月曜日


 集会の翌日、深々と雪の降る静かな月曜日の朝、小倉は七歳になる娘にべちべちと顔を叩かれて目を覚ました。布団を畳み、朝からテンションの高い娘を抱き上げて階段を降りると、台所からみそ汁の香りが漂ってきた。

 台所の入り口に下げられた暖簾をくぐると、割烹着姿の小柄な老女が、鍋をかき回しているのが見えた。彼女は小倉に気付き振り向く。

「あら、おはよう、鉄貫」

「……おはよう、母さん」

「相変わらずあんたってば、朝弱いわねえ。ほんと母さんの子とは思えないわ」

「……何か手伝うことある?」

「ご飯よそってちょうだいな。雛ちゃんのお椀はそこにあるからね」

「わかった」

「ばあば、あたしもお手伝いするー」

「そう? 雛ちゃんは偉いわね、お父さんと違って早起きだし。じゃあ、じいじとおじちゃん起こしてきてくれるかしら?」

「うん!」

 娘がどたどたと二階に戻っていく足音を聞きながら、鉄貫は炊飯器の蓋を開けた。ホカホカと湯気を立てる米を、人数分茶碗に盛り付けていく。欠伸を噛み殺しながら、緩慢にしゃもじを動かしていると、母親が話しかけてきた。

「あんた、正月休みはいつまでなんだっけ? あと数日くらいはこっちにいるの?」

「えっと、残り二日くらいかな。木曜には仕事が入ってたはず」

「あら、慌ただしいわね。警察が忙しいなんて嫌な世の中だわ」

「そうだね」

「……昨日行った集会どうだったの? やっぱり、変な病気なの?」

 みそ汁や焼き鮭をお盆に並べながら、母親が少しトーンを落として質問してくる。

「大丈夫だよ、体には異状ないって病院でも言われてるから」

「そう? ならいいけど……」

「昨日は同じ症状の人が集まっただけで、新しく分かったことは無くて……あ、そうだ、ちょっと気になることがあるから、今日は雛子のことお願いしたいんだけど」

「今日は、じゃなくて今日も、でしょ」

「……ごめん」

「良いわよ、どうせ今日は雛ちゃんと隣町のショッピングモールに行くつもりだったし。けど、冬休みでこっちに居る間くらいどっかでちゃんと遊んであげなさいよ。ただでさえ離婚してあの子の親はあんただけなんだから、寂しい想いさせたら駄目だからね」

「……うん。いつも、ごめん」

「だからあんまり無茶してもダメなのよ。記憶のことだってあるんだから」

「うん、気をつけるよ」

 小倉は母親と食事を居間に運んでちゃぶ台に並べ、娘に起こされて階段を下りてきた父親と弟が席に着くのを待って、朝食を摂った。


 コミュニティーセンターに向かうバスに揺られながら、小倉は昨夜前川家で見つけたメモの写真を見ていた。

 水原夫人の話を聞いた時点までは、小倉は積極的に何かをしようという気はなかった。水原母子の追い詰められた様子を痛ましく思いはしたが、一警察官として水原琢磨の無実よりも警察の仕事を信じる気持ちの方が大きかった。せめてこの母子が、これ以上彼の犯した罪の飛び火に苛まれることなく、生活していければと願うばかりだった。

 けれど、このメモを見て小倉の気持ちは少しだけ変わった。事件の捜査や、水原琢磨の今後について、自分にできることは無いとしても、できることなら行方不明だという前川茜を見つけてあげたい、と思った。

 水原琢磨は発見された時点で、コートに前川夫妻両名の血液が大量に付着していたことが確認された、という。だからこそ、未だ遺体が発見されて居ないにも関らず、前川茜の死は確定されたのだ。つまり、今更探したところで、彼女の生存は絶望的ということだ。もちろん、彼女が宿していたという新しい命の方も、同じく。

