二人の秘密基地
しらす
二人の秘密基地
「陽介おじさん、また靴の絵描いてるの?」
いつものようにキャンバスの前で中腰になり、指先で絵の具の色を整えていると、背後から甲高い少女の声がした。
振り返るとそこには、些か不機嫌そうな顔の姪っ子が立っていた。白いTシャツに膝丈のスカート姿で、画板を首から提げている。その画板には、真っ白な画用紙が一枚クリップで留められていた。
そう言えば昨日、娘に絵の描き方を教えて欲しいと兄から電話で頼まれたな、と思い出す。
私は好きで描いているだけで、きちんと絵を習った経験などないから何も教えられないよ、と断ったのだが、兄には承諾の返事と受け取られてしまったらしい。
「佐奈ちゃん、こんにちは」
来てしまったものは仕方ない。私の返事を曲解したのは兄で、佐奈ではないのだから。と気を取り直して笑顔を向けると、彼女はなぜか顔を伏せ、上目遣いにちらりと私を見て、喋るのも億劫そうに口を開いた。
「……こんにちは」
今年の春に中学生になったという佐奈は、いわゆる難しい年頃らしい。兄にも兄の妻にも、最近はつっけんどんな物言いをするし、真面目に諭そうしても聞きもしない、と昨夜電話口でぼやかれたばかりだ。
父親なんてそんなものだろう、と適当にあしらうと、
「お前は結婚もしてないし子供も居ないからそんな事が言えるんだ、無責任な奴め」
と八つ当たりを食らった。
どうも酒が入っていたらしい兄は、その後私に結婚する気はないのか、相手が居ないならこっちで探してやる、いいから早く母を安心させろ、といつものように絡んだ後、不意に佐奈が課題に手間取っているようだと言い出したのだ。
「何か、描きたいものはある?」
「別に……」
腰を屈めたまま訊ねると、佐奈は俯いて首を横に振った。
私が絵を描くのは単純に、描きたいものがあるからだ。描きたいものがあって、表現したいものがあって、初めて絵筆はキャンバスの上で動き出す。
けれどそれ以上の事は、私にもよく分からない。
だから描きたいものが無いとなると、どう教えていいかも分からない。
「そうか、うーん……なら一緒に靴でも描くかい?」
「……いいけど、何で陽介おじさん靴ばっかり描いてるの?」
適当な提案をすると、佐奈は体を横に向けて斜めにこちらを睨んだ。どうも気に障ったようだ。
小さい頃は絵を描くのが好きだった佐奈は、よくここへ遊びに来て、靴ばかり描いている私の姿を飽かず眺めていた。
私は出不精でいつも髪はボサボサ、髭も三日に一回くらいしか剃らない上に、部屋に籠って絵ばかり描いているせいで目が悪く、眼鏡が離せない。たまに出掛けようとすると、みっともないと言って母に服装を直される。
そんな私の所へ、嬉々としてやって来るのは佐奈くらいのものだった。
油絵具はうっかりすると発火する危険物だから、下手に触られると困る、と最初は追い出そうとしたのだが、彼女は私の後ろに座って、大人しくキャンバスと手元をじっと観察していた。
やがて自分も絵を描きたくなったのか、紙と鉛筆を持ち込むようになり、黙々と好きな絵を描いていた。私の描く靴を模写したものもあれば、部屋に置かれた画材や時計、どこかで拾ってきた木の葉をスケッチしたものもある。
そうして彼女が描いた絵は、兄が気に入って持ち帰り、家のあちこちに飾っていると聞いた。
いつの間にか佐奈は私の所に来なくなっていたが、あれ程夢中になって描くくらいだ、今でも絵を描くのが好きなのだろうと思っていた。
しかし昨夜の兄の話では、小学校の六年生になった頃から、彼女は画用紙をいくら用意しても、画材を新たにプレゼントしても、全く絵を描こうとしなくなったと言う。
何か絵の事で嫌な思いをしたのか、訊いても答えない。美術の授業は適当にお茶を濁して済ませていたようだが、夏休みになって絵を描いてこいという課題が出たのを、白紙のまま提出する気でいたそうだ。
「靴が嫌なら、外に出てみるか」
「嫌とは言ってないじゃん、何で靴なの?」
宥めようとして立ち上がると、佐奈は画板の端を握り締めて私を見上げた。
