喧嘩

七山月子

(けんか)



少女漫画を読んでいた。カイくんが横にいることに気づかないくらい夢中で。でもカイくんはそんな私が気に入らなくて帰っちゃったみたいだった。

少女漫画を読み終わってリビングに降りたら母が無言で食卓を指差して、あんたちゃんと謝りなさいよ、と言って皿洗いの続きをした。

それで食卓の上にあった薄い紙を覗き込んだら、カイくんの普段は眠たそうな、これに限り怒った文字が踊ってた。

【深雪へ 俺帰る。二時間一緒に居たけど全然不満だから、二日は口聞かないからね】

読み終わって思わず口に出たのは、

「嗚呼、やっちゃった」

だった。


昔から本を読み出すと周りが見えなくなる。音も聞こえないし、下手すると触られても気づかないらしい(気づかない時のことは記憶にないと言ってもいいくらいに集中しているので、らしい、になる)。

だから昔からカイくんを忘れたり、カイくんに黙れと言って(無意識に邪魔を許さない発言をしていたりするらしい、ここまでいくとただの過集中なのかも怪しいが)、カイくんを泣かしたり怒らせたりしょっちゅうだった。

カイくんの書きおいた薄い紙には見覚えがあった。あぶらとり紙だ。

小学生の頃の修学旅行で買った私へのお土産だった。カイくんと私は学区が違ったので小学校6年間は違う学校だったし、中学の時は彼が私を避けるようにしてた(お互い思春期だった)。だから高校生になって突然にお付き合いを申し込まれた時には驚いたし、驚いたついでに何も考えず肯定していた私もまあまあな阿保である。


私の好きな事は読書と映画鑑賞、水族館なんかも好き、美しい風景が好きで写真集は苦手。本物より偽物の良さがあるってカイくんは言って夏祭りに偽物の指輪をくれたけど、写真集の美しい写真が偽物にしか見えない私はまだまだ未熟なのかもしれない。でも指輪は本物だと思う。多分。気持ち的には婚約指輪なんだろうなって気持ちで受け取ったし、そういう顔をカイくんもしていたから私たちは何の不思議もなく花火の下でキスをしたし、キス以上のこともした。

いつかそのうち私たちは大人になって結婚して子供を産んで苦しいことも悲しいこともあんまりないまま平和を楽しんでいく、そういうことを信じている。


でもここ最近どうもおかしい。

今日だって少女漫画に夢中になってた私に呆れて書き置きしてまで怒りをぶつけてしかも二日も口を聞かないなんて馬鹿馬鹿しい上から目線のカイくんに、私は辟易している。

このままいくとそのうち、大人になる前に私たちは破局するし私はすでにそれでいいんじゃないの?って思ってる。

とにかくカイくんは束縛が強いんだ。

学校ではクラスが違うから中休みや昼休みになるとカイくんが必ず私のクラスにやってきて私を呼び出す。だから本当は友達と話す時間を削られてるんだけど、カイくんはそこに気づかない。過集中の私が気づかないことと、そこに気づかないカイくんはどっこいどっこいだと思う。

「散歩、してくる」

母に言うと母はあ・そうと頷いたものの、父が待てと立った。

「お父さんも一緒に行く!俺、最近筋トレしてるんだ。ちょっと痩せたんだぞ。深雪も走るといい!」

うちのお父さんは天然がちょっと入っている。どうせ女子社員に痩せたらカッコいいだの言われたんでしょとかスレスレの冗談を私が言って、慌てふためいて母に弁解する父親を置いて私は外へ出る。弁解されてため息つきながらちょっと嬉しそうな口元の母は、普段あまりに笑わない人で、厳しいけど何より人との繋がりを大事にしましょうと昔からうるさいくらい言ってくる、自慢の母だ。


私が散歩に出たのには理由がある。

カイくんの家に行って謝ることだ。

でも謝ったってカイくんは許さない気がする。

それに私ばかり悪いように思われてることに私はもう既に辟易している。

「わん!」

近所の犬が私を見つけて吠えた。

時刻は夕方で、カイくんのことがなければ見られなかった夕焼けが広がっている。平らになった道路と凸凹の砂利の境目に私は立っている。犬はすぐそばの岩間さんの庭で左右に行ったり来たり。わん、わんわん。

逆隣にはフェンスがあって、下を電車が通るから砂利の坂を登ると橋があって、橋を渡ればカイくんの家だ。

夕焼けには羊雲が溢れかえって、なんだか行き先がカイくんの家だったのが私の中の辟易を取り消せって言われてるみたいだった。

赤紫の先端が太陽にむかって刺さってく。

私は一人、「わかったよ。いつかカイくんにわかる日がくるまで、謝ればいいんでしょ」とつぶやいて結局カイくんの家のインターホンを押した。

カイくんは開口一番(そう、思わず口を聞かないという下剋上をカイくんは忘れて破ったのだ)、

「深雪が俺のこと嫌いになるまで許さない」

って言った。

もう、私の気持ちなんて見透かされてた。

だから私は羊雲に振り向いて、

「嫌いにさせたのあんたでしょ!」

生まれて初めて私たちは、その日いたって平凡で大事な喧嘩をスタートしたのだった。

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