 だから警察としては、取り急ぎ彼女の捜索よりも、容疑者の尋問を優先したいところなのだろう。実際、水原琢磨に自白させた方が、むやみに探すよりも手っ取り早い。

 けれど、彼は犯行時の記憶を失っている。それが事実でも、あるいは罪を軽減するための詭弁でも、どちらにせよ前川茜の発見は遅れるばかりだ。最悪、見つからずに裁判が終わり、捜査が打ち切られるまであるだろう。

 このまま誰にも見つけられずに、ただ忘れ去られるかもしれない前川母子のことを思うと、小倉は、たとえ無駄でも探してやりたい気持ちになった。大掛かりな捜査権限はなくとも、死体が遺棄されそうな場所を見て回るくらいのことは出来なくもない。漂木には警察という職業は関係ないと何度も釘を刺したが、こういうことなら、警察としての経験や勘が役立つかもしれない。少なくとも一般人よりは、『怪しい場所』の目途を付けやすい。

 取っ掛かりとして、まずは水原夫人に前川夫人の生前の行動習慣やメモについて伺おう。そんな決意とともに小倉はバスを降りた。


 水原野枝は、昨日の今日で小倉が訪ねてきたことに驚いたようだったが、前原茜の行方が気になること、事件について調べたいことを説明すれば、思うよりもあっさりと理解を示してくれた。

 そして、前川茜は専業主婦であり、特別外出を多くするタイプではなかったことや、贔屓にしていた商店街などについて教えてくれた。

 水原琢磨が事件現場で発見されたことを思えば、死体遺棄の現場もそう遠くないだろう。水原茜の証言からして、前川茜は走って逃げたらしいことも予想できる。それ等を鑑みれば、前川茜が隠されたのは、精々が徒歩圏だと思われる。

 そんな前提に立って小倉は前川家を中心に、商店街やメモに残された託児所や公園に向かう道順を何度も往復してみたが、午前中いっぱいを費やして、目ぼしい結果は無さそうだという結論に至った。どこも人通りが多かったり、見晴らしが良かったりと、人一人を隠せそうな所は見当たらなかった。

 だが、それが逆に不思議でもあった。こんな場所なら、殺人犯から半狂乱で逃げる妊婦が居たら、それこそ人目につくだろう。それなのに、前原茜の目撃証言はどこにもない。前川茜を追いかけようとしていた水原琢磨、が水原宅の中で目撃されているにすぎないのだ。

 小倉は昼食にと最寄りの駅前の蕎麦屋に入って、暖かいたぬきそばを口に運びながら、考えた。

 前川茜は、どこに逃げたのか。どこで殺されたのか。どこに消えたのか。そして前川宅で前川貴を殺し、一度自宅に戻ってから前川茜を追いかけた、と推測される水原琢磨は、その後なぜ再び前川宅に戻ってきたのか。

 この事件には何となく拭い切れない違和感がある。矛盾と言うほどではなくとも、ちぐはぐで一貫性のない何か。

 ちゅるっと蕎麦の最後の一本を飲み込むと、小倉は会計を済ませて店を出た。

「……警察はどう見てるんだろう」

 そして、そのまま切符を買って駅の改札をくぐると、ちょうどプラットホームに滑り込んできた電車に飛び込んだ。


◇◇◇


 記憶が、無い。

 朝目を覚ました渋澤は、茫然とデジタル時計に向き合っていた。

 時間と共に表示された日付が、自分の感覚よりも一日進んでいる。昨日ベッドに潜り込んで確認した時は土曜日だったはずの曜日欄には、月曜日と表示されている。

 我に返って、『いやいや電波時計とは言え、狂うことも故障することもあるだろう』なんて淡い期待でニュース番組を立ち上げても、アナウンサーは月曜日のニュースを溌溂と読み上げている。

 間違いない、例のあれだ。また、自分は何かを忘れたのだ。集団健忘症について話し合う会に出席する予定だった日曜日はどこへ行った?

