火曜日

 ◇◇◇


 火曜日は、からりとした冬晴れだった。朝八時過ぎ、朝食の後片づけをしていたはずの小倉は、台拭きを片手に母親に詰め寄られていた。

「あの、母さん、俺今日もちょっと出かけたいんだけど……」

「だめよ、今日は雛ちゃんと遊んであげなさい!」

「あの、でも、調べたいことが……」

「雛ちゃんがお父さんと遊びたいって言ってるのよ。このまま放ったらかしたら、そのうち『お父さんなんか知らない』って言われちゃうわよ。遊んでほしいって言ってもらえるうちが花なんだから。只でさえ普段から家で預かってるんだし。そりゃあ、あんたが立派な警察官になってくれて、お母さんは嬉しいわよ。でもね、いつも忙しいからこそ、こうして会える時くらい、雛ちゃんを構ってあげて欲しいのよ。もちろんいろんな家族の形があっていいと思うわ。親と過ごすことだけが子供の幸せじゃない。けど、雛ちゃんはあなたのことが大好きで、あなたも雛ちゃんを愛しているんだから、みすみす親子の絆を崩壊させることは無いでしょ? で、調べものってどこに行くの?」

 圧倒的に発言の単語量が多い母親に押されて、小倉は巨体を縮込めた。

「と、図書館に……」

「じゃあ雛ちゃんも連れてってあげなさいよ。調べものの傍ら、絵本の一、二冊一緒に選んであげることくらいできるでしょ?」

「……うん」

「だいたい、あんたはそういう所が昔からあってね。離婚の時だってそう。もちろんあなた達夫婦には、外野からじゃわからない問題が色々あったのかもしれないけど、それでもあんたは奥さんの異変に気付かなかった訳じゃなく、気付いても見逃してるってところが……」

「母さん」

「あら、鉄建」

 もともとお喋りなタイプの母親が本格的に説教に入ろうとした所に、弟が割り込んできた。

「薬缶、火にかけっぱなしだったよ。沸いてたから止めておいたけど、良かった?」

「あらやだ! 忘れてたわ、お茶を淹れようとしてたのよ。ありがとうね。じゃあ鉄貫、ちゃんと雛ちゃん連れてくのよ!」

「うん、わかったよ……」

 いそいそと台所に戻る母親の後ろ姿が見えなくなると、弟はソファに横になりながら言った。

「大変だね。兄貴を見てると、結婚しようとか、子供も持とうとかって気がしなくなるよ」

「う……いや、大変なことは確かに多いけど、幸せな事もいっぱいあるよ。俺は上手く行かなかったけど、だからってお前が否定的になることは無いから……」

「まあ、それ以前に俺は相手がいないんだけどね。それに俺の性格じゃあ、兄貴以上に誰とも上手くいかないよ」

「そんなことは……ない、とは言い切れない……」

「あはは。ま、家庭を持つことって別に義務じゃないし、俺はいいかな。家に子供は雛ちゃんが居れば充分だし」

「雛子は俺の子だ。あげないからな」

「一緒にいる時間は俺の方が長いけどねって、痛い!」

 小倉は軽口を叩く弟のむこうずねに、無言でしっぺを食らわせた。

 小倉は職業上どうしても生活が不規則なので、普段は娘を実家に預けている。実家と自宅はそう遠くないので、休日が取れたり、平日でも時間が空いたりした時には小まめに車で帰省している。そうして意識的に娘に会うよう心掛けているつもりだが、それでも確かに実家暮らしの弟の方が娘といる時間は長い。小倉は深くため息をついた。

「ていうか、図書館に一緒に連れてくのがそんなに嫌? 別に雛ちゃん大人しいから、手も掛からないだろうし。極寒の中で二時間かけてかまくら作ったり、レシピ見ながらよく分かんないお菓子作ったりしてたのに比べれば、むしろ楽なんじゃないの?」

「いや、連れて行くのは、雛子が喜ぶならそれでいいんだけど……。調べものの内容が内容だから、ちょっと躊躇うと言うか、教育に良くないと言うか、余計なもの見てトラウマになったらどうしようと言うか……」

「何? 世界のヌード史でも調べるの?」

「誰が調べるか、そんなもん。それを調べることで俺に何の得があるんだよ」

「だって教育に良くないっていうから、エロかグロか、どっちかかなって思って」

「しいて言えば、グロ、かなあ。過去の事件で調べたいことがあるんだけど、ちょっとショッキングな事件だから心配で……。死体の写真とか滅多なものはそうそう載らないだろうけど、たまにびっくりする写真とか内容の記事ってあるし……」

「まあ、大丈夫じゃね? 雛ちゃんまだ小一だし、難しい漢字とかは読めないっしょ? 写真の方は気を付けてれば、そこまで問題ないと思うけど」

「そうかなあ」

「それに図書館って、あそこだろ? 町営図書館。あそこなら、児童書コーナーが閲覧席から目の届くところにあるし、雛ちゃんにはそっちで遊んでてもらえば、安心して調べものができるんじゃない?」

「けど、それだったら一緒に行く意味あるか?」

「お昼ご飯を一緒に食べるとか、休憩がてら話してあげるとかでいいじゃん。気負い過ぎだよ」

「そうかな」

「そうだよ」

 そこで小倉は立ち上がり、台拭きを片付けに台所へ向かおうとして、一度足を止め弟を振り返った。そして、横着に寝ころんだままテレビのリモコンに手を伸ばして、ソファから転げ落ちている弟に尋ねる。

「なあ、お前、市役所の相談窓口で働いてるだろ?」

「そうだけど、急に何?」

「俺が離婚した時色々手伝ってもらったけど、片親家庭の援助とかそういうの、詳しいんだよな?」

「うん、内容次第ではちょっと管轄が微妙だけど」

「そうか。場合によっては、近いうちに力を借りるかもしれないんだけど……」

「ふーん、まあ、良いけど」

「ありがとうな」

 小倉は弟に礼を言い、リビングを後にした。台所では、母がダイニングテーブルで、雑誌のクロスワードパズルを解きながらお茶を飲んでいた。小倉はその横を通り過ぎ、流しで台拭きを水に晒す。

 弟がテレビを点けたのか、読み上げられるニュースが聞こえてきた。どうやら斜里町で起こった爆発事故が報道されているらしい。そういえば昨日駐在所で聞いたな、この事故のこと、と小倉は頭の隅で思いながら、それを水音と共に聞き流す。

 事件の概要説明が終わり、死傷者の数が読み上げられた。

 そして次の瞬間、ただの取り留めの無い音の羅列だった物たちが、突如として意味の塊となり小倉の脳を揺さぶった。

『また、現場では、マンションに住む杉亮一さん、38歳が遺体で発見されました。被害者は当初、事故に巻き込まれたものと考えられていましたが、調査の結果他殺の疑いが浮上し、警察は被害者の部屋で発見された男性を関係者と見て、捜査を進めています』

 小倉は濡れた手もそのままに、床に滴る水飛沫に取り合うこともなく、リビングに飛び込んだ。突然の兄の乱入に弟が何か言っていたが、小倉の耳には届かなかった。

 ただ、テレビ画面で畏まっている杉亮一の顔写真に目を釘付けにして、小倉は立ち尽くしていた。


◇◇◇


「じゃあ、説明してくれる? るりちゃん」

 佐々木は、自宅のソファに堂々とふんぞり返る客人に、小さくため息をついた。面倒だが、招かれざる客、という言い訳はできない。この鬱陶しい客こと漂木がここに居るのは、百パーセント佐々木自身の責任だ。杉の自宅で、漂木と渋澤を氷塊で殴打して昏倒させたのも、白目を剥いていた漂木を戦車に乗せて連れ帰ったのも、引き摺って敷居を越えさせたのも、佐々木だった。

 仕方ない、とでも言いたげな仕種で、佐々木はテレビのリモコンを取り上げると、ニュース番組にチャンネルを合わせた。明るくなった画面の中で、ニュースキャスターが、斜里町の事件について読み上げている。

「爆発って……、一体何があったの」

 その内容に、漂木は

「あなた達が気持ちよく眠ってる間に、俺は杉先生のマンションを調査したんです。ただ、色々散らかし過ぎちゃったので、方法は守秘義務ですが、マンションを爆破して証拠を隠滅したんです」

「いや、別に寝てた訳じゃ……っていうか、隠滅って。せめて窓ガラス割って空き巣に仕立てるとか、その程度でしょ? 何部屋ごと無かったことにしようとしてんの」

「部屋を散らかしただけなら、そこまではしませんでしたよ。ずっと手袋もニット帽も外してないから、指紋も毛髪も残ってないだろうし」

「だから、室内なのに全然脱がなかったんだ……私もだけど」

「幸い、それっぽいことは渋澤君がしてたから、小細工をせずとも、空き巣の仕業に見せかけられたでしょうね」

「それなのにこんな大掛かりなことしたのは、やっぱり万が一にでも杉医師殺害の容疑者にされたくなかったから?」

「まあ、そうですね。ただ部屋を荒らした罪だけなら、その程度の証拠隠滅で良かったんですけど、殺人事件となると調査の力の入り様も変わりますし、いっそ事件現場ごと吹っ飛ばすくらいした方がいいかな、と」

「それにしてもやり過ぎだと思うけどな。あ、それで、今しがた話題に上った渋澤君は? もう帰ったの?」

「あの人は部屋に置いて来ました」

「はあ? なんでまた。それじゃ、あの爆発で死んじゃったかもじゃん」

 言葉の上では驚いたような、けれど実質全く動揺の無いトーンでそう言うと、漂木は佐々木の出したコーヒーを口に含む。佐々木も自分のカップを傾けながら、顎でテレビ画面を指し示した。

