あんみつを連れて

飯田太朗

あんみつを連れて

 妻はあんみつが好きだ。

 

 病床。妻が僕に告げる。

「あんみつは……」

 僕は答える。

「退院したらね」


 しかし妻は続けて訊ねる。

「あなたは……?」


 妻は僕を忘れている。


✳︎


 新百合ヶ丘に来てから長い。

 三十の時、僕が新宿の会社に勤め始めてから、静かな街に暮らしたいと思って選んだのが神奈川県川崎市麻生区の、新百合ヶ丘だ。新宿からのアクセスもいいし、住宅街だから静かでいい。買い物もしやすくどこに遊びに行くにも便利。いい街だった。妻とはここで出会った。


 地元の掲示板サイトで映画鑑賞仲間の募集があった。普段はその掲示板を見ているだけだったのだが、僕はロス出身だったのでやっぱり映画が好きだった。募集を見た時、何か運命を感じた。非科学的かもしれないけれど、電気が流れた気がしたんだ。


 サークルの待ち合わせ場所。

 川崎市アートセンターという施設の前だった。駅の北口から歩いてすぐ。


 駅の南口はショッピング施設もあって栄えているが、北口はすぐに住宅街になって静かだ。その区営の映画館は静けさの中にあった。僕はすぐに好きになった。


 映画館の前に人は数人。


 老人のグループがひとつ。若い女性が一人。


 もしかしてと思った。ネット上で女性のふりをする人は多い。だから僕も、その募集をかけた人間も掲示板でこそ「リンダ」という名前だったが、おそらく男、よくて青年だと、そう思っていた。


 しかし妻は僕の予想を裏切ってそこにいた。


 先に気づいたのは妻の方だった。


「ジョンさん……?」


 間違いない。僕の名前だった。ジョンという名前はアメリカではありふれた名前だったので、隠す意味がないと思ったのだ。


「本当に、外国の方だったんですね」

 まぶしい笑顔。心が温かくなった。妻は自己紹介してきた。

「林田凜子です。『はやしだ』を音読みして『りんだ』」


 この時僕は「音読み」という概念を把握していなかった。でも彼女の言葉を少しでも胸に馴染ませたくて、必死に頷いた。そして父の言葉を思い出した。


「美しいと思った女性には美しいと伝えろ。金がかからない最高のプレゼントだ」


「美しいですね」

 僕の言葉に妻はびっくりしたようだった。でも僕は繰り返した。

「美しいですね」

 妻は照れたように笑った。


「行きましょうか」

 妻の言葉に今度は僕がびっくりした。

「他の人は……?」

 妻はまた、照れたように笑った。


「いません。映画を見る仲間を募集しただけです。あなたしか、来なかったから」


 ポカンとした。僕のいた国では女性が不特定多数にアクセスされる環境に身を置くのは珍しかった。そういう意味でも、彼女は新鮮だった。階段を一歩上る度、踏みしめる度に心臓が鳴った。


 映画を観た。死んだ妻を思ってギターを弾き続ける老人の話だった。僕は泣きそうになったけど、泣かなかった。妻は泣いた。映画が終わってから、妻は小さく「ごめんなさい」と謝った。謝らなくていいと僕は笑った。映画を観て泣けることは素晴らしいことだよ、と。


「よかったら、この後食事しませんか? 感想を語り合いましょう」


 驚いた。女性から呼びかけてきた上に、女性から食事の誘い。ハッキリ言おう。僕の友達に見せたら全員が「こいつは美人だ」と言うような女性からの「食事に行きませんか?」だ。頭蓋骨が固定されたようなものだ。首は縦にしか振れない。


 たくさん話した。何でも、妻はこの辺で映画の記事を書いて生計を立てるライターらしかった。仕事のこと、映画のこと、いっぱい話した。気づけば夜も遅い時間になっていた。時計を見て、僕は慌てて「送ります」と告げた。すると妻は照れたように「お願いします」と笑った。妻を連れて歩いた。妻の家は駅の南側だった。


「また会いましょう」

 別れ際、僕はあの映画館で観たい映画の話をした。本当は別に観たいわけではなかったが、あの区営の映画館の上映スケジュールを見て、記憶に残っていた映画のタイトルを口にした。すると妻は「私も観たいと思ってました」と微笑んだ。


 それから、月に一度くらいのペースで会った。恋人になれたのは三回目の映画で。プロポーズは二十一回目の映画でした。少し気は早かったかもしれないが、僕の運命の女性はこの人だと思った。離したくなかった。ずっと傍にいて欲しかった。


 新百合ヶ丘に、二人で暮らせる部屋を借りた。そこでしばらく暮らしながら、家を買うための貯金をした。

 