 渋澤はスマホを慌てて取り上げて、何か昨日の痕跡が残っていないか調べる。メモ帳に何か書き残していることは無いか、メールボックスに読んだ覚えのないメールはないか、知らないフォルダや新規ダウンロードしたデータはないか、ネットの検索履歴や地図アプリに昨日の自分の行動を追う何かは残っていないか。

 そうして画面を必死にスワイプしていた手がふと止まる。見知らぬ連絡先が増えていた。上から、小倉鉄貫、佐々木・ラピスラズリ・橘花、漂木眞の三つ。

 渋澤はしばらく色々な可能性に思いを馳せた。そして、連絡を取った場合のデメリットもたくさん思い浮かぶが、それでもこの連絡先以外に頼りになる物は無いと心を決めた。

 三つの内、何となくカタカナ交じりで浮いている佐々木の名前を選択し、迷いを振り切るように勢いをつけてコールボタンを押した。


◇◇◇


「あれー、るりちゃんじゃん。こんな所でどうしたの?」

「うげっ、漂木さん」

「何その反応、傷つくんだけど」

「……いえ、暇でしたし杉先生の診療所でも訪ねてみようかな、と思いまして」

「へー、そうなんだ。実は私も。なんか記憶のことを思うとじっとしてもいられなくてね。まあ、別に行って何をしようという訳でもないんだけど」

「そうですね。渋澤君は昨日、場所の確認に行くとか言ってました。俺は一回診察受けてますし、わざわざ行く意味も無いんですけど、他に行きたい場所もありませんし」

「うわ、渋澤君真面目」

「そういえば、昨日は小倉さんとの、どうなったんですか?」

「ああ、水原さんのこと?」

「そう、それ」

「うーん、まあ収穫は無かったかな。協力できることは無いし、かといって健忘症に役立つことも無さそうだし。ああ、そうだ、一応事件現場だって所も見てみたんだけど、何も無かったね。なんか、空しい未来設計のメモが残ってたくらい? 小倉さんはなんか思うところがあったみたいだけど」

「ああ、小倉さん、なんか良い人そうでしたものね。単純そうというか……」

「それって暗に私を省いたな?」

「いえいえ、そんなことは……あれ、ちょっとすみません」

 漂木の追及をかわしていた佐々木が、ふと足を止めてスマホを取り出した。画面を覗き込むまでも無く、バイブレーションと流れてくるメロディから、着信があったことが漂木にも分かった。

「誰?」

「んー、渋澤君ですね」

「ああ、昨日の集会のあの……なんか冴えない人」

「……ノーコメントで。もしもし、佐々木です。どうしました、渋澤君……はい? え、どうしたんですか。ええ、はい、佐々木ですよ、佐々木・ラピスラズリ・橘花ですけど」

「どうしたの?」

 電話を取った佐々木の声色が、やがて困惑に染まっていく。そのことを不審に思って、漂木は小声で尋ねた。佐々木は戸惑ったように漂木に視線を向けてから、スマホを耳から離し、スピーカーボタンを押した。途端、佐々木以上の困惑に満ちた渋澤の声が大きく聞こえてきた。