『また、現場では、マンションに住む杉亮一さん、38歳が遺体で発見されました。被害者は当初、事故に巻き込まれたものと考えられていましたが、調査の結果他殺の疑いが浮上し、警察は被害者の部屋で発見された男性を関係者と見て、捜査を進めています』

「死んでないみたいですよ、これ、渋澤君でしょう」

「へー、良かった良かった。けど、真犯人は誰なんだろうね。私たちが来た時点で杉先生は死んでたじゃん。しかも、遺体の具合から見て、死後十数時間は経ってた。なんか警察は渋澤君を連れてっちゃったみたいだけど、彼は関係ないでしょ?」

「いえ……」

 佐々木は少し言葉を濁す。そして、一度仕切り直すようにコーヒーを嚥下し、言った。

「真犯人は、渋澤君ですよ」

「……どういうこと?」

「杉先生の部屋を調べた時、腕時計が見つかりました。革のベルトの、ちょっと使い込んである奴。ソファの下に潜り込むように」

「杉先生のじゃないよね。先生の死体は、腕に立派なの巻いてたし」

「はい。その腕時計は渋澤君が集会で着けていた物でした」

「昨日は渋澤君が部屋に先に入ったわけだし……渋澤君が侵入してから、私たちが部屋に上がって来るまでの間に、先生の部屋で落としたとか」

「無いですね。渋澤君は、その日の朝会った時、腕時計はしていませんでした。ポケットに入れておいたのを落とした、とかなら在り得ますけど」

「よく覚えてるね、そんなの」

「さらにもう一つ気になることがあるんです。昨日、先生のマンションに行く前、診療所に行った時。陽遊肇、でしたっけ? あの患者。あの人が、譫言で渋澤君の名前を呼んだんですよ。丁度あなた達が診察室を出ていた時に」

「それが?」

「渋澤君は日曜日の時点で、杉先生の診療所に行ったことは無いって言っていたんですよ。だから、何かあった時のために場所を確認しておくって。実際、それで診療所を尋ねたんだと思います、あの人は。けれど、入り口に書いてありましたが、日曜日はあの診療所は定休日だったはずです。当然、昨日の様に中に入れてくれる看護師だって休みだったはずです」

「うん、そうだね、ちょっとややこしいけど。要するに、行くだけ行って、中には入れないから、道順とか確認して帰った、って感じかな?」

「でもそうしたら、昨日の朝診療所に入った時点で、渋澤君と陽遊肇には一切の接触はなかったはずだ。もうずっと寝たきりの患者と、あの診療所以外で面識を持つことは出来ない。なのに陽遊肇は彼の名前を呼んだ」

「でもほら、私たちが渋澤君って呼んでたから、それが患者の意識に刷り込まれた、とかかもよ?」

「いいえ、フルネームだったんです。俺らは彼を下の名前で呼ぶことなんて無いでしょう。つまり、渋澤君は何らかの方法で、日曜日にあの診療所に入ったんだ」

「まあ、あの侵入の手際を見てると否定しがたいね。それで?」

「ここからは証拠の無い推測が多くなりますが、多分彼は日曜日の午後、診療所に行き、侵入し、一方的でしょうけど陽遊肇と接触し、何かを持ち出した。診察室のデスクの三番目の引き出しから。恐らく、その中には杉先生の住所が分かるような物も入っていた。それで渋澤君は先生のマンションに行き、彼を殺害した」

「そしてその記憶を忘れてしまった、という訳か。動機がいまいち見えてこないね。そうなると記憶喪失は案外、健忘症関連じゃなくて、普通に殺人のショックからかもね」

「まあ、だから、彼が犯人なんじゃないかと俺は思います。それで、連れて逃げてもばれるだろうし、かといって俺らと一緒にいたという事を警察に吐かれても困るし、いっそ爆破に巻き込まれないかな、と」

「未必の故意じゃないじゃん、思いっきり殺意が露見してるよ。じゃあ、渋澤君が無事に警察に捕まっちゃったのは、るりちゃん的に結構誤算なんだ。どうするの?」

「……なんとか、また記憶喪失になってくれないかな、渋澤君」

「無計画か」

「あなたも協力してくださいよ、一蓮托生です」

「やめてよ、共犯者にしないでくれる? マンション爆破するような過激派犯罪者の」

「あなたを渋澤君と一緒に放置しなかったのは、あなたがやたら警察を恐れていたからです。俺は一度もあなたの口からはっきり、職業について聞いたことが無いですよ。医療関係者とか、町医者やってるみたいな、とか色々言われましたけど、これって何の答えにもなってませんし。真っ当な職業じゃないんでしょ」

「うっ……」

「俺は一般人ですから、最悪どうとでもなります。マンション爆破が俺の仕業だってばれたら結構ヤバいですけど。でもあなたはどうなんですか? 探られたら傷む腹をお持ちのようですけど」

「分かったよ、協力する」

「俺はとりあえず小倉さんと接触してみます。上手くいけば、今回の事件について、警察内でどこまで明らかになっているのか、どう考えられているのか、聞けるかもしれませんし。それで漂木さんは……」

「あー、ごめん。協力はするけど、今日はちょっと休ませてくんない? やせ我慢してるけど、実は結構頭が痛いし、体のあちこちが打撲とか捻挫してるみたいなんだよね、擦り傷も多いし。なんでだろ、昨日先生の死体の傍に寄ったところまでは覚えてるんだけど」

「……なんででしょうね」

 漂木を氷塊で殴打し、戦車の奥に蹴飛ばしてねじ込み、マンションの地下駐車場から自室まで、散々引きずり回した佐々木は、ポーカーフェイスで首を傾げた。


◇◇◇


 渋澤はぼんやりと目を開く。病的に白い灯りが瞼の隙間から差し込まれた。

 目だけを動かして辺りを窺う。白い天井、白い壁、白いカーテン、白いドア。横たわる自分の体を包む白いシーツ。頭部を支える枕の向こうにはナースコールのボタンや、ネームプレートが見える。

 それらを確認したのち、渋澤は右手の指先を軽く動かし、次に左手、右足、左足を同じように動かし、可動部を中心に意識を集中した。動きに合わせて幽かに強張る部分や、鈍い痛みを訴える部分があったが、動けない程ではない。

 そうして渋澤は上体を起こした。途端、ずきりと後頭部が痛む。そこを押さえながら、渋澤は記憶を探った。

 なぜ自分はこんな所に居るのだろうか。見たところ病室のようだが、月曜日の自分は健康そのものだった。日曜の記憶がないという異常はあったが、肉体的な怪我や不調は無く、佐々木や漂木に電話をかけ、待ち合わせをし、杉の病院へ向かった。そして杉の自宅を訪れ、部屋に侵入した。

 少なくともこれらのことは思い出せる。しかし、一部、杉の部屋に侵入した後のことがあやふやで、そのままフェードアウトするように記憶が欠けている。それは健忘症か、それとも肉体の痛みが原因か。何か事故にでも巻き込まれたのだろうか。

 そして今は何曜日の何時だろう。順当に考えて火曜日だろうか、それとも、健忘症で火曜日を忘れて水曜日という事も在り得る。また、病院に居ることを考えると、一日二日昏睡していた可能性もある。

 渋澤が考えを整理していると、ドアの開く音がした。顔を上げると、病室の入り口に看護師が立っていた。看護士は渋澤の姿を見て、はきはきと話しかけてきた。

「意識が戻られたんですね、おはようございます。ご気分はどうですか? 意識ははっきりしていますか?」

「ええ……はい」

「頭が痛みますか? 吐き気や眩暈はしませんか?」

「いえ、頭も吐き気も眩暈も平気です。それより、あの、今日は何曜日ですか」

「火曜日です。検温の方を失礼してもよろしいでしょうか」

「はい……あの、僕はどうしてここに……」

 されるがままに体温計を受け取り、脇に挟みながら渋澤は問いかけた。途端、溌溂としていた看護士の口調が俄かに淀む。

「……斜里町の、マンションの爆発に巻き込まれたんですよ」

「マンションが爆発……?」

「え、ええ。大きな爆発でしたから、軽傷で済んで幸いでしたね。亡くなった方もいらっしゃったようですし」

「亡くなった方……」

 瞬間、渋澤の脳裏に、横たわる男の姿がフラッシュバックする。だらりと投げ出されて固まった手、見開かれた瞳と酸素を求めて伸ばされた舌、首を一周する縄の痕。死に絶える杉亮一の姿。

 そうだ。自分が侵入した時点で、杉亮一は死んでいた。その後何が起こったのかは思い出せない。そもそも、自分には知り得ないことかもしれない。けれど、どうやら自分は、かなり良くない立ち位置にいるらしい。渋澤はベッドの傍らに立つ看護師を見上げる。

「あの、僕の他に二人いたと思うんですけど、彼らは無事ですか?」

「二人……? いえ、事件現場で見つかったのは、あなただけですよ」

「そうですか」

 体温計が甲高い機械音でがなり立てる。看護師がそれを受取ろうと、僅かに屈んだ。

 瞬間、渋澤は彼の口を手で塞ぎ、腕を引いてベッドに引きずり込む。そして、相手が事態を把握しきるより早く、マウントを取り、首に腕を回して締め上げた。一拍遅れて看護師が暴れ出すが、完全に抑え込んだため、大した音も立てずに彼は落ちた。渋澤は彼の意識が完全に無くなったことを確認すると、シーツと体勢で、上手く入り口から顔が隠れる様に寝かせ、自分のダミーに仕立てた。

 看護師は『事故現場』ではなく『事件現場』と言った。つまり彼にとって渋澤は、爆発事故の関係者ではなく、殺人事件の関係者、という認識であるという事だ。そして佐々木と漂木は、調べられれば確実に家宅侵入の罪が露見する自分を切って逃げたのだろう。

