女は出なかった。念のために彼女の会社に電話すると、木崎は数日前にしばらく休むという連絡があってから、会社には姿を見せていない、という答えが返ってきた。風邪かなにかだとは思うが、もし彼女のことで何か分かったら連絡を下さい、と向こうの方から頼まれたほどだ。

 電話を切った後で、私は考えた。彼女は体調不良だからと言って、自分の仕事をほっぽり出すような人間だろうか? 答え──今までの彼女であれば、ノー。

 私は彼女の部屋へ行ってみるべきだと思った。この事実はわりと人に驚かれるのだが、私はナオから、彼女の部屋の合い鍵を預けられている。彼女が私に合い鍵を渡したのは、恋愛感情などというものではなく、ただ単にその方が都合がいいからと考えただけのことだろう。実際、私は何度か、彼女の忘れ物を部屋まで取りに行かされたことがある。

 というわけで、私は彼女の部屋のインターホンを押し、誰も出なかったからといってすごすごと引き返す必要はなかった。ロマンチストの中性さ、ここに勝利を収めり、といったところだ。


 私は合い鍵を使って部屋に入り、リビング、寝室、風呂場、トイレを順に見回ったが、誰も発見できなかった。

 ナオの部屋は、彼女らしく整然としていた。私はいろいろと探してみたが、彼女の行く先の手がかりになりそうなものは何も見つからなかった。私はためしに「サンタ・ルチア」を三度歌ってみたが、ただとなりの住人が拳かなにかで壁をどんどんと叩いただけだった。どのみち期待していたわけではない。ただ、他にすることを思いつかなかっただけだ。

 私はそこで回れ右をして、静かに鍵を閉め、自分の家に帰った。


 ここで私の名誉のために言わせてもらうと、私を回れ右させたものは、恐怖だとか、関わり合いになるのを避ける臆病さだとか、そういったことではない。

 私を回れ右させたのは、例のロマンチスト特有の衝動だ。私は彼女の気分を良くしてやろうとしただけだった。彼女が何かをしようと決めたのなら、余計な詮索はして欲しくないはずだ。だから私はそうした。

 ナオには姿を消す理由があった。私やエマと同様、ナオの体中の細胞は、一度全て入れ替わっている。

 彼女はおそらくロマンチストになったのだ。



 さて、今の私には話し相手がいない。エマは数日前から姿を消しているし、ナオはご存じの通りだ。正確に言うと、もちろんエマは以前から話し相手ではない。彼女が私の部屋のあらゆるものに興味を持って見入っている間、私の方が勝手に喋っていただけのことだが、それでも壁に向かって喋るよりははるかにマシだった。

 ナオがいなくなって初めの一週間の私はまずまずだった。依頼された原稿を書き、編集者とたわいもない話をし、多少残っていた翻訳の仕事を精力的に片付けた。私は自分が何かを築き上げている気分でほくほくだった。

 ところが、全ての仕事が一段落すると、私は途端に情緒不安定に陥った。

 私は頭をかきむしり、部屋の中を意味もなく歩き回った。

 私は夜中や早朝の散歩をし、しばらく止めていた煙草を再び私の人生に抱き込んだ。

 私は何かを食べる度に嘔吐を催し、そうかと思えば今度は際限なく食べ始めた。

 私は突然冷静に部屋の掃除をしたあとで、急に一人で嗚咽をあげ、泣き出した。

 しばらくの間、私の部屋は精神病棟さながらだった。私の茹でたキャベツは、ビッグ・サンダー・マウンテンもなんのそのの急降下と急上昇を繰り返した。その時の私の姿は、タップダンスを踊ろうと悪戦苦闘する木星人にそっくりだった。


 今? 今の私はアコヤ貝のように安らかだ。私はたった今、エマの真似をして、コーヒー・フィルターの入ったゴミ箱や、ギターのペグや、風呂場の水道の蛇口をのぞき込んでみた。結果は何事も起こらず──といって、特に問題は無い。私のような訓練を受けたロマンチストは、一度発狂しても、すぐに回復してこう言うことができる。

「いろいろあるけど、なんとかやってる」

 もちろん、それには医者が処方してくれる精神安定剤が非常に役立つ場合がある。私の診察をした精神科医に祝福あれ。


 そのあたりのどこかで、私の部屋のインターホンが鳴った。

 私が鍵を外し、ドアを開けると、そこにはエマがいた。私がほっとして「おかえり」と言うと、彼女は「ただいま」と言った。

 ──ただいま?

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