「あ、あの……さ、佐々木さん……、あなたは、僕の知り合いなんですか?」

「なに? 渋澤君、私たちのこと忘れちゃったの?」

「え、ど、どちら様ですか?」

「私だよ私、漂木眞」

「あ、……あの、連絡先にあったひと……お二人も知り合い同士だったんですか? じゃあ、この小倉さんって人も、もしかして二人の知り合いで?」

「そうだよ、ほら、あの大柄で怖い顔の。顔に似合わない可愛い手袋してた熊みたいな人」

「…………はあ」

「分かりません? まあ、昨日初めて会ったばっかりだし、俺らのこと忘れちゃってても仕方無いんですかね」

「いえ、その……佐々木さんたちの事というか……昨日のことを覚えていないんです」

 何も、という渋澤の声に、漂木と佐々木は顔を見合わせた。


「えっと、初めまし、て? ではないんでしたっけ」

「うん、まあそうだけど、改めてね。私が漂木眞、こっちがるりちゃん」

「るり、さん?」

「佐々木・ラピスラズリ・橘花です。その呼び方はやめてくださいね」

「……小倉さんはいらっしゃらないんですか?」

「別行動……っていうか、私たちが一緒に居るのも偶然みたいなものだし、特にチームで何かしてるわけじゃないから」

 電話ではらちが明かない、と佐々木たち二人に呼び出された渋澤は、狼狽えながら二人の前に現れた。

「まあ、とにかく、ちょうど良かったですよ。俺ら、これから杉先生のところに行こうと思ってたんですよ。一緒に行って、症状のことを話して相談に乗ってもらいましょう」

「それがいいね。渋澤君、今日はこの後予定ある?」

「ああ、えっと、一応出社日だったんですけど、さっき電話で有給申請しておきました」

「三が日まで仕事あるんですか……」

「まあ、どっちにしろ、一緒に来れるんだよね? じゃあ、行こうか。道すがら昨日の事とか話しながら」

「あ、はい。よろしくお願いします」

 そして三人は杉脳神経外科クリニックに向かって出発した。


「ああ、あそこです。杉先生の診療所」

 一度受診経験のある佐々木が、建物を指して言った。

 飾り気のない建物を、かき捨てられて薄汚れた雪の山が取り囲んでいる。そもそも陽気な場所でないとはいえ、際立って陰気な病院だった。

「うへえ、なんかここで治療を受けてるってだけで、病気になりそう」

三人が病院の入り口までやって来ると、何やら扉に張り紙をしていた看護師が三人を振り向いて頭を下げた。

「あら、受診の方ですか? 申し訳ありません、本日は臨時休業でして……」

「え、今日、やってないんですか?」

「はい……、実は杉先生と連絡が取れないんです。医者が居ないのに病院は開けませんから」

「えー、困ったなあ。実は僕ら、集団健忘症って奴の患者なんだけど、この冴えないサラリーマン君がまた症状を訴えててさ。それで杉先生に診てもらおうと来たんだけど」

「そうなんですか……あの、それなら、良かったら入ります? 集団健忘症なら、先生が調べていたのを知ってます。先生のデスクに、資料があるかもしれません」

「良いんですか?」

「集団健忘症の患者と情報提供者は、優先的に応対するように言いつかっております」

 看護師は三人を招き入れると、受付の受診表に記名をさせ、診察室に招き入れた。

「こちらが先生のデスクです。どこに何があるか私は把握していないので、適当に探してください」

「あの、本当にいいんですか?」

「いいですよ。カルテとかプライバシーに関わるものは別の場所に保存してあるので、そこにある物は自由に閲覧してくれて結構です。あ、ただ、紛失と損壊には気を付けてくださいね。じゃあ、私は仕事に戻りますね」

 そういうと看護師は部屋を出ていった。佐々木はさっさとデスクを調べにかかった。漂木は看護師の出て言った方向を見つめながら、渋澤に囁きかける。

「なんか、あの看護師さん緩いね」

「それより僕は、冴えないサラリーマンという評価についてお伺いしたいです」

「えー、あはは、単なるジョークだよ。それより、あっちは何かな?」

 渋澤に恨みがましく睨まれて、逃げる様に漂木は奥のカーテンや衝立で仕切られたスペースに近づいた。

「あ、誰か寝てる。うわ、なんか不気味」

「え、どれですか? ……ああ」

 カーテンに隔離されて横たわる男を見つけて、漂木は顔をしかめた。渋澤も横から覗き込み、男の様子にたじろいで視線を逸らした。そして、渋澤は男の枕元にネームプレートがあることに気付き、目を凝らす。そこには『陽遊 肇』と書かれていた。