 どういう流れがあったのか、この推測は正しいのか。不確かなことは多いが、事件のことを聞いた瞬間の看護師の緊張が、渋澤に直感させた。ここに居るのはまずい、と。元からストーカー趣味のある渋澤は、叩けば埃の出る身。ならばいっそ。

 そうして、渋澤は病院四階の窓から外壁へと這い出した。


◇◇◇


 小倉は娘を伴い図書館を訪れ、過去に起こったという類似したバラバラ殺人事件について調べていた。結果、確かに今回の水原琢磨が引き起こした事件によく似た事件が、この町でいくつもあったことは分かった。

 ほとんどが、犯人が自分の家族か隣人を殺し、バラバラに解体したという事件だ。どれも犯人は現場近くで気を失っているところを発見され、確かな物証や目撃証言から逮捕、起訴され、極刑となっている。そして、犯人たちの多くが事件の記憶が無いと訴えている点がほぼ一貫して共通している。さらにどの事件でも、体の一部が無くなっていたり、致死量の血痕だけを残して行方不明になったままの被害者がいるという。今回では、前川母子がそれにあたる。

 本当にトレースしたように似た事件だ。

 しかし、無くなった被害者たちの体の一部や全部が発見されたことは、ついぞ一度も無かったらしい。過去の事件を遡及しても、前川茜の居場所の手がかりになるようなことは無かった。

「まあ、分かってはいたけど……」

 そもそも、奇妙なほど似ていはいるが、全ては全く無関係な犯人たちが起こした独立した事件で、同じ事件でも関連した事件でもないのだから、期待していた訳では無い。もしも過去の事件で被害者が発見されていたなら、その隠し場所まで模倣された可能性はあるかもしれないとは考えたが、それなら捜査の過程ですぐにでも明らかになっているはずだ。

 小倉は児童コーナーに目を向ける。固いマットが張られ、直に座れるようになった子供用の閲覧席で、娘が黙々と絵本を読んでいるのが見えた。彼女は父の視線に気付いたのか、顔を上げ、手を振って来る。小倉はそれに手を振り返し、引っ張り出してきた古い新聞や雑誌を纏め始めた。進展が見られない個人的な捜査は一旦置いておいて、今日の残りは娘との休日として過ごそうと考えたのだ。

 しかし、資料を持ち上げた瞬間、けたたましい着信音が静かな図書館に鳴り響いた。顰蹙の色に染まった視線が小倉に集まる。彼は慌てて資料を机に降ろし、携帯にかかってきた着信を切る。そして娘にここで待っているように耳打ちしてから、周囲にぺこぺこと頭を下げ、図書館を出た。

 それから改めて着信履歴を開くと、そこには佐々木の名前が表示されていた。一瞬誰だったかと疑問に思ったが、すぐに一昨日知り合ったきっぱりとした性格の青年が思い浮かび、小倉は折り返しのコールを鳴らした。

 そう間を置くことなく、佐々木が電話に出る。

「もしもし、小倉さん? 佐々木です、覚えてらっしゃいますか?」

「あ、はい、もちろんです。一瞬名前と顔が一致しませんでしたけど、つい先日の会ったばかりですから」

「まあ、お互いいつ記憶が飛ぶともしれない身の上ですからね。それで、さっきは直ぐに切られちゃったみたいですけど、今忙しいんですか?」

「あ、いえ、図書館に来ていたもので、その場では出られなかったんですけれど、今は場所を移動したので平気ですよ」

「図書館? なんでまた」

「いえ、水原さんの事件を調べていたら、少し気になることがあったので、調べものに来たんです」

「気になること……。小倉さんが今いらっしゃるのって、町営図書館ですか?」

「あ、はい、そうですよ」

「もしお邪魔でないようでしたら、今からそちらに合流しても良いですか? 聞きたいこととか話したいこととか、色々あるので」

「構いませんよ。あ、でも、こちらは娘を連れているのですが、それを気にされないのでしたら」

「娘さんがいらっしゃるんですか? 俺はいいですけど、娘さんは嫌がりません?」

「多分平気だと思います。では、私たちは一階奥の児童書コーナー近くの閲覧席で待ってます。……あ、今着ている服の特徴とかお教えした方がいいですか?」

「いいですいいです。小倉さんはでかいから、そんなの分からなくても、すぐ見つかります」

「……そうですか」

 小倉は少し微妙な気持ちを残しながら電話を切ると、再び館内に戻った。


 それから一時間ほどして佐々木がやって来た。彼は児童書コーナーで同じくらいの年頃の子と仲良くなっている少女を見て、娘さん可愛いですね、と形式だけのお世辞を言うと、さっさと話を始めた。

「俺は、昨日漂木さんと渋澤君の三人で杉先生の病院に行ったんです。渋澤君が日曜日のことを覚えていないというので。そしたら、先生は連絡がつかなくて、病院は臨時休業という事でした。なので、看護師さんに住所を教えてもらって、先生の家を尋ねてみたんです」

「えっ、じゃあ、佐々木さんたちは、あの爆発現場にいたんですか! お、お怪我は……」

「やっぱり事故のことはご存じでしたか。俺と漂木さんは、幸い直前に現場を離れたので無傷です」

「し、渋澤君は……?」

「彼は運悪く巻き込まれてしまったみたいですが、恐らく存命です。警察に連れて行かれちゃったみたいなんですけど、それはご存じないですか?」

「え、あ、もしかして、テレビで言ってた被害者の部屋で発見された男性って、渋澤君なんですか?」

「ニュースで聞いたんですか?」

「あ、はい、今朝杉先生が死亡して、他殺の疑いもあるから、現場にいた男性を参考人として捜査をするって報道してましたよね?」

「そうでしたね。でもなんか小倉さんは刑事さんだから、報道より早く同僚さんから連絡来てたりするのかなってイメージしてたので」

「いえ、私は一課の者ではないので……。私の担当と関連があったら出向の要請が来るかもしれませんが、基本的に縦割り社会ですから、爆発事故と殺人事件じゃ私に連絡は来ないかと」

「そうなんですか。正直、渋澤君が心配だったので、小倉さんなら何か一般人には分からない情報とか、持ってるんじゃないかって打算があったんですけど。でもどちらにせよ小倉さんをコネとして使うみたいで図々しかったですね、すみません」

「いえ、そんな……。こちらこそお役に立てず申し訳ありません。でも、会って間もないとはいえ心配ですよね、渋澤君……そういえば、佐々木さん達は先生には会えたんですか? 渋澤君はお部屋に発見されたみたいですけれど、その時点では先生は生きていて、招き入れてくれたとか?」

「いえ、残念ながら私達が訪れた時は、呼び鈴を押しても応答がなく、その時はそのまま解散しました。私と、今朝確認したところ漂木さんも、先生に会えなかった時点ですぐ帰ったので難を逃れられました。ただ、渋澤君はもう少し待ってみると言って一人で……。健忘症の症状が出ていたから、不安で何とか先生に会いたかったのかもしれません」

「そうなんですね……」

 小倉は渋澤の心細さに思いを馳せるようにして黙りこくった。一方、表面上神妙な態度こそしているものの、渋澤の罪の証拠と家宅侵入の手際の良さを知っている佐々木は、彼に対する同情心など欠片もない。沈痛な雰囲気を適当に演出すると、すぐに話を切り替えた。

「ところで、電話で仰っていた気になることとは?」

「あ、えっと、大したことでは無いんですけど……昨日警察署までこの事件のことを伺いに行ったら、過去にも羅臼町ではいくつか似たような事件が起こっている、と教えられまして。それで、もしかしたら何か今回の事件の手がかりにならないかな、と思って調べに来たんです」

「似たような事件? 今回みたいなバラバラ殺人ってことですか?」

「はい。三十年位前から不規則にですが。えっと、この辺が過去の事件の新聞とかゴシップですけど……共通しているのは犯人が記憶が無いと主張している点と、被害者の体の一部または全体が無くなって未だ発見されていない点ですね。あとは、被害者が犯人の家族か隣人だったというところも、一応共通項かと」

「ふーん。全部犯人は捕まっているんですよね? なら、普通に考えりゃ模倣犯ですよね」

「はい」

「けど、こんな広くもない町で、まだ死体が見つかってないなんてちょっと変ですよね。しかも、一部ならともかく全身なんて。解体したって、処分するのに相当手間がかかるでしょ。目撃証言とかも無いんですか? 犯人が死体を運んでるとことかの」

「記事に書かれている以上のことは分かりませんが、見つかっていないということは、手掛かりになる様なものは無かったのではと思います」

「そう言えば三十年くらい前からって言いました? さっき」

「はい。調べてて分かったんですけど、ここまで不自然に似ている事件が、異常な頻度で起こるようになったのはその辺りからみたいです。それ以前になると件数も減りますし、たまたま以上の類似点もほぼなくなります」

「異常な頻度……ですよね。この新聞の枚数と同じ件数が、たった三十年余りの間で起こったなんて。模倣犯にしたって自重しろって話ですよ。全く、オリジナリティが足らないな」

「何に対して怒ってるんですか」

「三十年前ねえ……。俺がまだガキンチョと赤ん坊の間位の時か」

「年齢差を感じます……私は小学生か中学生くらいでした……。ん、そういえば、三十年前と言えば……」

「どうかしたんですか?」

「いえ、確かその頃、何か大きな騒ぎがあってテレビとかが騒いでたような……」

「何か事件の鍵になるようなことですか?」

「あ、いえ、多分事件とは全く関係なかったと思いますけど……もっとこう、事故とか、災害みたいな感じの……なんだったかな……」

 小倉はこめかみを抑えるようにして考え込んだ。佐々木はそんな彼の様子に、事件と関係ないなら余計な時間を割くなと内心毒づきながら、手元の資料に視線を落とした。

「おっと、あああ」

 その時二人の座る机に、一人の初老の男性が軽くぶつかった。はずみで、男性の抱えていたいくつかの本が、床に落ちる。

「だ、大丈夫ですか?」

「はい、すみませんねえ。よそ見をしていて。ちょっと欲張り過ぎちゃったかな」

 小倉と佐々木は立ち上がり、老人が本を拾うのを手伝う。散らばった本は古い雑誌や、新聞が多く、老人も何かを調べているようだった。

「どうぞ」

「はい、ありがとうございます」

「貸出カウンターまで気を付けてくださいね」

「はい」

 そう言いながら二人は、恐縮そうにしている老人に本を手渡した。最後に佐々木が一冊の雑誌を差し出す。ふとそのタイトルが小倉の目に留まった。見慣れた町のランドマークの風景写真が使われた表紙には、『羅臼町寄生虫事件』と印字されていた。