ふとその顔をじっと見返すと、黒い二つの目はきちんと私の姿を捉え、真っすぐに私の目を見ていた。
てっきり機嫌が悪いのだと思っていたが、その目には苛立ちの中にどこか寂しいような、悲しいような光が混じっている。
私は反射的にもう一度腰を下ろした。
「本当に聞きたいかい、佐奈ちゃん」
「……うん。知りたい」
頷く佐奈は、とても静かで真剣な声で答えた。
今ではすっかり遠くなった、夏の初めの記憶だ。
小学校の五年生の頃。私は学校のプール脇の一角をこっそり秘密基地にしていた。
外から見ると四つん這いにならなければ入れないような、コンクリートと貝塚の木の隙間があるのだが、そこをくぐると貝塚の裏側が大きく抉れていて、子供二人は座って入れる空間があった。
そう、入れるのは二人。私の他にもう一人。そこでいつも一緒に過ごしていた少女がいた。
「陽介君、靴は脱いでよ」
「あっ、ごめん明日香ちゃん」
元々その秘密基地は、一年上の女の子、明日香が過ごしていた場所だった。彼女はそこに、廃材と思しき木の板を敷き、好きな本を持ち込んで読んでいた。
運動靴でそこに上がると汚れてしまうので、靴を脱ぐのが一つだけのルールだ。
「今日は何を描くの?」
いつものように自由帳と鉛筆を持って来た私に、明日香は興味深そうに訊いて来る。
「セミの抜け殻」
そう言って指に止まらせていた、茶色い半透明の抜け殻を差し出すと、彼女は驚いて飛び上がった。
「わっ、やだっ!虫嫌い!」
「もう動かないから大丈夫だよ」
「動かなくても嫌だよ!まんまセミの形なんだもん」
抜け殻だって嫌だ、と首を振る彼女は、「秘密基地にそんなの持って来ないで!」と言って嫌がった。仕方なく私は外に出て、貝塚の木の表に抜け殻を止まらせてから、また明日香の隣に戻った。
「それじゃあ、今日は何を描こうかなぁ」
首を巡らせて描くものを探してみたけれど、目につくのは貝塚の木の枝葉や、足元に敷いた木の板、それに明日香が持ち込んだ本くらいだ。
どれも何度か描いたことがある物ばかりで、私は困った。
「ならさ、靴はどう?」
「ええっ、靴?靴かぁ……なんか難しそう」
「難しそうだからいいじゃん。時間かかるなら、しばらくは靴だけ書けばいいよ。決まりね、今日から靴を描くの!」
そう言うと、明日香は自分の運動靴を私の前に置いた。
この秘密基地は二人のものとは言え、元は彼女が見つけた場所だ。ここで過ごしたいのなら、明日香の決めた事は無視できない。
「分かった。頑張ってみるよ」
それから私は、秘密基地にやって来ては靴を描くようになった。
描いてみると、靴というのは想像以上に難しかった。沢山のパーツに分かれていて、平らなとこもぐっと丸みを帯びたとこも、膨らんでいるとこも凹んでいるとこもある。その上明日香の運動靴は紐靴だった。
交互に組まれた紐をきちんと描こうとしているうちに、靴全体の形が崩れてしまう。かと言って紐を抜いて描くと、違う靴かと思うくらい情けない靴が出来上がる。
何度も何度も描いたけれど、なかなか思うような絵にはならなかった。かっこよくて、すっきりとしていて、こんな靴で歩きたいなと思うような靴の筈なのに、私が描くと、無骨で変に拉げて、足なんて入りそうにない靴になってしまう。
そうこうしているうちに季節はどんどん過ぎて、いつの間にか冬になっていた。
「今日で最後だよ、陽介君」
いつものように脱いだ靴を私の前に差し出しながら、明日香は言った。私は一瞬、その意味が飲み込めずに彼女の顔をじっと見た。
「明日で卒業だもん。私が六年生だってこと、忘れてた?」
「……うん」
言葉が出なかった。いつも当然のように一緒に居た彼女が、明日から居なくなる。そしてもう、二度とここには来ないのだ。
それを悟った瞬間、私は初めて彼女と別れたくないと思っている自分に気が付いた。
けれどもう、何もかも遅いのだ。彼女と私は、ただ秘密基地で一緒に過ごしただけの、友達とも言えないような関係だった。今日が卒業式だという事すら、気が付かないほどの。