「陽……遊……ひあそび? 下の名前はけいって読むんですかね」

「さあ、看護師さんに聞いてみようか」

 そう言うと漂木は踵を返し、デスクを調べている佐々木を置いて、部屋を出た。渋澤も慌ててそれに続く。看護師は、受付で事務仕事をしているのをすぐに見つけられた。

「ねえ看護師さん、診察室で寝ていた……ひあそび、けいさん? って男の人、何?」

「ひあそび? ……ああ、ようゆうはじめさんのこと?」

「へえ、陽遊って書いて音読みするんだ。下のはじめってのは聞かない訳でもないね」

「そう言うの、勝手に人に話していいんですか?」

「本当はダメだけど……でも、あの人には自分でそれを咎めることも出来ないし、代わりに咎める人もいないから。だからいいって訳でもないけれど。あの人、もう三十年もあんな風に、自力で食事もできない植物状態で眠っているの。いえ、完全に植物状態ってわけでは無いわね、時々何か呟いているから。でも意味は判別できないわ。親も持て余しちゃったのか、蒸発しちゃってね。今は障がい年金で何とか生きてる……可哀そうよね。あの人は悲しいって感じないのが、せめてもの救いなのかしら」

「どうしてそんなことに? 事故による全身不随とか、脳障害とか?」

「近いのは脳障害かしら。でも原因は事故じゃないわ。えっと、NCC……神経嚢虫症ってわかるかしら。滅多にない症例だから、知らなくてもしょうがないけれど」

「ああ、成長過程で寄生虫に脳を食われることで、脳が欠陥し植物状態になるってあれ?」

「そうそう、良く知ってるわね」

「私も分野が違うけど、医療関係者だからね」

「なるほどね。それで、君たち知ってるかしら。昔、この町で子供の寄生虫集団感染があったのよ。彼はその患者で、あの状態はその後遺症。当時感染した子供たちのほとんどが亡くなったことを思えば、まだしも彼は幸運な方なのかもね。……あの状態と、死ぬのとどっちがましかは分からないけど」

「ふうん。そうなんだ」

「そう言えばさっき、時々何か呟いてるって言ってましたけど、何を?」

「そうねえ、よく聞こえないことが多いけど、でも聞こえた部分だけ言うと……」


「目ぼしい資料はない……。けど空き具合からして、ここに何かあったような感じがするんだよな……」

 診察室に一人残った佐々木は杉のデスクを漁りながら呟いた。デスクには三つの引き出しが付いていたが、どれもパンパンに詰まっていた。しかし最後の段だけは少し空きがあった。一番容量が多い、一番利便性が悪いなどと理由は考えられるが、机の上まで資料が氾濫しているのに、そこにスペースが残っているというのが何となく気になった。

 考えられるとすれば杉が何かを家に持ち帰ったか。杉は健忘症について、個人的に調べていると言っていたのだから、関係資料を持ち歩いている可能性がある。だとすれば、やはり杉が居なければ話にならない。ため息をつきながら佐々木は立ち上がり、部屋を出て行った二人を追おうとした。

 ちょうどその時、もそもそと何か小さな音が聞こえてきた。それはカーテンの向こうから、這い出すように聞こえてきた。

 佐々木は部屋を引き返し、カーテンを引く。蝋人形のように横たわる男の、口元だけが戦慄くように蠢いていた。

「わたし……わたしのなまえ……、なまえ……、わたしは……しぶさわとう……。わたしは……すぎりょういち……。あぁ……にくがたべたい……ふ……ふゆがきらいだ……」

 そんなことを暫く呟いた後、男は再び沈黙した。酸素がチューブを通して男の肺と機械を行き来する音だけが単調に響く。

 佐々木は今度こそ部屋を出ようと振りかえった。瞬間、脳の血管が強く脈打つのを感じた。痛みを伴う血管の拡張に彼は頭を抑えた。

 何かが脳裏をよぎる。何か虫のような物を映し出すテレビ、病院の天井と自分を覗き込む人間の顔、打って変わって今度は食卓を囲む自分。景色や並ぶ人間が異なる食卓の様子がいくつか、そして最後に誰か子供の姿が思い浮かんで、痛みは絶えた。

