木曜日

 連れてきた部下が吐いた。

 確かに、まだ現場経験の浅い彼には酷な絵面だったろう。小倉は彼にハンカチを差し出し、外で待っているように伝えた。

 木曜日、小倉は管轄外の事件に出向していた。

 事件現場は凄惨だった。それはもう、血の海と言った様子で。人間たった一人の肉体に、これほどの血液が入っているのかと、的外れにも思ってしまいそうになる。

 現場は、杉脳神経外科クリニックの診察室。

 犯行時刻は水曜日の未明。

 被害者は、全身バラバラに切り刻まれて殺されていた。遺体は特に頭部の損傷が酷く、頭蓋骨が完全に切開された状態になっていたという。そして、部屋中にぶちまけられた血は、自然に飛び散ったものではなく、偽装工作なのか遊びなのか、犯人があえて塗りたくって行ったものらしい。

 死体は運び出されていたものの、未だにありありと残る血痕と異臭を見て、小倉は茫然と、前川貴が死んだ現場もこんな風だったのだろうかと思った。

「酷ぇもんだ、無抵抗の寝たきり患者をこんな風に。しかも三十年近く植物状態の患者たぁ。恨みを買うはずもねぇ。何の罪もない哀れな奴を狙うなんざ質が悪ぃな。また例の模倣犯かね。その辺に記憶喪失の犯人がいるんじゃねえのか?」

 顔に大量の青あざを拵えた、若干江戸っ子気質の刑事がそんな風に言った。勿論冗談だったのだろうが、小倉にだけは、痛烈な皮肉に聞こえた。

 殺されたのは陽遊肇。

 この町で起きたバラバラ殺人の真犯人だ。そんな彼が、彼自身の犯行に準えて殺された。なんという皮肉だろう。

 小倉が呼び出された理由は、その犯人と思われる人物と面識があったからだ。

 病院の受付名簿に残された、患者ではない三名の名前。

 一人は斜里町のマンション爆破の容疑で、一人は杉医師殺害の容疑で、そして最後の一人が陽遊肇殺害の容疑で指名手配されている。

 佐々木・ラピスラズリ・橘花。

 渋澤塔。

 漂木眞。

 今朝がた回って来た新しい重要参考人の顔写真と資料に仰天して、小倉は慌てて上司に彼らのことを聞きに行った。そして彼らと関わりがあったことを話すと、すぐさま事件の調査に回された。

 彼らの連絡先が登録された携帯も提供し、彼らと出会った集団健忘症について話し合う会も、漂木と共に水原宅を訪れたことも、佐々木と図書館で話をしたことも洗いざらい話した。

 小倉は自分の職業に対して、なるべく真摯でいたかった。

 それでも小倉は、上司に報告する前に一度だけこっそり、三つの連絡先に電話をかけることを我慢できなかった。

 携帯電話に着信履歴を残さないよう、公衆電話に一つ一つ数字を打ち込んで電話をかけた。

 繋がればいいと思った訳でも、繋がらないで欲しいと思ったわけでもない。三つとも全て、機械音声に『現在この電話は電源が切られているか、電波の届かないところにおり……』と返されて、小倉は電話を切った。

 それで気持ちが晴れたのか曇ったのか、楽になったのか苦しくなったのか、後悔が生まれたのか無くなったのか、何かを諦められたのか達成できたのか、小倉にはちっとも分らなかった。ただ、酷くもやもやとした気持ちだけが残った。

 たった数日前知り合った、赤の他人。短い短い付き合いだった。けれど、小倉はきっと、彼らを一生忘れられない。

 小倉は陽遊肇のことを語らなかった。誰も信じてくれないと思ったし、誰にも言うべきではないと思った。

 小倉は自分の職業に対して真摯でいたかった。けれど、彼はすでに一度、人を殺そうとした。本気で陽遊肇を殺そうと思った。その時点で小倉は、警察官という職業を精神的に裏切ったのだ。

 この先も辞するその日までこの職業に対して真摯でいる。その代わりにこの事件に関してだけは黙秘を続けようと、小倉はそっと誓った。陽遊肇殺害の犯人は自分であっても可笑しくは無かったのだから。


 現場の診察室を出ると、待合室の椅子に部下が座って待っていた。顔色が青白い。彼は小倉が出てきたのを見て、慌てて立ち上がって言った。

「小倉さん、すみません……」

「いや、こっちこそ悪かったな、付き合わせて」

「そんなことありません、未熟な俺が悪いんですから。あ、ハンカチありがとうございます」

「吐き気はもう平気か?」

「だ、大丈夫です……」

「……まだ、辛そうだな。休憩がてら、もう一つ付き合ってもらってもいいか?」

「ほ、他に現場があるんですか?」

「ああ、違う違う。ちゃんと休憩になると思うから。水原の聞き込みを担当させてもらったんだ。今から彼の居る警察署に聞きに行く」

「水原……ああ、あのバラバラ殺人の容疑者ですよね」

「ああ、今回の事件の手口が似ているから、何か知らないか聞いてきて欲しいそうだ。と言っても、拘留中の水原に犯行は無理だし、本命の線じゃない。もしかしたら手掛かりになるかもしれないって程度だから、ちょっと気を抜いても平気だ」