「あっ」

 その文字に突然記憶が呼び覚まされ、慌てて小倉は老人の持っていた資料に目を向ける。彼の手の隙間から、『未知の寄生虫集団感染』『乳幼児大量死』『衛生管理局の責任は』と言った見出しや、虫のようなシルエットの写ったレントゲン写真が見えた。

「どうしました? 小倉さん」

「そうです! 集団感染! 三十年位前、赤ちゃんや小さな子が寄生虫に集団感染して、たくさん亡くなったんです!」

 記憶の堰が決壊し、思わず小倉は語調を強める。それを聞いて佐々木は、そういえば似たような話を、つい昨日漂木から又聞きしたことをぼんやり思い出した。

「ああ、覚えていらっしゃるんですか?」

 老人が小倉の言葉に悲しそうに、しかしどこか嬉しそうに目を細める。

「私はこの事件で息子を一人亡くしましてね……。初めは何くれとなく騒がれたものですが、感染者の大部分が亡くなって少し騒ぎが下火になってきた頃に、なんだか凄惨な事件が起こりましてね。マスコミも世間も途端にバラバラ殺人だの、なんだのって、息子が死んだ事件には目もくれなくなってしまって。だから私は同じように子供を亡くした親なんかで集まって、事件を忘れない様にって活動してるんですが……いや、今でも覚えてくれている方がいて、不謹慎ですがなんだか嬉しいですな」

「いえ、私も今の今まで忘れてしまっていたので、そんな褒められるようなものではありませんが……。でも、思い出しました。あの時は毎日の様に子供が何人亡くなった、何人亡くなったって言って、凄く悲しかったです」

「ああいう報道は、特に悲劇を煽るように書きますからね」

「でも、寄生虫で被害者が子供だけってちょっと珍しいですね。何となくそう言うのって年齢関係なく被害がありそうなものですけど」

 佐々木が長くなりそうな二人の会話に口を挟む。

「確かにそうですね……でも、子供は大抵、大人より免疫力が低かったりしますから、そういう事でしょうか」

「それ、治療法とか見つからなかったんですか?」

「はい。残念ながら、寄生虫の種類さえ特定できずに終わりました。レントゲンでシルエットは……そう、こんな風に映ったんですけど、検死? とかをしても見つけられなかったようで、結局全くの新種だろうと言われてそれっきりでした。それで対処法も分からず、致死率九十何パーセントだとか、感染したらどうしようもないって感じで」

 老人は佐々木の質問に、虫のシルエットの写真を取り出して見せながら説明した。

「なら、助かった子は居なかったんでしょうか……」

小倉が消沈した様子で呟く。

「ああ、いえ、二人だけ奇跡的にいたんですよ、助かった子が。ええと、確か実名が乗った奴があったはずで……ああ、これだ」

 しかし老人は励ますように言うと、資料中から一冊の本を取り出し、パラパラとめくり始めた。佐々木がそれに眉を顰める。

「実名公開って良いんですか? プライバシーどうなってんだか」

「三十年も前ですから、当時はその辺りまだ緩かったんですよ。まあ、他にもいろいろ事情があったみたいですけど。片方の子は親が蒸発しちゃったとかって聞きました」

「ふーん。俺なら、どんなマイナー雑誌でも嫌ですけどね、名前が載るなんて。せめて仮名でしょ?」

「そうですね」

 老人の言葉に食って掛かる佐々木を宥めるように、小倉は相槌を打った。

「ああ、ありました。えーっと一人は陽遊肇君で、もう一人は……ああ、ハーフなんですかね、珍しい名前ですよ。佐々木・ラピスラズリ・橘花君だそうです」

 唐突に挙げられた聞き覚えのあり過ぎる名前に、小倉と佐々木は静かに目を見開いた。


「さ、佐々木さんがあの事件の生存者だったなんて、こんな偶然もあるものですね」

「……」

「確かに、赤ちゃんから子供の間だったって言っていましたものね。丁度それ位の年齢ですよね」

「……」

「あのおじいさんが言っていた凄惨な事件って言うのは、時期的に一番初めのバラバラ事件なんでしょうか」

「……」

 あの老人と別れてから黙りこくったまま、いくら話しかけても無反応な佐々木に小倉はとうとう心配になって、その肩を揺すった。

「あの、佐々木さん……ご気分が優れないようでしたら、お水でも買ってきますが……」

 佐々木もそこで漸く顔を上げた。どことなくぎこちない笑顔で彼は小倉を見返す。

「あ、いえ、大丈夫です。……そういえば、昔入院してたことあったなって思い出してました。ガキの頃だから、自分がなんで入院してたのかなんて知りませんでしたけど、多分それですよね」

「そうなんですね。なんだか怖い顔をしていらっしゃったので、嫌なことを思い出してしまったのかと思って、心配してしまいました」

「あはは、怖い顔って小倉さんにだけは言われたくないですよ」

「……そうですね」

「いやしかし、我ながらプライバシーだの実名だのって下りはフラグ過ぎましたね。お恥ずかしい。ああ、そうそう、それでもう一つ思い出したんですけど、もう一人の生き残りの陽遊肇さんていたでしょう?」

「あ、はい、もしかしてその方、過去のお知り合いとかでした?」

「いえ、それは違いますけど、その人、確か杉先生の病院にいらっしゃいました」

「えっ、そうなんですか?」

「昨日渋澤君たちと、先生のマンションに行く前に病院に寄ったって言ったじゃないですか。その時、診察室のベッドに寝たきりになってる人がいたんです。その人が陽遊肇さんだって、看護師さんが教えてくれたんですよ。漂木さんたちが聞いたところによると彼、寄生虫の後遺症で植物状態らしいです」

「寄生虫……ってことは三十年前のあの事件の後遺症ってことですか」

「かと。でも、寄生虫の集団感染の終息とほぼ時を同じくしてバラバラ殺人事件が始まり、その犯人たちは記憶が無いらしく、寄生虫事件の生き残りと健忘症患者を預かっていた杉先生が殺されるなんて、なんだか不思議な符号を感じますね。もしかして寄生虫とバラバラ殺人と健忘症は関係あるのかもしれませんよ」

 冷静な彼にしては珍しく、急に口の周りが速くなる。少し興奮気味に捲し立てる佐々木に、気圧されながらも小倉は首を振った。

「えっと、でも、寄生虫は人の手でどうにかできることではないですし、それを殺人事件と健忘症と結びつけるのは難しいかと……。寄生虫の後遺症で脳障害が起きて事件を起こしたり、記憶を失うってことは在るかもしれないですけど、当時の患者のほとんどは亡くなってしまった訳ですし……。その、私なんかは健忘症を発症しましたが、当時学生で寄生虫の被害は免れましたから当てはまりません」

「ああ……そうですね。少し飛躍し過ぎました」

 佐々木はどこか落胆したように勢いを落とした。その様子に、小倉は慌ててフォローを入れる。

「あ、その、でも、確かにただならぬ関連性は見えると思います。えっと、だから、もしかしたら、どこかで関わりがあったり、犯人の動機に繋がっていたりするかもしれませんね」

「あはは、そうですね」

「そ、そういえば、私も一つお伝えし忘れていたことがありました。前川夫婦の事件についてのことなのですが……」

「なんですか?」

「大したことでは無いんですけど、容疑者の水原琢磨が不思議なことを言っていると、担当の刑事さんが教えてくださったんです。水原はホテルに勤務していたらしいのですが、そのホテルの001号室はずっと同じ名義で借りられていて、なのにその部屋を訪ねてくるのはいつも違う人だそうです。やって来る人の中には水原の知り合いもいるので、後日その部屋のことを聞いてみたところ、『知らない』と誤魔化されてしまった。でも、もしかして、彼らは嘘を吐いたのではなく、本当に記憶が無くて部屋のことを知らなかっただけなのではないか、自分の健忘症の原因もその部屋にあるんじゃないか、という事らしいです」

「……へえ、それはまた、雲を掴むような話ですね」

「やっぱりそう思いますか?」

「思いますよ、さっきの俺の話より取り留めなく無いですか?」

「そうですよね。わざわざお話しするようなことでも無かったでしょうか」

「でも、単純に気になりはしますよね。その人たちは001号室で何をしてるんでしょう」

「このお話を伺ったときの刑事さんとは、秘密の寄り合い所にしてるんじゃないか、なんて話になりました」

「秘密にされると暴きたくなりますよね。うーん、北海道に参入してきた秘密結社の支社とか? 日本に潜入しているスパイや海外マフィアなんてことも……」

「かもしれませんね」

「いや、冗談ですよ。でも本当に気になって来たな、ちょっと行って見ようかな。この辺でホテルって言うと、あそこだけですよね。じゃ、今日は親子水入らずに水を差してしまって申し訳ありません。俺はそろそろお暇しますね。色々聞けて良かったです」

