水曜日

 彼誰刻の薄闇に包まれた町を、漂木は鼻歌を歌いながら歩いていた。

 やがて目的地が見えてくる。しかし、その入り口に人影が一つ立っているのを見て、漂木は足を止めた。名前の通り、人の顔が判然としない時刻。しかし遠目にも、その人物が入院着を纏っているのが分かった。

 明け方の町に、患者のような姿の男。彼が立っているのは病院の前だ。それが辛うじて違和感を薄めている。ふと彼が振り返り、かすかな朝日にその顔が照らされた。その顔を見て、漂木は、止まった足をもう一度踏み出した。

「なんだ渋澤君じゃん」

「……漂木さん、ですか」

「そうだよ。けど君、警察に捕まったんじゃないの?」

「ええ、誰かさんたちのおかげで。怪我のせいか、留置場じゃなくて病院に入れられたので、脱走してきました」

「わお、アグレッシブ」

「ところで何ですか、その恰好」

「え? いや、ほら、私も医療に携わる身だから、正装だよ」

 そう騙る漂木は、白衣に身を包んでいた。

 はた目には、病院の主とその患者に見えなくもない。勿論、二人はこの病院の患者でもなければ医者でもない。この病院、杉脳神経外科クリニックの主はもう居ない。

「でも脱走なんてしたら、不利になるんじゃないの?」

「別にそれはいいんです。そんな事より大事なことがあるから、こうしてここに来たんです」

「大事なこと?」

「真実が知りたい」

「へえ?」

「健忘症は何だったんですか? どうして杉先生は殺されたんですか? 犯人は僕なんですか? 僕は日曜日何をしていたんですか? あなた達はあの後何をしていたんですか? 何を知ったんですか? あなたはどうしてここに来たんですか?」

「矢継ぎ早だねえ」

「好奇心は猫をも殺すなんて言いますけど、好奇心に殉じて死ねるなら、その猫は幸せですよね。僕は、知りたいことを知れないまま終わるのが一番いやだ」

「なるほど、それは立派な覚悟だ。いいよ、全部教えてあげるよ。まあ、私も人から聞いただけだけど、それはもう滑稽なくらい盛大な話だよ。でも、代わりに私のお願い聞いてくれる?」

「いいですよ」

「この病院に入りたいんだ。君の鮮やかな侵入劇を、もう一度見せてくれないかい?」


「ありがとうございます。素晴らしい真実でした」

「いえいえ、こちらこそ。素晴らしい鍵開けでした」

 渋澤と漂木は病院の前で互いに頭を下げ合った。そして佐々木は入り口前の階段を下りていく。その背中に漂木は問いかけた。

「君はこれからどうするの?」

 渋澤は振り返り、漂木を見上げる。

「そうですね……、他人が犯した罪で捕まるなんて嫌なので、逃亡生活ですかね」

「あはは、じゃあ、私もすぐに似たような事になるだろうから、道中再会したらよろしくね?」

「はい」

「ちなみに、知りたがりの渋澤君は、私がこれから何するか聞かないの?」

「だいたい想像は付きますから。……ああ、でももう一つ聞きたいことが残っていました」

「なあに?」

 渋澤は白衣姿で病院の扉を引く漂木を見て、尋ねた。

「あなたのお仕事は何ですか?」

「開業したての闇医者です」

 振り向きざまに悪戯気に笑って、漂木は病院の中に消えて行った。

 渋澤も踵を返して、朝焼けの中に去っていく。

 水曜日、町はまだ、微睡に包まれていた。

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