 やがて家を買うだけの蓄えができた頃、子供もできた。新居への引っ越しは大変だったが僕が一人で準備した。妊婦に働かせるわけにはいかない。


 新しい家で、妻はかわいい女の子を産んだ。名前は妻がつけた。杏という名前だ。


 杏はいい子に育った。好奇心が旺盛で、大きくなってからよく旅をした。そして奇跡的にも、僕の故郷、ロスで夫を見つけた。


 僕が日本で暮らすのを決意したように、杏もロスで暮らす決意をした。少し寂しかったけど、僕も妻も応援した。


 少しして、孫ができた。この頃妻は仕事を引退していて、ブログを書いてアフィリエイトで収入を得るようになっていた。


 それから少しして、僕も仕事を辞めた。早めのリタイアだったが、妻の収入があったので問題なかった。


 この頃、犬を飼った。この犬は賢くて、僕にも妻にもよく懐いた。妻は犬のことをブログに書いた。散歩のこと、昼寝のこと、かわいく撮れた写真のこと、色々載せていた。


 毎日二人で散歩に連れ出した。公園や散歩道を歩きながら昔話をした。夕方、二人の思い出のあの映画館の前でキスをした。妻はいつかのように照れて笑った。


 妻が病気になったのは二年前だ。


 杏は帰って来れなかった。正確には年に一度、一週間しか会いに来れなかった。杏の夫、つまり僕の義理の息子は「帰ってお母さんのために尽くすべきだ」と伝えたようだが、諸々の運命がそれを許さなかったようだった。


 妻が入院したのは、杏が妻を心配しながらもロスに帰ってすぐのことだった。次に杏が来るのは一年後だ。


 妻はみるみる体調を崩した。


 病名は伏せる。同じような病気で苦しむ人もいるだろうし、この病気で親しい人を亡くした人もいるだろう。この記録は人を痛めつけることが目的じゃない。だから伏せる。


 しかし、妻は病気と治療の進行に伴い、認知症のような症状を見せるようになった。具体的には僕のことも何もかもを忘れた。毎日会いに行く度に、はじめて会ったかのような顔をされた。最初のうち、僕は悲しかった。


 でも考え直した。

 毎日、僕は妻に恋できるのだ。妻が僕に恋するかは分からないが、恋できるような工夫はした。精一杯、お洒落をして、優しい言葉を考えて、話題やお土産を用意して会いに行った。妻は毎日喜んでくれた。


「あんみつは……」


 妻があんみつのことを口にしたのは、医師に宣告されたお別れまで後少しという頃だった。何とかしなければならないと僕は思った。


「どうにかならない?」

 電話で、杏が切実に告げた。

「私が会いにいけない分、せめて……」

 僕は決意した。

 妻のため、杏のためだ。


✳︎


 手押し椅子につかまりながら病院に行った。受付は手短に済ませた。


 看護師も慣れたもので、僕の姿を見るなりすぐに手配を済ませてくれた。椅子のことは聞かれた。


「腰を悪くしまして」


 嘘だった。でも気づかれない、かわいい嘘だった。


 待合室に座る。


 この時が一番緊張した。考えられるリスクはここ。しかしここさえ越えれば後は大丈夫なはずだった。


 僕の正面の座席には小柄な紳士が一人。隣の座席に高校生らしい女の子が一人。 


 待合室にいた人間はそれくらいだった。女の子の方はたまに見る子だった……裏地がピンクの白いパーカー姿、アシンメトリーな髪型が特徴的な子だった……が、紳士は知らない人だし、僕に関心はなさそうだった。僕は気づかれないと確信していた。


 時計を見る。時間もぴったりだ。後十分程度で時間が来る。声を出さないように静かに、ことを済ませばいい。


 しかし唐突に話しかけられたのは、そんな風にシミュレーションをしている最中だった。


「もしかして、リンダさんの旦那さん……?」


 隣に座っていた女子高生だった。僕はびっくりして振り向いた。


「もしかして『ダンナ』さんじゃ……?」

 と、女子高生はスマホを見せてきた。驚いた。画面には妻のブログがあった。


「な、何で僕が……」

 と、動揺すると、女の子は笑った。

「この記事と……、この記事。後はこの記事も」


 女の子がいくつかのブログ記事を見せてくれた。それは妻が僕を「ダンナ」さんとして紹介している記事で、僕の腕が写った写真が載っている記事だった。


 あらかじめ言おう。僕は腕時計のコレクションがあった。どの記事でもバラバラの時計をつけていた。だから「時計を見ただけ」では僕だと分からないはずだった。


「日焼け、してますよね」

 女の子は僕の手首を示した。


「同じ時計をつけるなら、時計の跡に日焼けします。つまり時計をつけている限り見えないような日焼け。でも今、あなたの腕にはしっかりと日焼け跡が見えます。時計を最近変えた、というようなハッキリした跡じゃない。ぼやっとした帯状の、やや太めの跡。頻繁に時計を変えますね?」


 図星だった。彼女は続けた。


「リンダさんと私とはブログ上で交流があって、お互い近くに住んでることは分かってるんです。オフ会は、したことないんですけど」


 女の子は息を継いだ。


「この界隈に住んでいる男性かつ腕時計を頻繁に変える人。さらに条件を付け加えるなら、リンダさんの夫であってもおかしくない年齢。あなたは三つの条件に適合します。『ダンナ』さんである確率は高い」