「あ、はい。こちらこそ」

「もしもホテルで何か面白いことがあったら、小倉さんに連絡しますよ。情報提供源ですからね」

「普通にホテルの方、通してくれないんじゃないですか」

「その時はその時です」

 そう言い残して、佐々木は疾風のように去っていった。小倉はその姿を見送ると、今度こそ資料を片付け、知り合ったばかりの友達と遊んでいる娘のもとに歩み寄った。その際、娘の友人が小倉を見て泣き出し、その保護者と一悶着あったものの、何とか小倉は娘と穏やかな午後を過ごすことができた。


◇◇◇


 佐々木は鬼気迫る形相で、一般車両に擬態した戦車を走らせていた。

 眉間にしわを寄せ、佐々木は窄めた口から細く長く息を吐く。そうでもしないと、頭が煮えくり返りそうだった。三十年ぶりにぶり返した記憶の膨大な情報量に、目が回りそうな気分だった。

 呼び水となったのは、図書館でのくだらない会話だ。整理するように、佐々木は蘇った記憶を静かに頭の中で並べ直していった。

 佐々木はまだ幼い頃、この町で寄生虫に感染し、昏睡状態に陥った。親の言う事には、突然倒れて、そのままま何日も何週間も、死んだように眠り続けたらしい。

 幼少期の佐々木は町外に名医を求めた両親によって、町を離れた病院に移された。すると不思議なことに、何の治療もされないうちに彼は間もなく意識を取り戻し、脳内からは寄生虫の影は消え、幸運にも体には何の後遺症も残ることは無かった。

しかし退院して家に帰った佐々木は、以来度々不思議な現象を経験するようになった。

 彼は時々、違う家の子供になるのだ。朝起きると知らない家に居て、知らない人に知らない名前で呼ばれ、見覚えの無い食卓を囲んだ。そして一日知らない子として過ごし眠りにつく。目を覚ますと、大抵は自分の家に戻っているのだが、また別の家にいることもあった。

 佐々木はそうして日ごとに色々な家を巡った。

 どうやらその不思議な現象が夢であるようだと分かったのは、親に再び病院に連れていかれた時のことだ。彼らが医者に説明することには、佐々木は時折、いくら呼び掛けても起きることは無く、一日または数日眠り続けるのだという。寄生虫に脳を食い荒らされた後遺症かと涙する両親の横で、佐々木は自分が気を失っている日付と、他の家の子として活動した日がリンクしていることに気付いた。それらは、自分が昏睡の中で見た夢なのだと佐々木は思った。

 結局病院の検査では何の問題も見つからず、様子見の一言で佐々木の奇妙な後遺症は放置されることになった。

 佐々木は夢を見続けた。眠り続ける時間は少しずつ長くなっていった。

 それらの夢は怖いものではなかったが、知り合いが居らず、自分が自分として扱われない世界には言知れぬ不安感があった。回った家の数が手足の指の数を越え、忍び寄る様な恐怖に遂に耐えかね始めた頃、佐々木は夢の中で一人の少年と出会った。

 彼はハジメと名乗り、佐々木にとても友好的で、その境遇に理解を示してくれた。

 彼もこの体は自分のものではないのだと語り、自分達は意識だけの存在で人の体を渡っているのだと教えてくれた。彼と佐々木は友達となり、夢の中で何度も顔を合わせて、その度に違う体で交流をした。

 しかし、ある日突然佐々木の夢は醒めた。

 いつもは一日が終わるまで途絶えることの無い夢が、突然真昼の内にぶつりと途切れ、彼は自室で目を覚ました。枕元には顔を真っ青にした母がいた。その手には、何やら魔術の類の道具がいくつも握られており、彼女が超常の力で佐々木を呼び戻したらしいことが窺えた。

 佐々木が何かを言うよりも先に、母は震える声で彼を問い詰めた。あなたは眠っている間何処にいたの、何をしていたの、誰と会っていたの。矢継ぎ早な質問に、佐々木は戸惑いながらも夢の全てを説明した。

 話を聞いた母はいよいよ死人のような顔になり、あなたが経験したのはとても恐ろしい事だから、全て忘れてしまいなさいと、記憶を柔らかく封印された。

 そして一家はその後すぐにこの町を離れ、以来佐々木は二度と人を渡る経験をすることもなく、それらを忘れて三十年余りを生きて来た。

 しかし、少し前にこの町に戻ってきた途端、彼は健忘症を経験した。まるで自分が一日消えてしまったかのように。そのくせ、体は勝手に活動したような形跡は残っているのだ。そう、それはあたかも、体の主導権を誰かに奪われたかのように。


 思い出したのは、確かに突飛と言われても仕方ない真実だった。けれど、その記憶は健忘症とバラバラ殺人、杉医師殺人の事件と結びつき、その綻びを埋め合わせ、絡まりを紐解いた。

 もしも。

 もしも、ハジメが陽遊肇で、今も人の体を渡り歩いているなら。

 バラバラ殺人や健忘症、杉医師殺害に彼が関わっているなら。

 健忘症が発生したのは彼に体を乗っ取られていたから?

 バラバラ殺人は他人の体で彼が犯したもの?

 杉医師は、彼に都合の悪い何かを知ってしまったから殺された?

 ならば、きっと水原の職場に現れた001号室に訪れる人物たちは陽遊肇の入れ物たちで、001号室は体は寝たきりで意識は人の体を渡り歩き、一つ所に構えを持てない彼の拠点だ。

 意識だけで人の体を乗っ取って回る。何故ハジメと、かつての佐々木は、そんな不可思議な力に目覚めてしまったのか。全ての元凶は、恐らくこの町で子供の脳を食い荒らした寄生虫だ。脳と言う密室から消え失せ、未だ正体も掴まれていない寄生虫。

 推測ではあるが、佐々木には一定以上の確信があった。しかし、実際に意識の渡りを体験し、魔法に親しむ佐々木以外で、こんな話を誰が信じてくれるだろうか。

良く言えば人の良い、悪く言えばチョロそうな小倉なら、信じてくれずとも、勢いに飲まれてホテルの捜索に付き合ってくれるかと思ったが、そう上手くはいかなかった。

 けれど、このままで良い筈がない。いつまた彼に体を乗っ取られるとも知れず、彼の起こす事件のしわ寄せを無抵抗に受け入れるしかないなんて、そんなリスクの下で生きるつもりは毛頭ない。

 001号室は佐々木にしか暴けない。

 真っ当な捜査でその部屋の戸を破ることは出来ない。

 バラバラ殺人と杉医師殺害、それらと陽遊肇と寄生虫を結びつけるものが、解決の糸口がそこにきっとある。忘れることで無かったことにしてきた、あの夢の真実も。

 入室を断られるならホテルを爆破してでもその部屋に押し入ってやる。そんな決意を携えて、佐々木は羅臼町唯一のホテルに到着した。


 しかし、佐々木の覚悟に反して、拍子抜けなくらい簡単に001号室への入室は許可された。見ず知らずの誰かが001号室に入りたがるのは、もうホテル側には慣れたことなのだろう。鍵を受け取りつつそれとなく探りを入れると、部屋の滞在者名義は『ヤマダタロウ』と言ういかにも偽名臭い名前だという事と、あの日曜日、渋澤らしき人物が訪れていたことが分かった。

 001号室はホテル一階の西端の角部屋だった。斜陽がギラギラ照るのが、廊下の窓からよく見える位置。目が痛いほどの毒々しい夕日の中に、001号室の扉は浮かび上がっている。目の高さにくすんだプレートの嵌った飾り気のない扉。そのなんの変哲もない無機質さには、圧迫感を伴う不気味さがあった。

 佐々木はおもむろにその鍵穴に鍵を差し込む。凹と凸とがかみ合わさり、然るべきものが然るべき空白に収まった感覚が、指先から伝わって来た。一呼吸の後、佐々木は鍵を回す。金属音がやけに高く響いて、部屋は開かれた。らしくもなく緊張に臆しながら、佐々木はドアノブを回し部屋の中に立ち入った。

 暗い部屋だった。明かりが消えているのは当然として、分厚いカーテンが夕日を固く遮っており、およそ光源が無い。佐々木は手探りでスイッチを探し、部屋を全灯にした。パッと白い明りが部屋の全貌を曝す。佐々木は部屋のオートロックがかかったのを確認して、部屋を調べ始めた。

 部屋の中は清潔だった。ホテルの備品と思われるものばかりで、特定の個人の荷物と思えるものはまるで無かった。ベッドには皺ひとつなく、ごみ箱は空っぽだった。窓辺にうっすらと積もった埃から、特に清掃サービスなどは施されていないらしいことが窺えた。だとすれば、この部屋には生活痕が無さすぎる。この部屋の主は、ここに何をしに来ているのだろう。

 佐々木は相手の考えに思いを馳せ、その動きをなぞろうと部屋を見渡す。

 もしもここの借主がハジメなら、この部屋の用途は生活拠点としてではない筈だ。寝食や入浴は乗っ取った相手の家で済ませればいい。ならばこの部屋は、それこそ寄り合い所として誰かと会うための場所なのか? いや、それならホテルをずっとキープして置く必要はない。必要な時に一時的に借りればいい。そうだ、この部屋の借主が誰であれ、ここをずっと確保して置く理由が何かある筈なんだ。

 そこで佐々木は、部屋の隅のある物に目を留めた。小さな冷蔵庫とその上に乗せられた金庫。

 そうだ、ハジメは意識だけで行動しているのだから、物を持ち運べない。例えば何か彼の所有物があったとして、彼の意識が新しい宿主へ渡った時、それは前の宿主の手元に残ってしまう。今の宿主から次の宿主へ、何かを引き継ぐ場所として、このホテルは使われていたのではないか。

