第11話、オリジナル

 血煙の中からゆらりと立ち上がったのは、「34」ひとりであった。

 赤い雫が左目の下に涙のような痕を残す。傷付いた唇から流れる朱を舌で拭いながら、彼はそっと倒れたヒカルの方を振り向いた。

 ヒカルは冷たい木の床に頬をつけ、ほとばしる鮮血も鮮やかに、自分のすぐ足元に横たわっていた。

 「34」は慌てて目をそらした。彼には達成感も新しい生活への期待も無かった。ただ恐怖のみであった。

 音の無い部屋で、彼はふるえていた。夜の静けさが彼の心をかき乱した。この部屋にたったひとりで立っていることが、彼にはたまらなく恐ろしかった。泣きだしそうな程だのに、涙は一雫も落ちない。ただ赤いどろりとしたものが、顔の左側を濡らし続けた。

 アパートの階段を昇ってくる複数の人間の足音に、彼は我にかえった。思わず部屋の中を見回す。今誰かに入ってこられたらまずいと一瞬慌てたが、よく考えてみれば他の部屋に用があるのだろう。未だ過度の興奮状態にある自分をあざ笑い、心を落ち付けようとした。

 だが足音は次第に近付いてくる。どの部屋の前でも立ち止まる気配はない。

 一番奥にあるこの部屋になおも近付いてくる。

 「34」は焦り、部屋への侵入を防ぐ手立てを必死で考えだそうとした。入ってくるとしたらドアからだ。どうすればドアを開けられぬようにできるだろう。

(そうだ、鍵だ)

 「34」はドアの鍵に手をのばそうとした。

 その瞬間、ドアは開けられた。

 冷たい夜風が室内に流れこむ。

 夜の住宅街を背に、アパートの外廊下に背広姿の男が四人、立っていた。重々しい威厳をそなえた初老の男、その後ろに、薄い髪を撫でつけた眼鏡の男と恰幅のいい短髪の男が並んでいる。一番後ろに背の高いひょろりとした男が立っている。

 表の道路には、街灯が弱い光をしらじらと投げかけ、波板のひさしをすかして黄色い月の輪郭がぼんやりと分かる。

 正面に立っている初老の男は、その右手に銃を握っていた。その男の顔を見て「34」はふるえる声で呟いた。

「――オリジナル……」

 次の瞬間、男の握っていたピストルが火を噴いた。「34」は体をひねってかわそうとしたが、弾丸は彼の左腹部にくい込んだ。

「ああっ……」

 と声を上げ体をくの字に曲げて、「34」はその場に倒れこむ。三十四番の布がたちまち赤く染まる。押さえた右手の指の間から血液がしみだす。

「お前は鷲原の工場の作業員、三十四番だな?」

 初老の男が確かめると、うずくまったまま「34」は小さくうなずく。

「なぜ工場から逃げ出した。偶然、貨物列車に乗り込んでしまったのか? それとも初めから故意に乗り込んだのか?」

 「34」は答えない。右手で腹を押さえ左手で体を支えたまま、垂れた髪の間から上目づかいに初老の男を睨みつけている。その眼は怒りに満ちていた。初老の男は銃を握っていない左の手で「34」の髪をつかみ、その顔を自分の方に向けさせた。

「答えなさい、偶然貨物列車に乗ってしまったのか?」

 抵抗の色がありありとうかがえる瞳をのぞき込む。彼の口調は静かだったが、その声には有無を言わさぬ迫力があった。

「そうだよ。初めは偶然だった。初めはな」

 「34」は髪をつかまれ上を向かされたまま、傲慢な口調で答えた。血に濡れた唇に嘲笑さえ浮かべて。緊張によって寡黙になるはずの彼は、自分でも驚くほど冷静に返答していた。

「初めはということは、研究員のヒカルと接するうちにその生活に憧れたのか。あわれなものだ」

 初老の男の言葉に「34」は声を荒らげた。

「あわれだと? ふざけるな。おれは工場にいる何も知らぬ連中とは違う。違くなれたんだ」

 彼は左手を胸に当てて、今までには無い自信に満ちた口調でそう言った。灰色のタイルに赤く手形が残っている。

「全く愚かしいことだ。違うお前になれた結果がそれか? 大切な研究員を殺してしまって」

 玄関に座り込んだ「34」の髪をつかみあげたままそう言った男の表情には、明らかに研究員の命を惜しむ様子が見て取れた。それは人の死を悼むというよりは、物質的な損失を悔やむようであった。

「大切な? おれもヒカルも同じだろう。どこが違うというんだ!」

「その考えが愚かしいのだ。お前は何の才能も持たないただの凡人だ。凡人は凡人としておとなしく幸せに人生をまっとうすればいいものを。こんなことをしなければ、お前はもっと長く生きられたんだぞ」

 男はゆっくりと片手に握ったピストルを持ちなおした。

「あんな生活ならば何十年続けたって死んでいるのと同じだよ」

 「34」はせつなげに言う。

「そうか?」

 男は冷たく言い放ち「34」の髪をつかんだまま、その眉間に銃口を押し当てた。

 「34」の表情に初めて焦りと恐怖の色が浮かぶ。ピストルを突きつけられてようやく、死というものが現実の恐怖として彼を襲った。

「なぜ? なぜおれを殺すんだ。あんたは――あんたはおれだろう?」

 「34」のその言葉に、後ろで眼鏡の男と短髪の男が思わず目を合わせる。ふたりの所作に気が付いた初老の男は、「34」の髪を握っていた手に力を込め、その体を振り飛ばした。

「要らぬことを」

 と、口の中で呟く。小さく舌打ちして、左手に残った数本の黒髪を、まるで汚いものにでも触れたかのように払い落とす。彼の口元は怒りに歪んでいた。

 「34」は床にうつぶせに倒れたまま荒い呼吸を繰り返していた。力をふりしぼって起き上がろうとする「34」の背中に向けて、初老の男はもう一発打ち込んだ。

「――不幸なものだ……」

 そう呟いた男の声には既に怒りも皮肉も無かった。ただ重い悲愴のみであった。

 「34」は瀕死の傷を負いながらも男の言葉に反駁を加えようと声をふりしぼった。「おれは……不幸ではない……おれは無知ではなかった……だから夢を追えた」

 「34」は血を吐きながらも言葉を続けた。

「悔いは…… 無い――」

 静かに瞼を閉じる。

「叶えられぬ望みを持つことが幸せか? それとも叶うと信じていたのか。お前は無知だよ。幸せを知らなかった――知ろうとしなかった。作業員としての、ただの凡人としての幸せをね」

 「34」の答えは無い。そのうつぶせに倒れた体の下から血が流れだす。

 灰色のタイルに朱が流れ、赤く染まってゆく。




 窓の無い建物がぬっと建っている。

 空はどこまでも朱を流したように赤い。その平たい建物にも朱が流れ、灰色の壁は赤く染められてゆく。

 中では大勢の人間たちがただ黙々と動いている。

 青白い蛍光灯が冷たく照らしだす中、震えるような機械音だけが間断無く続く。

 若者も年老いた者も皆、胸と背中に番号札をつけている。「34」の番号札をつけた者は見当たらない。

 工場は今日も変わりなく動いている。

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No.34 ~労働のために大量生産された凡人の一人が反逆を試みる~ 綾森れん@初リラ👑カクコン参加中 @Velvettino

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