「るりちゃん、なんか見っかった?」

 漂木と渋澤が戻って来て、佐々木に問いかけた。佐々木は顔を上げて二人を見た。

「いや……何も見つからなかった。杉先生に会えなきゃ、どうしようもないみたいです」

「あ、それなら、看護師さんが先生の住所を教えてくれました」

「本当に個人情報駄々洩れだな」

「ていうか、看護師さんとしては、先生の様子を見てきてほしいっていう打算があるんでしょ? ほら、最初、連絡付かないって言ってたし」

「なるほど。じゃあ、早速行きますか?」

「あ、二人は先行っててください。俺、近くに車止めてるから、それ取ってきて後から追いつくから。住所だけ教えてくれますか?」

「うん、分かった。先生のマンションは斜里町の……」


◇◇◇


「へえ、ここが先生のマンションか。結構いいとこ住んでるんですね」

「部屋は302号室だってさ。とりあえず、呼び出してみよっか」

 漂木は手早く部屋番号を押し、決定ボタンを押す。しばらく呼び出し音が空しくエントランスに響いたが、やがて力尽きたように途切れた。もう一度、念を押すようにコールを送るが、それもプログラムされた回数で鳴りやむ。応答はなかった。

「いないんですかね」

「でも、それってなんか変じゃないですか。仕事があるのに連絡も無く、かといって家にもいないなんて」

「あるいは何かの理由で倒れて、連絡もできずにいるとか? これ、孤独死なんかでよくある理由なんだけど」

「嫌な知識だな」

「……じゃあ、入ってみます?」

「入る? どうやって?」

「そうですね、他の住人が出入りするのを待つとか……でも、こんな平日の昼過ぎじゃ人通りも少ないし……三階くらいなら外壁からベランダに入れますね」

「おっと、それは随分なご発想で」

「まあ、人助けなんだから仕方ないね」

「できます? 危険じゃないですか」

「大丈夫です。私の尽きない好奇心を満たすため、こういった困難を乗り越えたことは何度かあります。任せてください」

「じゃあ渋澤君、いったれ!」


 外壁をするすると登っていく渋澤を見上げながら、漂木と佐々木は辺りを警戒していた。

「うわあ、手慣れてますね」

「さっきはなんだか良いように言っていたけど、こうして見ると若干犯罪チックだよね」

「まあ、言いようも無く」

「小倉さんいなくて本当に良かったな」

「あの人なら簡単に言いくるめられそうな気もしますけど」

「いや、あの人は案外手強いと思うよ。いい人だけど、使い勝手がいい人じゃない」

「はあ、そうですか」


 ◇◇◇


 電車に乗った小倉はある駅で降車し、羅臼町唯一の警察署を訪れた。

 応接室に通され、かさついた質感のソファに腰掛けて待っていると、数分してよれたスーツの男が入ってきた。無精ひげに、汚れた靴。草臥れた格好に反して鋭い眼光。まだ比較的若いが、現場を駆けまわる意欲的な刑事。すぐにそんな印象が抱かれた。

「初めまして。私は今回の事件を担当しています、芹澤と言います。あなたが事件について聞きたいっていう、小倉さん?」

「はい。お時間を割いていただき、ありがとうございます」

「えっと小倉さん、小倉鉄貫さん……なんか聞いたことある名前なんだけど」

「あ、えっと、私も同業者で……所属と管轄は違うのですが、でも、どこかで仕事上の関わりがあったのかもしれないですね」

「ああ! 思い出した。地方警察の柔道大会とかでよく優勝してる小倉さんだ。追われたくない刑事トップランカーの」

「なんですか、そのランキング……」

「あと、怖い刑事ランキングと、敵に回したくないランキングにもランクインですよ」

「……嬉しくないです。誰が点数付けてるんですか、それ……」

「まあ、同級の身内ネタですけど。何にせよ、あの事件について聞きたい人なんて、どこのマスコミ関係者かと警戒しましたが、小倉さんなら安心だ。流石に同じ警察とはいえ、捜査本部の人じゃないから資料の開示は出来ませんけど、口頭なら知ってることは何でも教えられます。好きなように質問してください」