 その思い付きに、手始めに佐々木は冷蔵庫の方から開けてみた。特にこれと言ったものはなく、タッパーに入れられた豚肉のソテーのような物が一つ入っていた。食べ物なんて腐ったらどうするんだ? と一瞬思ったが、すぐに佐々木ははっとする。悠長にしているべきではない。借主がどのくらいの頻度でここを利用しているのかは知らないが、少なくともこれが腐る前に帰ってくる予定があるのだろう。当然と言えば当然だが、今この瞬間にも帰ってくる可能性はあるのだ。

 佐々木は少し性急に冷蔵庫を閉めると、隣の金庫に手をかけた。頑なな手ごたえで鍵がかかっているのが分かる。

 鍵はダイアル式、時間さえかければ何とかなるようなものだが、許される時間がどれだけあるのかは分からない。こんな所で人知を超えた狂気の殺人犯と、感動の幼馴染再会シーンを演じるなど、御免被りたい。

 金庫の大きさは腕で抱えられるくらいだが、持ち上げるには重さ的に厳しいと思われる。そして生憎、物をすり抜けたり、中身を透視したりと言う魔法は佐々木の得意ではない。また、破壊しようものなら中身ごと吹っ飛ばしそうな気がする。

 佐々木はその表面を一撫でした。途端、それは重力の縛りを失ったかのように、ゆっくりと浮かび上がった。佐々木がさらにもう一度金庫に手を翳すと、たちまちそれは見えなくなる。透明になったというより、周囲に擬態する迷彩を施したという感じだ。

 そして見えない風船のようになった金庫を、佐々木は小指に引っ掛けて持ち出した。


◇◇◇


「小倉さん、今来れます?」

「え、はい……」

「三丁目のコンビニで待ってます」

 お風呂上がりに牛乳を飲もうと思ったところで、佐々木から着信があった。非常識と言うほどではないが、夕飯も終わり、後は眠たくなるまでゆっくり過ごそうというような時間だ。小倉は怪訝な気持ちで、その要請に頷いた。

 小倉は牛乳を飲み干すと、コップを洗い、リビングでテレビを見ている母に近寄った。

「ごめん、ちょっと出かけて来る」

「こんな時間に? いやね、何か事件なの?」

「ううん、知り合いが急ぎの用事があるみたいだから」

「湯冷めしないようにね、温かくしていきなさいよ」

「うん」

「あれ、兄貴出かけんの? なら、帰りにプリン買って来てよ」

「良いけど、遅くなるかもしれないぞ」

「深夜のプリンは背徳の味!」

「体に悪いよ」

「うそうそ、明日の楽しみにするから」

 佐々木の着信から十分後には、小倉は母親と弟に見送られて、家を後にした。


 田舎町だ、大抵の店はとっくに営業を終え、灯りを落している。そんな中で、二十四時間営業のコンビニの無機質な白い光だけが燦然と輝いていた。

 広い駐車場の隅に一台だけ、銀色の丸いフォルムの車が停まっている。佐々木はその傍らに佇んでいた。

 彼は、酷く茫洋とした様子で虚空を見つめていた。つい数時間前、図書館で会った彼は、おおむね初対面の時に抱いた印象に違わぬ、きっぱりはっきりした青年だった。僅か半日で何かあったのか、それとも、小倉が気づかなかっただけで、彼にはあの時から既に何かあったのか。その雰囲気に少し躊躇いながら、小倉は彼に歩み寄った。

「ああ、小倉さん、来てくれてありがとうございます」

「いえ。えっと、何かあったんですか?」

「ちょっと頼みたいことがあって、できれば急ぎで。急に呼び出しちゃってすみません。引き受けてもらえますか?」

「あ、はい。その、お気になさらず。私にできることでしたら、喜んで」

 快く了承した小倉に、佐々木は首だけで軽くお辞儀をすると、車の後部に回りトランクを開けた。そして小倉を近くに招き寄せた。そこには、小ぶりでシンプルな金庫が一つ乗っている。

「ホテルの001号室で、この金庫を見つけたんです」

「えっ」

「これを開けたいんです」

「えっ」

 佐々木は真剣な瞳で小倉を見る。

 小倉は彼の表情を呆気に取られて見返した。佐々木の言葉を解するのに、数秒の時間を要する。佐々木は混乱する小倉を黙って見つめていた。

「……えっ、ど、え、あの、持ってきちゃったんですか?」

「はい」

「ほ、ホテルの方は……許可してくださってるんです、よね?」

「無断で持ってきました」

「はい⁉」

「001号室には、簡単に入れてもらえました。多分、001号室に入りたがる奴が突然現れることに、ホテルの方は慣れちゃってるんでしょうね。それで、そこにこれがあったので、持ってきちゃいました」

「いや、だからって、あの、は、犯罪ですよ! 窃盗罪ですよ! 無理に開けたら、器物破損も問われます!」

「構いません」

「構わなくないです! 興味本位でやっていい事じゃありません! 今からでも遅くありませんから、ホテルの方に事情を話しに行きましょう? なんでしたら、私も付き添います。佐々木さんにあのホテルのことを、軽率に話した私にも責任がありますし……」

「興味本位じゃないです。小倉さん、俺は、謎の001号室が気になる余り、一線を越えた訳じゃありません。この中に、寄生虫とバラバラ殺人と健忘症を結びつける証拠があります」

「佐々木さん、だから、それは……」

「妄言ですよね、分かってます。けれど、俺には分かるんです。物的証拠は示せませんけど、俺が過去に経験したことを踏まえると、この三つは実際に結びつくんです。口で説明して分かってもらえるとは思えません。だからこの金庫を開けるところを、小倉さんに立ちあって欲しかったんです」

「そんなことを仰られても……」

「お願いです、小倉さん。なんならこの金庫を開けた後で、俺を逮捕してくれても構いません。だから今だけは黙って、事の真実を、俺と一緒に見届けてください」

「……」

 佐々木の必死な様子に、小倉は押し黙る。

 佐々木は飄々としていて、本心が見抜けないタイプの男だが、その言葉には嘘が無い気がした。勿論、全てが都合の良い嘘で、彼が小倉を利用している可能性もある。彼が語りたがらない部分が、小倉にとって取り返しのつかない不利益に繋がる可能性もある。

 けれど、彼を信じなくてはならない気がした。

 そうだ、図書館では彼は冷静だったと思っていたが、帰り際、寄生虫の話をした時からは、どこか焦りや動揺のような物を感じさせた。

 実際にあの事件を体験した佐々木にしか分からない何かが、あったのではないか。

 小倉も健忘症患者と言う点では当事者であり、佐々木と目的を共有する立場だ。その解決のために、リスクを負うことを覚悟するべきなのではないか。

 非化学極まる刑事の勘。単なる小倉の経験則。

 けれど小倉はそれを信じて頷いた。

「分かりました」

 小倉の長い沈黙に強張っていた佐々木の顔が、俄かに緩む。

「ありがとうございます。……良かったです」

「あの、佐々木さん、これ、地面に降ろしてしまっても平気ですか?」

「ああ、はい、もちろんです」

「失礼しますね」

 小倉は佐々木の車のトランクから、金庫を担ぎ上げ、地面に降ろす。

「それじゃあ、早速暗証番号を特定して……」

「すみません、少し離れて頂いてもいいですか?」

「え?」

「あと、申し訳ありませんが、これを少し持っててくれますか?」

「はあ、わかりました」

 小倉は佐々木にコートを手渡すと、金庫に向き直った。セーターの袖を捲り、夜の寒さに悴んだ指先を吐息で軽く温め、ゆるく掌を開閉する。

 それから軽く足を開いて重心を落すと、小倉は固く拳を握り締めた。そしてきりきりと弦を引き絞る様に拳を振りかぶる。

「あの、まさか小倉さん……?」

 彼の意図を察した佐々木が声をかけようとした瞬間、小倉は体軸の回転に乗せて、金庫めがけて思いっきりその拳を打ち抜いた。

 拳が空気を割り裂く音と風圧が、一歩離れた佐々木にも感じられたような錯覚がした。一拍遅れて金属が強打される重く鋭い音が轟く。

 小さな金庫が、魔法は関係なく物理の力で夜空を舞うのを、佐々木は茫然と眺めていた。やがて推進力を失ったそれは、間抜けな音を立てて墜落した。小倉はその落下地点に走りよると、金庫を確認して、立ち尽くしている佐々木を呼んだ。

「やりました! 金庫の扉、外れましたよ、佐々木さん」

「そりゃ、そんなやり方したら確かに器物破損に問われますよ!」

 金庫の開け方について、自分と小倉には絶大な認識差があったらしいと悟って、佐々木は思わず声を上げた。幸いなことに破壊音も佐々木の叫びも、広い駐車場に拡散して消えて行った。

 つまらない常識人だと思っていた小倉の、突然の力業に少し戸惑いつつも佐々木も金庫に近寄る。歪んで開いた扉の中から、内容物が零れ出ている。

「なんでしょう、これ……封筒にファイル……『我が遍路』? 紀行記でしょうか?」

「こっちは地図ですね、この点は何の記録なんでしょう」

 大判の茶封筒、タイトルが打たれた分厚いファイルに、青い点がいくつも記された地図。それが金庫の中身だった。封筒にはさらに何か入っていることが窺い知れた。軽く覗くと、カルテのような物と、斜里町周辺の住所が書かれたメモが入っていた。地図は羅臼町の物で、パッと見たところ打たれた点は町の中心部ほど密集しており、外側に行くに連れ疎らになっている。

「とりあえず、それ見てみましょうか」

 佐々木は小倉が拾い上げた『我が遍路』と題されたファイルを指して言った。小倉はその促しに頷き、それを開いた。そこには気取った日記風の文章が綴られている。


◇◇◇


 我が遍路

 私は意識だけの存在だ。肉体は持たない。

 そのせいか、私の記憶は時として極めて曖昧で虚ろなものであるので、記録が必要だ。


 私は人間の体を渡っている。

 私は目を覚ますと、ランダムな宿主の体で覚醒する。体に宿る時間にはバラツキがある。数時間の場合もあれば、まる一日や数日の場合もある。私が眠り、目を覚ますと次の宿主に渡っている。