「確率論だろう」

 僕が笑うと、女の子も笑った。


「でも当たったでしょう?」

 僕は握手を求めた。


「ジョンだ」

 彼女は応えた。


「夏美です。岩田夏美」

 いい名前だった。この季節にぴったりだ。


「お見舞いですか?」

 夏美の問いに僕は答えた。

「ああ、えーっと、『リンダ』のね」

「ご病気なんですよね。私、高校入試の受験勉強をリンダさんの記事を糧に乗り越えた人間でして」


 嬉しかった。僕の妻が、誰かの力になれたのだ。


「入学した頃に、リンダさんが病気を告白して引退を表明しましたよね。あれ、本当に残念で」

「そうか……」


 僕以外にも妻の引退を惜しんでくれる人がいてくれたようだ。


 少し、話した。と言っても五分くらいだ。僕には制限時間があった。だから手短に、でも彼女に失礼がないように、話した。手押し椅子からは手を離さなかった。


 しかし彼女の行動は唐突だった。


 いきなり、本当にいきなり、彼女は、夏実は、僕の耳元に口を寄せた。これが杏だったら、あまりの不躾さに静かに叱りつけているところだったが、しかしそんな考えが後手に回るくらい、夏美の行動は早かった。


 彼女が僕に囁いた。


「病院に、犬を連れてきちゃダメですよ」


✳︎


「何で分かった」

 自分でも驚くくらい静かな声が出た。

「何で分かった」


「まず」

 夏美が指を一本立てた。

「私のこと、見覚えありません?」

「ある」

 裏地がピンクの白いパーカー。それに片方だけ伸びた髪型。たまにこの病院で見かける女の子だ。


「私もあなたに見覚えがあります。それは『ダンナ』さんとしてではなく、この病院に来る『西洋人』の『お洒落をした』『老人』としての覚えです。だから分かる」


 あなたこの間までその椅子を押していなかった。


 それはそうだ。僕がこの椅子を押してきたのは今日が初めてだ。


「その椅子は中にものをしまえます。しかしあなたは……いえ、男性の多くは……荷物をポケットに入れます。持っても小さいカバン。いきなりそんな荷物が入る大容量のものを持ち出すのは、不自然と言えば不自然」


 さて、あなたが「リンダ」さんの「ダンナ」さんなら。


 彼女はここで、待合室にあった時計に目をやった。


「この時間は飼っているワンちゃんの『昼寝』の時間です。私はブログを読んでいたから分かる。この時間帯に『飼っているワンちゃんが昼寝している』投稿はいくつもあった」


 そしてあなたは……。と、彼女は続けた。


「今日と同じ時間に何度かお見舞いに来たことがある。私、見てましたからね。でもその時は特に何も持っていなかった。今日だけ、今日のワンちゃんのお昼寝の時間だけ、大きな荷物を持っている」


 心に氷を落とされた……僕の隣に座っている彼女が、本当に、本当に親切そうな笑顔を、僕に向けた。


「さて、ここで整理します。『今日だけその荷物が必要だった』。『いつもは気にかけなくていいワンちゃんだった』。『そのワンちゃんは昼寝の時間だ』。以上、条件です」


 何も言わなくていい、という風に彼女は前を見た。それからつぶやいた。


「リンダさんのためですね?」


 彼女の言う通りだった。僕は妻のためにこの子を……我が愛犬、あんみつを……連れてきたのだ。あんみつとは愛犬のことだったのだ。


「妻は多分、僕よりあんみつが好きなんだ」

 つぶやくと、夏美が笑った。

「あんみつちゃんの方が好き? そんなことないと思いますよ」


「自信がないんだ」

 僕は本心を告げた。

「妻は毎日僕を忘れる。僕なんかいなかった風に振る舞う。僕は忘れていい存在だったんだ。でもあんみつのことは思い出した。あんみつの方が、大事なんだ」


 自分で言っていて馬鹿げていると思った。でも六割くらいは本気だった。すると夏美が立ち上がった。


「病室、行きましょう」


 意味のない言葉が出た。


「行きましょう」しかし彼女は続けた。


「君の用は……?」

 すると彼女は、受付の方に歩いて行った。それからすぐに帰ってきて告げた。


「受付の人に聞きました。私の番まで少し時間がかかるみたいです。リンダさんの病室を教えてください。私の番が来たら、呼びに来てくれるそうです」


 僕は妻の病室を告げた。受付の人が頷いた。


「行きましょう」


 妻の病室なのに。

 僕は彼女に連れて行かれるようにして妻のいるところへ向かった。頼りなく、手押し椅子に重心を預けて。


✳︎


 ノックをした。病室に入る。


 妻はやはりポカンとしていた。僕なんか、初めて会ったかのようだ。


「やあ」

 僕は短く挨拶をした。


「あんみつだよ」


 手押し椅子の中を見せる。丸まったあんみつ。寝息を立てている、ダックスフンドのあんみつ。


「ああ、ああ」


 妻が声を上げた。それから、本当に、それから。


 妻は、照れたように微笑んだ。そう、まるで、あの日の、あの時の彼女みたいに。


 彼女は小さく告げた。


「愛してるわ、あなた」


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あんみつを連れて 飯田太朗 @taroIda

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