第10話、成りかわり
凍てつくような月光が、アパートの階段を冷たく照らし出している。
階段裏に潜む男に、その影が縞模様となって黒々とうつっていた。
アパートの外壁に寄り掛かり、時折遠くから届く町のざわめきに、静かにうつむいているように見える。
だが彼の組まれた腕の中でその指先は、恐れと期待の入り交じった興奮にふるえていた。背中から伝わるひんやりとしたコンクリートの感触も、彼の過度の興奮を鎮める役には立たなかった。彼は待ち続けた。ある者の帰りを。
車が表を通る。
ヘッドライトの眩しさに、彼は目を細め腕を解くと左手をかざした。
再び静けさの訪れた階段の陰で、彼は自分の両手をみつめ低い声で呟いた。
「もう、おれはおれではない。工場の連中とは永久におさらばだ」
「34」は、再び工場を抜け出した。以前と同じ方法で、しかし今度は故意に。
殆ど笑わぬ彼はひとり暗闇の中、瞼を閉じ恍惚とした笑みを浮かべた。
足音に、はっとする。その顔から笑みが消える。壁から身を起こし虚空を睨みすえ、耳をそばだてた。
誰かが街灯の下を通り過ぎ、こちらへ近付いてくる。
(間違いない)
胸のうちで呟いて、ゆっくりと唇を舐めた。頭上の階段を黒い影がのぼってゆく。夜の静けさの中に金属音が響く。
影が二階の廊下までのぼりきったことを確かめてから、わだかまる闇からそろりと抜け出し、足音を忍ばせ一段一段踏みしめるように階段をのぼった。
月が明るい。
影は端の部屋の前で、小銭入れのキーホルダーにつけた数本の鍵から家の鍵を探しているところだった。
彼はなるべく左に並ぶドアから離れ、手摺りに寄り添うようにして近付いてゆく。月光が反射し黒髪を銀色に変える。
その男が鍵を回したとき、彼はその首にうしろから手をまわし強く引いた。「――三十四!」
男は鍵から手を放す。
「もうここへは来るなと――」
「許せ。ヒカル」
顔も見ずに名を呼び当てられたことに驚きながらも、「34」の声は冷静だった。
右手で相手の体を押さえつけ、首にまわした左手に全身の力を込める。
ヒカルは必死で抵抗した。首を締め付けてくる腕に噛みつきたかったが、下を向くことは不可能だった。ヒカルは両手で首にからみつく腕を引き離そうとした。意外と華奢なわりに恐ろしい力だ。苦しくなってもがくように首を回したヒカルの瞼に、「34」の髪がふれた。月に照らされ色を失った髪が。そして青白い月光を浴びた顔にはりつく冷笑を見た。
ヒカルはぞっとした。「34」が自分のアパートを去るとき一瞬見せた、蛇のような眼を思い出した。あの眼の理由が分かった。言葉にならぬ気味悪さに支配され、怖くなったヒカルは思いっきりかかとで「34」のまたぐらを蹴り上げる。全身全霊の力を込めてからみつく腕を抜けるとドアを開け、「34」と共に部屋の中に転がり込んだ。
二人は息を詰めてじりじりと動きながらも互いの距離を一定に保っていた。
ヒカルは玄関のすぐ脇にあるキッチンの方へ、後向きのままゆっくりと近付いていく。部屋の隅に追いつめられれば逃げ道は閉ざされるが、流し台の下を開ければ包丁がある。
調理台の上を滑らせていた右手が、今朝出がけに水を飲んで放置してあったグラスにあたる。何一ついつもと変わらなかった今朝の空気が、まだグラスの中に残っていた。そしてつい先程まで――ドアの鍵をまわしたときまで、それはいつもと何ら変わらぬ日常の風景だったのだ。
だが一瞬のうちに、当然続くはずの日常は手の届かぬところに転がり落ち、自分は命を狙われる身となった。その転換が、ヒカルにはこの上もなく恐ろしいものに感ぜられた。なぜ、と誰かに問いたかった。
彼は「34」の冷たい光を宿した瞳から全てを悟った。だが、なぜそこまでという疑問がヒカルに説得という道を選ばせた。
「よせ、よせよ」
ヒカルは、はやる相手を鎮めようと繰り返した。
その一方で、「34」には見えぬよう自分の体で隠しながら、震える右手で流し台の下から包丁を取り出し、それを後ろ手に握りしめた。
「無理だ。僕を殺しても君は決して僕にはなれないよ」
彼は興奮のあまり、熱に浮かされたように饒舌になった。
「僕は君に会ってから――君から工場の話を聞いてから考えたんだ。もしかしたら、僕の才能は人為的に作られたものではないかとね。いや、きっとそうなんだ。父さんも母さんもみんな知らないふりをしていただけで、本当に知らないのは僕だけだったんだ。だから、ね、君が僕になるのは無理なんだ。分かるだろ。