 ここで大切なのは意識の渡りの発動には、宿主が眠ることではなく、私が眠ることが大切だという事。これを記録している現在の肉体に渡るまで、私はある男に三日間宿っていた。その男の肉体で睡眠をとっても、私が意識を保持している限り意識の渡りは起こらなかった。


 以前の宿主に接触。興味深いことに私が彼に宿っていた間の記憶は無くなっているらしい。


 宿主の記憶は探れることが分かった。意識して記憶を読み取ろうとすれば、宿主の過去の記憶や現在の感情を読み取れる。しかし、あくまでも紙に書かれている物を見るような感覚。私の意識がそれ等に共鳴することは無い模様。

 だが大きな発見だ。これで、宿主の人間性を再現可能。宿主の身の回りの人物との交流が円滑になると思われる。私の存在は気付かれてはいけない。


 私の宿主はランダムであると感じていたが、男性であるという共通点が見つかった。女性に宿ることは無い。他に共通点があるかもしれない。試しに、これから宿主に宿った時点での現在地を地図に記録していく。


 私の可能性と限界を知る必要がある。実験を行う。


 実験1 運転技術について

 サンプル1

 現在私が宿っているのは、一般的な運転テクニックを有する男だ。この男の記憶から、一、二週間に一度程度の頻度で、遠出する際に車を使うと分かった。この男の肉体で運転を行った結果、ある程度不自由なく運転を行えた。

 サンプル2

 現在私が宿っているのは、熟練のドライバーだ。運送関係に努め、毎日数時間運転を行う。この体で運転を行った結果、とても快適に運転を行えた。不測の事態でも滑らかな対応が可能。また、宿主が運転を行った経験がある物は、私が見たこともない特殊車両であっても運転が行えた。

 サンプル3

 現在私が宿っているのは、いわゆるペーパードライバーだ。運転免許は有する物の、取得から数度しか運転を行っておらず、ここ数年運転は行っていない。この体で運転を行った結果、アクセルとブレーキを踏み間違え、信号を渡っていた人間を殺傷した。

 サンプル4

 現在の宿主はサンプル3とほぼ同程度の運転能力。発信前に、アクセルとブレーキを確認。はじめはやや覚束なかったものの、しばらく運転を行うとサンプル2と同じ程度に運転が可能になった。サンプル3、4においては、私の知識が宿主にアジャストするのに時間が掛かったものと思われる。

 補足

 オートマ限定の運転免許をもつ宿主でマニュアル車を運転。サンプル4と似た結果。宿主は無免許運転で逮捕された。

 結果

 肉体の技術・知識は肉体の熟練度に左右される。しかし、一度知識として私の意識に取り込まれれば、やや時間が掛かるものの、他の未熟な肉体でもアウトプット可能。肉体を動かす神経は私が支配できる。さしずめ宿主がマシンで、私はパイロットと言ったところ。


 地図の方にサンプルが溜まってきた。興味深い結果。どうやら、私が渡る宿主は羅臼町内にいる男性のみ。町外に住む者でも町内に居れば宿主となり得る。逆も然り。


 実験2

 試しにある宿主の体で町の外に出てみた。町の外で眠った場合どうなるか。やはり羅臼町にの人間に渡るのか、それとも、別の町に範囲が移るのかを確認。

結果、やはり羅臼町内の男性で目覚めた。


 実験3

 眠る前に宿主が死亡した場合どうなるのか。

自然に私が眠りに落ちるのは、その肉体に渡ってから最低でも数時間はかかる。なので、ある宿主に渡った直後に練炭自殺を決行。

 結果、宿主の生命活動が停止する前に私の意識が休眠状態に入り、次の宿主へ移った。


 私は渡る相手を選べない。これは不便だ。

 優秀なマシンもあれば、劣悪なマシンもある。技術や知識はパイロットである私の物があるため、どんなマシンであれ優秀に機能させられるが、唯一完全に宿主に依存する部分がある。マシンの外見的特徴は私にはどうしようもない。


 考えられる二つの方法。手段1。劣悪なマシンをすべて排除すれば、残った優秀なマシンだけを渡ることができるのではないか? しかし、対象となる範囲が膨大、時間的コストがかかる。手段2、私自身を一つの肉体で固定する。私が人間となる。


 方法があれば手段2が妥当。私はどうすれば人間になれるか。


 考えるに、私が男性しか渡れことに意味があるのではないか。


 人間と言う記号。家族や友人。

 欠落、対、男性。私。完全、不完全。


 女性。


 母親、妹、彼女、妻、娘。


 考察の結果、女性と言う記号を取り込むことで、私は完全な人間に成れると推定。

 これから、手段1を実行しつつ、私を固定するのに適当な肉体に渡り次第、肉体の周辺女性を使って手段2を試みることとする。またその記録を同ファイルに纏める。


 上記の記録から五回目の渡りで、好ましい肉体に移る。早速過程を検証し、これ以降に記録を纏める。


 検証1

 マシン:26才男性。外見レベル:良。対象:19歳女性。マシンとの関係性:妹

 好ましい手応えあり。肉体と私が融和する感覚。しかし一瞬であり、固定は失敗。だが方向性は間違っていないらしい。

 改善点:生食は無理があった。とても臭い。


 検証6

 マシン:32才男性。外見レベル:可。対象:31歳女性。マシンとの関係性:妻

 以前の検証結果を考慮し、完全に取り込むことを目指した。例の感覚はあるものの、微妙。また、完食は無理がある。

 改善点:薄々感じてはいたが、この先の検証全てを焼肉だけで乗り切ることは難しい。たれの種類を増やすだけでは打開不可能。今まで無視していたが、調理系の知識の獲得が急務。


 検証14

 マシン:25才男性。外見レベル:可。対象:51歳女性。マシンとの関係性:母

 特定の部位が重要であるという仮説。参考、五臓六腑論。感情は腹で感じるという説も。

例の感覚は極めて薄い。腸に効果はない模様。

 改善点:灰汁捕りは大事。えぐみが酷い。


 検証17

 マシン:41才男性。外見レベル:良。対象:34歳女性。マシンとの関係性:隣人

引き続き例の仮説を検証。意識と言う点から重要な器官。取り出すのに苦労。例の感覚は強いが、残念ながら決め手に欠ける。

 改善点:独特の感覚が苦手。ビネガーなどで味を締めるも、少しきつい。刻んで何かに混ぜるなどの手段を講じるべきだった。


 検証23

 マシン:28才男性。外見レベル:優。対象:26歳女性。マシンとの関係性:恋人

 引き続き例の仮説を検証。女性と言う記号にこだわる以上、重要な器官。結果を期待。強い融和の感覚、あと少し、あと少しだった。

 改善点:この器官は、機能している状態でないと意味が無いのか。


 検証24

 

 検証25


 杉という医者、まさか私の存在に気付き始めている? 渡りの副作用の記憶喪失から足が付いたか?厄介だ。注意が必要。


 検証26

 そうか、分かった。いや、しかし、そんなに都合よくその状態の女性は見つからない。


 検証27

 ついに最適の被検体に渡る。隣人女性が妊娠している。これで私は人間に成れる。

マシン:41才男性。外見レベル:可。対象:23歳女性。マシンとの関係性:隣人

 対象の詳細:氏名は前川茜。マシンの隣人、夫が居り子供を妊娠している。今まさに機能している器官と、特殊な状態のサンプル。どちらも強い効果が期待できる。


これで私は人間に成れる。


 対象の確保には成功。しかし対象は絶命の直前、携帯から夫に連絡。一部を食したのち、後始末に戻る。

 しかし、その途中でマシンが確保された。困った、意識を渡ったものの、これは私を固定するのに相応しくない。しかし、次の渡りで良いマシンに移れるとも限らないし、適切なマシンに移るのを待っていたら、折角確保したあれが腐ってしまうかもしれない。

 バターソテーにしたから、しばらくは持つと思うが……。


 赤ん坊は足が速くて腐りやすいのに、どうしよう。


◇◇◇


 ファイルの最後の記録には、一枚の写真が添付されていた。

 白い大判の皿に乗せられた、肉と野菜の炒め物の写真。撮り方や盛り付けはやや素人臭い素朴さがあったが、それでも居酒屋のメニューに載っていそうな写真だ。

 ただ、調理済みの肉片に、小さな手足の形が見え隠れさえ、していなければ。

佐々木は吐いた。

 意識を渡る殺人犯はともかく、殺した人間を食べているなんて想像だにしていない。まさか、001号室の冷蔵庫にあったのは。あまりの気色悪さに、思考を拒絶して胃液が逆流した。

 小倉はファイルを投げ捨てて蹲った。

 力任せに叩きつけられたファイルから、一連の資料が外れて、あふれ出る。意識を渡る存在の、冷たく無機質な狂気の記録。淡々と淡々と連なる、人殺しと食人の記録。筆跡はページや文章によってそれぞれ異なり、複数の人間が書いたものだと思われた。けれど全ての記録は、たった一人の記録でしかない。

 酷く酷く苦しい沈黙が続いた。息ができなくなるような気持ち悪さで、死にそうな位のおぞましさ。

 三十年も前から、そいつはここに居た。人の意識を渡り、他人の体で殺人と食人を行い続けていた。人の頭の中に巣食う、人の頭の中にしかいない怪物。妄想のような悪夢の実在。