「いいんですか」

「小倉さんになら、喜んで。ああ、でも、告げ口はやめてくださいね、頭の固い連中もいるんで」

「ありがとうございます」

 芹澤のにっこりとした笑顔に、小倉は嬉しさと感謝を込めて深く礼をした。


「なるほど、水原野枝とそういうことがあって……」

 小倉の健忘と集会のこと、そこで出会った水原野枝についての説明と、事件に抱いた疑問を聞いて、芹澤は顎を指先で撫でるようにしながら考え込んだ。ややもあって、芹澤はおもむろに口を開いた。

「実はね、私も一つ気になっていることがあるんですよ。水原茜の証言は聞きましたか? 父親が前川茜を追いかける、といった趣旨の言葉を残していたって、あれ」

「はい、水原家を訪ねた際に機会がありましたので」

「けれどそれ、容疑者の服についていた血痕と矛盾するんですよ」

「矛盾?」

「いえ、矛盾と言うのは大げさかもしれませんけど……。その証言から推測すると、まず水原琢磨は前川宅で前川貴を殺す。その時、現場に居合わせた前川茜がその場から逃走。前川茜を逃がした水原琢磨は一旦家に帰り、改めて前川茜を追った……そうなりますよね」

「そうですね。水原茜さんが水原琢磨を目撃した時点で、前川貴さんは死んでいたと考えるのが妥当でしょうか。そうでなければ前川茜さんが逃げ出す理由は無いですものね」

「はい。けれど、水原琢磨の服についていた前川夫婦の血痕は、前川茜の物の方が先に付着したことが鑑識の結果分かっています。要するに、容疑者は前川茜の血を浴びてから、次に前川貴の血を浴びた、ということですね」

「え? えっと、つまり……前川茜は前川貴よりも先に殺されていたってことですか?」

「殺されたかどうかはともかく、かなりの出血はあったはずです。少なくとも、我々はその血の量から彼女の死を確信した訳ですし。けれど、現場には前川茜の血はほとんどありませんでした」

「えっと、それは……前川茜が別の場所で殺されて、水原琢磨はその後、前川宅に向かって前川貴を殺害……いや、それだと水原茜が目撃した水原琢磨は何だったのかということになりますよね。でも、それなら逃げる前川茜の目撃証言が無いこととは一致する……?」

「そうなんですよ。仮に水原茜の証言と血痕のことを合わせて考えると、こうなりますよね。前川夫妻が家にいるところに水原琢磨がやってきて、前川茜に怪我を負わせ彼女は逃走、水原琢磨は前川貴を殺してから彼女を追った……。けれど、これだと現場にはもっと前川茜の血痕があるはずですし、何よりその後水原琢磨が現場に返ってきた意味も分かりません」

「なるほど。前川茜が別の場所で殺され、その後前川貴が自宅で殺された、と考えた方が、状況証拠や、前川茜が逃げている姿の目撃証言が無いことと、水原琢磨が現場で発見されたことのつじつまは合うんですね。けれど、水原茜の証言は分からなくなってしまう……」

「ええ。まあ、いろんな物証や状況から考えて水原琢磨が犯人なことは間違いありません。いろいろな矛盾も、容疑者が動転していただけの結果かもしれません。犯罪を実行しようという人間の心理はやっぱり普段とは違いますし、本人がどんなに計画的なつもりでも、どこかに破綻が現れます。けれど、それにしてもあまりにも無茶苦茶で、何があったのか見えてこないというか……犯人像が掴めないものがあるんですよね。いえ、犯人は水原琢磨なんですけれど……なんていうか」