あの工場で何がつくられていたかは分からない。でも僕の研究している汚染物質があの工場から漏れていることを考えれば、汚染物質の問題さえ解決されぬ前に動かなければならないほど、急を要するのだろう。あの工場でつくっているものは、迫りくる危機を解決するほとんど唯一の手段なんだ。でもそのためには秘密を守る作業員たちだけではなく、研究途中に残された汚染物質などの問題を解決する僕のような天才も必要だった。悔しいけどね。だから僕と君たちとでははじめから意図された用途が違ったんだよ」
平素の彼に比べて多少論理性を欠いてはいるものの、喋っているうちにヒカルは次第に平生の自分を取り戻してきた。
ヒカルとは対照的に「34」は、過度の緊張によりいよいよ寡黙になっていた。間合いを取りながら相手の隙をうかがっている。
何も答えぬ「34」を前にして、ヒカルはなおも上ずった声で説得を試みた。
「君はクローンだけど普通の人間だ。でも僕は――僕の脳は、きっと胎児のときに人の手が加えられたか、胚の状態ですでに遺伝子操作をされていたか……
とにかく僕はあまたと作られたクローンの中から選ばれたひとつだったんだ。それは僕でなくても良かったんだろう。健康に育つ見込みのある命ならば。
でも無作為に選ばれたその一瞬で、僕と君たちは全然別のものになったんだ」
「34」には見えぬよう背中に押しつけた包丁を握る手に力が入る。まだ今はこれを使うときではないと彼の理性は告げていた。無意味に包丁を見せつけることは、「34」の興奮をさらに高めることになる。
「さあそこをどくんだ。そんな眼をしなさんな。でないと僕は君を傷付けなけりゃならなくなる。僕等の体には同じ血が流れているんだ。その血をお互いの手によって流さなければならないなんて哀しいだろう? なあ哀しいだろう? 僕等はひとりの人間から、オリジナルから創られた――いや、生まれたんだよ」
「34」はヒカルのどのような呼び掛けにも応じようとはしなかった。乱れた髪もそのままに、燃え上がる黒い炎の如き感情をただ必死で殺していた。
「34」には、自分が動かない限りヒカルの方から仕掛けては来ないことが分かっていた。だからこそ適切なタイミングを捕らえようとするのだが、頭は混乱して役に立たなかった。
腕力ではヒカルに勝っていると信じていた「34」にとって、計画は難なく進行するはずだった。だがいざヒカルを前にすると、普段以上に自分の姿が見苦しく小さく思え、劣等感と屈辱感、そして嫌悪感に縛られ容易には動けなくなる。研究室でさらした自分の醜態が、ぐるぐると頭の中を回っていた。不恰好な自分を思えば思う程、ヒカルになりかわりたいという念は強まる。
今や二人の距離は手をのばせば届く程である。隠し持った包丁を握りしめるヒカルの手は震えた。「34」は狂った獣の如き眼差しで、飛び掛かる時宜を狙っている。「分からないのか? 『34』!」
ヒカルは最後の言葉をかけた。
次の瞬間、「34」の右手が動いた。顎めがけて繰り出される拳をヒカルは一歩退いてかわし、隠し持っていた包丁を「34」の目前に構えた。だが「34」は顔色ひとつ変えることなく右手をヒカルの握る包丁の柄にのばしねじり上げる。その手から包丁を引き抜こうと跳ね上げた刃が、「34」の顎から斜めに左眼の辺りまでを切り裂いた。「34」は傷を負うことなど顧みず、腕力で押し倒そうと包丁を握るヒカルに突っ込んでゆく。二人はもみあいになった。足を払われて倒れたヒカルの上に「34」が馬乗りになる。その顔面を狙いなおも繰り出される包丁を、上半身を大きくのけぞりかわそうとした拍子に、後ろに大きく振り上げた「34」の左手が、調理台の上のグラスにあたった。グラスは凶器の破片となって飛び散る。
研究室でのあの不快な記憶が鮮やかによみがえる。
――赤褐色の液体をたたえた試験管。流し台に叩きつけられ砕け散る。破片にのばした指先が赤く色づく。大いなる敗北感――
「34」はキッチンの床に飛び散った破片のひとつに手をのばした。ヒカルは「34」の両膝に首を圧迫されながらも、再び包丁を振り上げた。だがそれが振り降ろされるより一瞬早く、「34」の左手が――ガラスの破片を握ったその手が、ヒカルの首に到達した。ヒカルの握る包丁から次第に力が薄れてゆく。「34」はその輝くかけらに力を込め、ヒカルの首に押し込んだ。
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