「ありがとうございます」

 そんなことを話していると、部下の肩越しに芹澤がやって来るのが見えた。当然と言えば当然だが、ここは思いっきり彼の管轄だ。しかも水原の事件と似たバラバラ殺人。彼がいるのは自然だろう。芹澤も自分に気付いたのが分かり、小倉はそっと会釈をする。芹澤はにこやかに頭を下げて近寄って来た。

「おはようございます、小倉さん。いやー、先一昨日の今日で、また会えて嬉しいです。前に話しましたけど、今度飲みに行きません? それでこいつの面白話とかしましょうよ!」

 言いながら芹沢は部下の肩を叩く。

「げっ、芹澤」

「ああ、芹澤さんの知り合いってお前のことだったのか」

「小倉さんこそ、こいつと知り合いですか!?」

「うん、健忘症のことで悩んでた時に、ちょっとお世話になって」

「小倉さん、こいつの言う事は真に受けないでくださいよ! 全部嘘ですからね! 俺が酔って逆さ腹踊りした話とかは全部嘘ですからね!」

「えっ、なにそれ……」

「自白してんじゃねえか。ああ、こいつが逆立ちで腹踊りをした話なんですけどね」

「それは面白いというか、むしろ凄い」

「いいから行きましょう、小倉さん! 水原のところ急がなきゃですよ!」

「ああ、そうだな」

「じゃあ、小倉さん、次の機会に!」

 芹澤の言葉に送られ、部下に押される様にして、小倉は病院を後にした。


 旧友と会って元気が出たのか、グロッキーになっていた部下はやや回復し、留置場までの運転を引き受けてくれた。

 そして小倉は、水原琢磨の拘留されている警察署に降り立った。

「話は俺が聞いてくるから、お前はこの辺で休んでていいよ」

「マジですか、でも、申し訳ないって言うか……」

「ゆっくり休んでしっかり回復しておきな。そしたら、後の聞き込みとかで頑張ってもらうから」

「はい、ありがとうございます!」

 そう言うと小倉は部下を残して警察署に入った。受付で事情を話すと、面会室に案内される。

 無機質な廊下を、先導する警官の後に着いていく。

 小倉は静かに事件のことに思いを馳せた。

 陽遊肇は死んでしまった。死ななくて済む解決策があったのに、死んでしまった。それとも彼を町から連れ出せばいいという事自体、小倉を止める為の佐々木の方便だったのだろうか。陽遊肇の殺害は漂木の独断なのか、彼の関わるところなのか。小倉には知る術もない。

 あの日曜日、あの集会場であった時は、四人ともただの健忘症患者だったはずなのに。たった三日で、四分の三が指名手配犯になってしまった。

 小倉は、同じ真実を共有しながらも、自分だけが平然と日常に戻ってきてしまったことに、罪悪感のような意識を感じていた。勿論彼らの考えや行動理由など分からない。あるいは、彼ら自身の望みであったり、因果であったりで、自ずとそうなったのかもしれない。小倉の気持ちはただの独りよがりなのかもしれない。

 それでも小倉は、健忘症とバラバラ殺人の真実について、自分が背負わなくてはならない責任があるように感じていた。

「こちらです。面会は長くても一時間ほどでお願いします」

「はい、分かりました。ありがとうございます」

 面会室に通される。透明な仕切りの向こうには、すでに水原琢磨が座らされていた。案内をしてくれた警官が、会釈を残して出て行った。小倉は水原の前に着席する。

 水原琢磨は、陽遊肇が優秀な外見のマシンだと評するのも納得の男だった。取り立てて美形だという程でもないが、柔和で優し気な顔をしており、印象が良い。娘の水原茜とどことなく似た顔立ちだ。少なくとも、強面な顔がコンプレックスの小倉からしてみれば、羨ましい外見をしている。

 しかし、今の彼の顔には焦燥と疲労が染みている。そして、いきなり現れた見ず知らずの面会者に対する困惑と恐れも感じられた。小倉はなるべく丁寧に頭を下げた。

「初めまして、私は小倉と申します。今回、羅臼町で起こった殺人事件について、お話を伺いたくて失礼しました」

「今回の事件……ですか? 前川さんたちの事件ではなく?」

「はい。昨日の未明、ある男性が殺されました。手口が前川夫妻の事件に酷似していたため、貴方に心当たりがないか、窺おうという方針になりまして」

「そんな……私は何もしていませんよ。アリバイなら、ここの警察官が証明してくれます」

「はい、これはあくまで建前の質問で、私は貴方に話があって……」

「私は何もしていないんです……、今回の事件なんて知らないし、前川さんの事件だって何も知らない……。001号室を調べてください。私は無実だ、きっとそこに何か手掛かりがあるんだ……」

