心臓を濯げキアウィトル
藤田桜
心臓を濯げキアウィトル
雨の神は僕らを求めた。
長いこと都は乾ききって、
これは誰かが御許に行くよう求めていらっしゃるからだ。
恐れて低い身分の者を送れば涜神に当たる。
高貴なものでなければならない。
そして、妹が選ばれた。
貴族で最も名誉のある家の娘で、母上に似て美しかった。
笑うと花が咲くように可愛らしかった。
肌は宝石のように透明だった。
髪は長く艶やかだった。
名誉の家に生まれたのだから、とうぜん名誉を遂げなければならない。
その兄である僕も候補にいたんだけれど、歳が大人に近づきすぎていた。
神官たちは彼女が選ばれたことを伝えた。
明日、彼女は着飾って、可憐な血でこの都を潤す。
この数日の間、彼らは妹を手厚くもてなした。
華やかな踊り子たちを側に置き、退屈することがないように、毎晩休む暇もなく宴が催され、各地から運ばれた珍味が供せられる。
好物の蜂蜜を食べたいだけ食べれると聞いたときは本当に嬉しそうだった。
その時の幸せそうな笑顔が今でも瞼の裏を離れない。
そう感慨にふけっている時のことだった。
顔馴染みの貴族が「どこにいらっしゃるか知らないか」と訊いてきた。
なんでも、妹が席を外してから中々帰ってこないらしい。
心配になって探すと、少しして、木陰で涼んでいるところを見つけた。
後ろから声を掛けると、小鳥のような瞳を見開き、慌てて振り返るのがあんまりおかしいので、笑ってしまった。
「もう、兄さまはひどいです」
「ごめんごめん、そんなつもりはなかったんだ。許してくれ」
「今回だけですよ? 次やったら本っ当の本当に怒りますからね」
「うん分かった。もう笑わないよ」
「なら許します」
彼女は茶目っ気たっぷりに微笑んで、それから宮殿の外を眺める。
僕も同じ方を向いた。
眼下の街並みは地平線を隠すほどだった。
ここは小高い丘にある。
生温く、湿った風が首筋を撫でるので、くすぐったい。
まるで互いの肌に触れているようだった。
いつかのことを思い出す。
妹が生贄に選ばれてからは、ずいぶん遠く離れてしまったように思っていたけれど、今この時だけは心臓の鼓動さえ聞こえるような気がした。
でも、いたずらに触れてはいけない。
僕はもう子供じゃないし、妹だって神前に捧げられる身だ。
ふざけてじゃれ合うには立場が歪過ぎた。
翡翠や貝殻の細工、ケツァールの羽根飾り――美しい青が彼女の黒い髪に凭れかかっていた。
それらは身じろぐにつれて、わずかにぶつかり合い、心地良い音を立てる。
「きれいになったね」
「本当?」
「うん。世界一きれいだ」
「ならよかったです。神様の御許に行くんですから、みっともないままじゃいけませんもの」
それからは、とりとめもないことばかり話していたが、ふたりともあまりに遅いのを心配して召使いたちが迎えに来た。
神殿で寝泊まりすることになっている妹と別れ、僕は屋敷の方へと歩き出そうとした。
「ねえ、兄さま」
背後からかすかな声が聞こえた。
振り返ると妹が何度も口を開こうとして、躊躇い、そうして俯いたり顔を上げたりを繰り返していた。
「どうしたの?」
もし言いづらいことだったとしても安心して言えるように、なるべく優しい笑みを浮かべ、静かに彼女が口を開くのを待ってみる。
けれど、それはついぞ語られることはなかった。
黙ったまま、ぼろぼろと涙をこぼしている。
――ああ、やっぱり妹は怖がっているんだ。
神の伴侶とは言っても、死ぬということと同じ意味なんだから。
僕が代わりになれたらどんなによかったろう。
けれどそれが叶わない今、すべきことはただひとつだ。
ずっと一緒に過ごしてきた大事な肉親なんだ、見捨てるわけにはいかない。
例えそれが世界を滅ぼし、神に背く罪であったとしても。
「行こう」
駆け寄って彼女の手を引いた。
少しの躊躇いの後、頷くと、金の足環を打ち鳴らして走り始める。
驚いた侍従たちの悲鳴を無視して広場を抜け、漆喰で塗り固められた地面を蹴っていく。
あてなどなかった。
神殿のある地区から市街地へと降り、どこか遠くの国へ行こうと思った。
そんなことができるはずはないれど、妹だけは助けたい。
都市の外に出ても密林が果てしなく広がっているだけだ。
獣に出会えばひとたまりもないし、道を辿って隣国に着いたとしても結局そこで生贄にされることになるだろう。
装身具を渡せば匿ってくれる農民はいないだろうか。
――いや、儀式が彼らの生活の明暗を左右する以上、そのまま神官たちに通報されるのがオチだ。
豪華な身なりの男女が切羽詰まった様子で走っているというのに、通りを行く人々は誰も関わろうとはしなかった。
目を逸らし、道を開けて、決して神への供物に触れることがないようにした。
騒ぎに気付いて追いかけてきた貴族も同じだった。
もう少しで捕まえられるという肝心なところで躊躇って、逃がしてしまう。
僕達にとっては幸運なことだった。
が、それも長くはつづかなかった。
民衆たちの混乱は最高潮に達し、収拾をつけるためには手段を選んでいられなくなったらしい。
とうとう二人とも取り押さえられてしまった。
「愚かなことはおやめください。いったい何の故があって神の花嫁を攫うのです」
――そういうことにしてくれるのか。
それなら妹は罪人として死なずに済む。
彼女は「錯乱した兄に誘拐されただけ」の無垢の存在のままでいられる。
息が乱れ、体内の血が出口を求めて暴れているような感覚に襲われた。
それでもへばっているわけにはいかない、拘束を振り払おうとしながら叫ぶ。
「寄越せ! ああ、畜生! 僕は認めないぞ、それを寄越せ!」
彼女の泣きそうな目を見ると、僕まで耐えられなくなる。
罪悪感と後悔のあまり、つい視線を逸らしてしまった。
――情けなかった。
いたずらな希望を見せるだけで、妹ひとり助けられない。
苛立ちに任せて暴れつづけた。
抑えつける腕の力が強くなる。
やがて僕が力尽きると、神官たちは担いで運んでいった。
今日は処刑と儀式の日だ。
穢れたものと神聖なものを同じにするわけにはいかなかったので、それぞれを遠く隔てて執り行うことになった。
お互いの死に目にも会えないまま僕らは死んでいく。
今ごろ妹は黒曜石のナイフで心臓を取り出されているだろう。
彼女の皮膚を纏って神官は舞を踊るはずだ。
少女は香や花の香りに彩られた祭壇の上で眠っている。
一方、僕はと言えばどうだろう。
乾いた血の臭いのする処刑場で、死を今かと待っている。
情けなくて、行き場のない感情が体の内を暴れてまわった。
そのまま数刻ほどして、空が曇り、雨が降り始めた。
街中から歓声が上がっているのが分かる。
彼女は死んだんだ。
雨の神の御許に召されてしまったんだ。
苦しくなって、自分の胸を掻きむしるけれど、一向に楽にならない。
喉元から何かがせり上がってくる。
それは亡霊のような呻き声を上げながら、何も生み出しやしなかった。
肌が濡れるほどに体温は奪われていく。
雨がこの悲しみさえ濯いでくれたらよかったのに。
もうどうすればいいのか分からなくなって、ただただ泣きつづけた。
心臓を濯げキアウィトル 藤田桜 @24ta-sakura
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