 そいつは渋澤の中にも、漂木の中にも、小倉の中にも、佐々木の中にもいた。何食わぬ顔で侵入し、彼らの全てを掌握して、彼らを演じて、彼らに成り代わってそこに居た。

 そして、偶々そのお眼鏡を逃れた彼らは助かった。水原琢磨は見染められてしまった。前川茜は助からなかった。

 重苦しい沈黙を、小倉の低い声が破る。

「……どうすれば、こいつを止められますか。あなたなら、何か分かっているんですよね、佐々木さん」

 それは詰問にも似た、厳しい口調だった。小倉は両手で顔を覆っており、その強面の表情は窺えなかったが、それでも、その迫力は気圧されそうになるものがあった。今までの人の良さは何処へやら、未だにえずく佐々木を見向きもしなければ、気遣いもしない。どころか、このまま黙るなら力づくにでも、という意思さえ感じさせた。

「……こいつには、本体があります。こいつ自身の、生まれ持った肉体があります。そっちにアプローチをかければ、もしかしたら。心当たりがあるので、後は俺に任せて……」

「陽遊肇ですか」

 はぐらかそうとした佐々木を、射貫くように小倉は尋ねる。

「あなたは言っていましたよね、この金庫の中には寄生虫とバラバラ殺人と健忘症を結び付ける証拠があると。確かにバラバラ殺人と健忘症は繋がりました。けれど寄生虫が余っています。だとしたら、それがあなたの犯人の心当たりでしょうか。あなたと共に生き延びたという、寄生虫感染の被害者、陽遊肇」

 佐々木は言葉を失う。何かを言おうとしても、今の小倉には嘘も謀りも通じないような気がした。

「今、杉先生の病院に入院しているんでしたっけ、彼」

「……っ」

 小倉は徐に立ち上がる。佐々木は慌てて立ち上がって、彼の進路をふさいだ。

「ま、待ってくださいよ。今から行くんですか、行ってどうするんですか? 陽遊肇を殺すんですか? 窃盗だとか器物破損だとかに怒っていたあなたが?」

「警察に出来るのは人間を逮捕することまでです。幽体離脱した意識に手錠なんか掛けられません。それにこんな話を、誰が信じるんですか。こんなもの証拠にすらならない、なったとしても、陽遊肇には行き着きません。こいつの本体をどうこうするなんて、法やルールに則ってたら無理でしょう? だったら仕方ないじゃないですか」

「警察官なんでしょう、貴方」

「ええ。でもそれ以前に私は、雛子の父親です」

 小倉は止める佐々木を睨みつける。

「胎児を食べたって人間になんか成れない。こいつはこれからも人間に成ろうと犯行を繰り返す。もしかしたらまた、私の体を乗っ取るかもしれない。今回は何事も無かったけど、次は雛子が目を付けられるかもしれない。雛子が殺されるかもしれない。俺が雛子を殺して食うかもしれないんだ!」

 最後の方は怒鳴るような小倉の痛烈な叫びに、佐々木は気圧された。

 小倉がこのまま杉の病院に行って、植物状態の陽遊肇を殺す。小倉なら、凶器は必要ない。あの強烈な拳さえあれば、無抵抗の病人など簡単に撲殺できる。もしかしたら一発で終わるかもしれない。小倉はそれで警察に捕まって、事件のことを明かそうが明かすまいが、どちらにしろ重い刑に処されるだろう。

 それで事件は恐らく解決する。

 佐々木も、健忘症患者たちも、もう陽遊肇に怯えることは無く、三十年近くに渡ったバラバラ殺人事件と寄生虫の悲劇は人知れず幕を下ろす。

 殺された人間は誰も戻って来ないけれど、小倉の人生と家庭は滅茶苦茶になるけれど、佐々木には何の不都合もない。

 小倉も、その娘も、ハジメも、佐々木にとっては知り合ったばかりのような赤の他人だ。どうでもいい。

 ただ、少しだけ、納得できない気がした。

 それは、マンションを爆破もしていないし、家宅侵入もしていないし、職業を頑なに秘匿もしていない、呼び出したら飛んで来てくれる小倉が殺人犯になることへの義憤なのか、かつて意識の孤独の中で寄り添ってくれた友人であるハジメへの未練なのか、佐々木自身にも分からなかった。

 けれど、確かに陽遊肇をどうにかしなければ、ずっとこのままだ。

 陽遊肇を殺さなければ。

「あっ」

 そこまで考えて、佐々木はふと思いついた。小倉が首を傾げる。

「そうだ、何も殺す必要はないんですよ、小倉さん!」

「……どういうことですか」

「陽遊肇を、町の外に連れ出しましょう。そうすれば、全部解決します」

「どうして?」

「実は、俺が寄生虫事件と殺人や健忘症を結びつけたのは、俺自身かつて意識を渡った経験があるからです。ガキの頃、寄生虫に感染した直後のことでした。でも、この町を出てその能力は無くなりました。だからきっと、陽遊肇の本体を町の外に運び出せば、陽遊肇はもう意識を渡ることは出来なくなると思うんです」

「そう、なんですか。そんな事が……」

 捲し立てる佐々木に、今度は小倉が押される。

「今日、図書館で寄生虫のことを知った時、その記憶も思い出したんです。それまですっかり忘れてたんですけど」

「ああ、だからあの時、急にあんなことを言い出したんですね」

「陽遊肇を町外の……できれば道外の病院に移転させましょう。もちろん、これだって結構灰色寄りの黒な根回しとか、偽装とかは必要になりますけど、それは見逃してくれますよね? 小倉さんだって、雛子ちゃんのためって言うなら、本当は殺人犯になんかなりたくないでしょう?」

「っは、はい、もちろんです!」

「今度こそ、後は俺に任せてください」

 佐々木が胸を叩くと、小倉の強張っていた顔が弛緩する。緩んだところで、凶悪な造形はそのままだが、冷たかった態度には温度が戻っていた。

 佐々木の心も弾んでいた。これが一番、最良の解決方法だ。

 死んだ人は戻ってこないけれど、小倉は殺人犯にならないし、ハジメは死なない。健忘症にもバラバラ殺人にも終止符が打たれる。

「じゃあ、そういう事で」

「はい。あ、私、プリンを買って帰らないといけないんでした……」

「あ、じゃあ、コンビニ入りましょうか。俺も着替えと水を買いたいです。落ち着いたら、口の中が気になってきました。ゲロ臭くて……」

「駐車場で五月蠅くしちゃいましたしね、罪滅ぼしも兼ねて、お金を落していきましょう」


 ◇◇◇


「やあ、るりちゃん、朝帰り? ひゅー! まあ、朝って言うより深夜だし、ワンナイトなお相手に振られちゃったのかな?」

 晴れやかな気持ちで家に帰ったら、テンションの高い客人にうざい絡まれ方をした。佐々木の機嫌は急降下した。ぐっちゃぐちゃの包帯を巻いた漂木が、我が物顔で寛ぎながら、佐々木を迎え入れた。

「あんた医療関係者なんでしょう。そんな治療の腕で大丈夫なんですか」

「あはは、厳しいこと言わないでよ。それで、何か収穫あったの?」

「ええ、マンション爆破の件については分かりませんでしたけど」

「それ収穫ゼロって言わない?」

「でも、健忘症とバラバラ殺人と杉医師殺害と、三十年前の寄生虫事件を解決してきました」

「目的を見失った結果がすごすぎる。え? なになに、どういう事? もちろん私だって健忘症の当事者で、杉医師の死体発見者の一人で、バラバラ殺人の加害者家族と接触があるんだから、教えてもらえるんだよね?」

「最後のこじつけ過ぎません?」

「いいからいいから。それで三十年前の寄生虫事件って何?」

「あー、まあ、それはですね……」

 そうして佐々木は漂木に事のあらましを語り聞かせた。寄生虫事件に始まる陽遊肇の意識の渡り、その後遺症としての健忘症。陽遊肇が人間に成りたいがために女性を殺し、その肉を食っていたバラバラ殺人事件。意識だけの存在がいることに気付き始めて殺された杉医師。そして、陽遊肇の行く末について。

「ふーん。すっごいサイコなファイルもあったもんだね」

 佐々木が持ち帰って来た金庫の中身を事も無げに見分しながら、漂木は軽く言う。

「こっちの封筒には……意識だけの存在についての資料が纏めてあるんだ。ん? この住所は先生の自宅だね? でも、やるじゃん杉先生。こんな少ない情報から、よくここまでたどり着いたもんだよ。ほとんど真実に辿り着いてるじゃん、この人」

「だから殺されちゃったんですけどね」

「陽遊肇は日曜日に渋澤君に憑依して、この封筒を盗み出したんだね。それで先生が余りにも知り過ぎているから、殺しに行った。だから月曜日に陽遊肇は『渋澤塔』って名前を口走ったのか」

「あの言い草からすると、先生も取り憑かれたことがあるみたいですけど」

「その時点ではまだ、殺すほどじゃなかったけど、なんかこいつ危ないなって気づかれちゃったってことなのかな?」

「ですかね?」

「でさ、結局全ての元凶はその寄生虫って事? るりちゃんとハジメ君がそんなことになっちゃった原因は」

 漂木はファイルを雑に投げると、佐々木に問いかけた。

「そうなんじゃないんですか。未だに正体不明らしいですし」

 魔女である母が、真っ青になって恐ろしいものだというほどの何かだ。佐々木は心の中でそう付け加えた。

「じゃあ、俺は寝るんで」

「早いね?」

「明日から爆破のもみ消しと、陽遊肇の移送の根回しで忙しくなりますし。ていうか、もう充分遅いでしょ」

「あはは、それもそうだね。おやすみ」

 佐々木が寝室に引っ込むのを見送って、漂木は一度放りだしたファイルを手繰り寄せて再び眺める。

 夜も更け往く中、陽遊肇の記録を繰り返し、繰り返し、眺めて漂木はうっとりと呟いた。

「意識を渡らせる正体不明の寄生虫、かあ……いいなぁぁ…………欲しいぃ……」

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