「靴、まだ描くでしょ?」
明日香はそう言うと、とても優しい顔で笑った。
おめでとうとか、中学生になっても頑張ってとか、何か言えれば良かったのに、私は何も言えないまま明日香と別れた。
そうして卒業式を在校生として見送り、次の日は呆然としたままいつものように秘密基地に向かった。
もうここに彼女は居ないのに、それでも私が他に行ける場所は無かった。
貝塚の木を潜って、靴を脱いで板の上に座る。右手に持った自由帳を広げ、何を描こうか、と首を巡らせたところで、私はある物に気が付いて目を瞠った。
貝塚の木の大きく抉れた裏側、いつも明日香が靴を置いてくれた場所に、それは当然のようにあった。夏からずっと、毎日描き続けたあの運動靴だ。
私はそろそろと手を伸ばして、靴を持ち上げた。これは私が見たい幻で、本当は靴なんかないんじゃないか、と思ったけれど、それはちゃんとそこにあって、手に触れる感触もすっかり馴染んだものだった。
「明日香ってば、どうやって家に帰ったんだよ」
ふふ、と少しだけ笑った。同時に涙が溢れてきて、私は暫く靴を抱いたまま泣いた。
「……そっか。陽介おじさんにとっても、靴は秘密基地の思い出なんだ」
私の話を座ってじっと聞いていた佐奈は、最後まで聞き終えるとくしゃりと笑った。
「そうだね。すごく大事な思い出なんだ。靴を描いているとね、大好きだった人と、その人と過ごした場所や時間を、何度でも思い出せるんだ。他の誰にも秘密だけどね」
靴の絵を描き続けたからと言って、またあの日の明日香に会えるわけではない。
一年後に同じ中学校へ進学し、彼女の姿を見かけた事はある。けれど目が合っても、どちらからも声を掛けなかった。
私と彼女が肩を並べて笑い合って過ごした時間は、あの秘密基地に置いて来た秘密の一つなのだ。
「私も、秘密にしておけばよかった」
ぽつりと、佐奈はそう呟いた。不意に俯いたその肩に手を伸ばすと、佐奈の体がびくりと震えた。
「話してごらん、何があったの?」
ぽんぽん、と軽く肩を叩くと、佐奈は顔を上げて私と目を合わせた。するとその両目の縁から、じわりと涙が盛り上がった。
両腕を軽く広げて、細い肩をそっと抱き寄せた。最初は体を固くしていた佐奈は、しかし背中を優しく撫でると、不意に私の胸元にしがみついて来た。
「話しちゃったの、好きな人に。私ここで、陽介おじさんが絵を描いてるのを見たり、一緒に絵を描いたりするのが大好きだったから。他には誰も来なくて、おじさんとおじさんの好きな靴の絵がいっぱいで、私も誰にも何も言われずに絵が描けてさ、秘密基地みたいに思ってた。だから好きな人にも教えたかったの。でも、気持ち悪いって言われちゃった。意味が分からない、気持ち悪いって」
「……酷いやつだね」
「言わなきゃ良かった。ずっと好きだった人なのに、嫌いになっちゃった。ここに来るのも、絵を描くのも、全部嫌になっちゃった。好きだったのに!」
好きだったのに、ともう一度叫んでから、佐奈はもう言葉に出来なくなったのか、声を上げてわんわん泣き出した。
「辛かったね、佐奈ちゃん。辛かったね」
窓の外から風が吹いてきて、顔を真っ赤にして泣く佐奈の頬を冷ましていく。
嫌いになったと言いながら、それでも大好きなもののために泣き続ける佐奈は温かい。
嫌いになったのではないのだ。絵を描くことも、この場所も、酷いことを言った彼でさえも。全て嫌いになれないから、こんなに泣くほど辛いのだ。
その思いは、きっと私が靴へと向かう時と同じものなのだろう。
「好きなままでいていいんだよ、佐奈ちゃん。少なくとも私は、それを気持ち悪いなんて言わない」
誰に分かって貰えなくても、その思いは尊いものだ。だから忘れようなんて思わないで欲しい。
「うん……」
佐奈の背中を撫で続けていると、彼女はしゃくりあげながらも、私の胸に顔を押し付けるようにして頷いた。
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