 水原は小倉の言葉を遮りそう言うと、顔を伏せてしまった。小倉は暫く考えて口を開いた。

「001号室を調べました」

 水原が勢いよく顔を上げる。

「私も健忘症の患者でした。あなたがそう証言していると聞いて、藁にも縋る気もちで個人的に調査を行いました」

「そ、それで、何がありました……」

「あなたの言う通り、健忘症の真実が分かりました」

「お、教えてください、何があったんですか」

「私は、貴方にはこれを知る権利があると思ってここに来ました。……ただ、この話はあまりにも荒唐無稽で、信憑性に欠けます。そして何より、話したところで、貴方は救われないと思います。むしろ聞くことで辛くなるかもしれません」

「それでも構いません! 何も分からないままなのが一番地獄だ!」

「……分かりました」

 小倉は佐々木たちのことは伏せて、水原に意識を渡る殺人犯のことを話して聞かせた。水原は黙ってそれを聞いていた。


「…………そんな……」

 小倉の話を聞き終えて、水原は項垂れた。

「もちろん、法廷に提出できるような証拠はありません。あなたの無罪証明にもなりません。こんな話です。信じられないようでしたら、私のことは頭の可笑しい警察官だと思って忘れてください」

「……いえ、信じます。誰かに乗っ取られたという感覚が、凄く、しっくりきました……。甘い言葉に、縋りたいだけかもしれませんが」

「……」

「でも、その話が本当なら、結局前川さんたちを殺したのは私なんですね……」

「ち、違います。あなたの罪じゃない。法の上ではそうかもしれませんが、これは貴方に寄生した男が犯したことです」

「そうかもしれません……でも、体を動かしたのが私じゃなくても、前川さんの赤ちゃんを食べたのは私だ……。私が、その子を食べて消化して吸収したんだ……」

 小倉は押し黙る。体を動かしたのが水原でなくとも、それを口に運んだのが水原でなくとも、その結果は水原の肉体に残る。陽遊肇には還元されない。

 しばらく、沈黙が続く。

「酷い、話ですが……」

 やがて沈痛な面持ちで水原が口を開いた。

「この話を聞いて真っ先に、被害者が、茜……娘でなくて良かったと、思いました……。野枝でなくて、私の家族じゃなくて、前川さんたちで良かったと……」

 告解するように水原は言う。小倉も項垂れた。

「私も、同じです。私も一日彼に寄生されたようなのですが、彼が私に目を付けなくて良かったと、思ってしまいました。事件の被害者が娘でなくて、貴方が私でなくて良かったと最低にも、思いました。だから今日、彼が殺されて、私は何処か安心してしまった……」

「彼?」

 小倉が零した言葉に、水原は怪訝そうに首を傾げた。

 小倉は失言だったと慌てて片手で口を覆ったが、少し考えた後、手を下した。これもまた、彼が知るべき真実だ。

「……彼の名前は、陽遊肇と言います。バラバラ殺人事件の真犯人……彼は、昨日殺されました。部外秘なのですが、彼が最初にお話した事件の被害者です」

 水原は静かに目を見開いた。そして小倉の言葉を理解すると、ゆっくりと体勢を崩し、椅子の背もたれに体を預けた。そして、呟くように言った。

「……なら、私が最後で良かったと、そう思う事にします」

 その時、面会室の扉をノックする音が響いた。案内をしてくれた警官の声がする。

「小倉さん、そろそろ時間です」

「はい、分かりました」

 小倉はドアの外に聞こえるように声量を大きくして答えた。それから水原に向き直る。そして別れの挨拶を切り出そうとした時、水原がぽつりと言った。

「妻と娘のことだけが気がかりだな……この国はまだ、シングルマザーには厳しいから」

「……私の弟が役所に勤めていますので、何か力になれないか、聞いてみますね」

「……ありがとうございます。小倉さんは野枝たちと面識があるのですか?」

「はい、健忘症について話し合う会に参加して、あなたの無実を暴いて欲しいと仰っていました。その時、お話を伺ったので」

「そうですか。あの、最後に一つお願いをしてもいいですか」

「はい」

「妻と娘には、この事は言わないでください。私はきっと裁かれます。その時、私の無実は私だけが知っていればいい」

「……分かりました」

「小倉さん、一時間経ちました」

「あ、はい。では、水原さん、これで……」

 警察官が部屋に入って来る。小倉は荷物を纏めて立ち上がった。水原の方も、警官に促され立ち上がる。

 二人は、薄硝子を隔てた二つの部屋をそれぞれ背中合わせに退室する。小倉が敷居を跨ごうとした瞬間、最後に水原の声が聞こえた。

「ありがとうございます」

 面会室の扉が閉まる音が、嫌に大きく響いた。


 三か月後、まだ春の気配は遠い北海道で、悪質な隣人バラバラ殺人事件の犯人の裁判は続いている。彼の妻は冤罪を訴える活動家となって、今日も街頭で叫んでいる。

 陽遊肇殺害事件は、迷宮入りが見え始めた。マンション爆破と、杉医師殺害の容疑者たちの手配書は、交番の掲示板の中で色褪せている。

 小倉は捜査本部を外れ、また違う事件を追っている。健忘症を訴える者は、もう現れない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

それでも意識は廻っている しうしう @kamefukurou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