「行動原理や動機が見えてこない、ということですか?」

「はい……、いえ、うーん。本人が記憶を失っているという事もあるのかもしれませんが、本当に彼が犯人なのかな、という感覚が拭えないんですよね。彼以外に犯行がなせる人物はいないけれど、彼が行ったとは思えない、と言うような違和感があるんです」

「えっと、水原夫人が彼のことを虫も殺せないような人と言っていましたが、そのようなことですか?」

「いえ、大人しそうな人が実は……という事はよくあるでしょ? ただ、なんというか余りにも不整合で……。夫人の遺体を見つからない様に隠すあたりには、何らかの計画性が感じられますが、水原茜に目撃されたり、現場から逃げていないところは突発的な犯行のようにも思えます。死体をバラバラにする辺り、強い私怨で投げやりに及んだ犯行だったのか……それにしては本人に追い詰められた様子はないし……。やっぱり、本人の記憶が無いっていうのが厄介ですよね。ここまではっきりと犯人がいるのに、いくら取り調べても肝心なところが分からない。まあ、つじつまが合わない程でもないんですが」

「水原琢磨は本当に記憶を失っているんですか?」

「一応直に接してみた感覚としては、ほぼ間違いなく。なんて言うんでしょうかね、きょとーんとしてて困惑してる感じ? 今まで何回も取り調べをしてきましたが、誤魔化そうとしてる態度とは思えませんよ。あれが演技なら大したものだ」

「水原琢磨は事件のことについて、どのように、と言うか、何か言っていたりしましたか? 事件自体の記憶はなくとも、前後のこととか……」

 尋ねてはみたものの、これはあまり望みのある質問ではないなと、健忘を自ら経験した小倉は思った。案の定、芹沢は首を振る。

「いいえ、前日眠ってから拘留所で目を覚ますまでの記憶は全く無いそうです。本人が言うには、起きたら警察に居たって。……ああ、でも最近様子を見に行った時、変なことを言ってたっけ」

「変なこと?」

「いえ、事件とは直接関係ないんですけど、水原の職場だったホテルの001号室が云々って」

「ホテルの001号室?」

「なんでも、同じ名義でずっと借りられているらしいんですよ。けれど、時々鍵を取りに来て部屋に入っていく人は何時も違う。知り合いが来ることもあるから、後日あの部屋には何があるんだ、と聞いても知らんぷりをされてしまう。けれどもしかしたら、あの部屋を訪れた知り合い達ははぐらかしていたのではなく、本当に記憶が無くて知らなかったのではないか。自分の記憶喪失の原因もそこにあるんじゃないかって言うんですけれど、流石に飛躍し過ぎですからね」

「そんな話が……でも、そうですね。大勢の人が同じ症状を訴えているとは言っても、個人の症状ですし、複数の患者が記憶の無いうちに揃って一つの部屋の訪れる、なんて俄かに信じがたいです。それに記憶を失う原因がホテルにあるっていうのも分かりません。こういうのって何かのショックとかが原因になる物でしょうし」

「ええ、それに彼らの記憶が無かったのかもしれない、というのも奴の憶測でしかありませんし。それよりは共通の知り合いで、秘密の寄り合い所にでもしていたって考えるのが普通ですよね」

「……でも、そういうことを言うのは、やっぱり何かに縋りたいからでしょうか。水原からしたら、知らないうちに犯罪者になってしまった訳ですものね」

「そうですねえ。それを考えると同情してやりたい気もしますけど。精神鑑定の如何にもよるでしょうけれど、実刑は確実ですからね。でも事件当初の精神状態は分かりませんけれど、今の水原はまともそのものだし、責任能力が無いとは判断されないでしょうね。事件の記憶が無いっていうことそのものを疑っている奴も多いですよ」

「そうですか……、凶悪な事件ですものね。相応の罪は問われますか……」

「ええ、本当に。事件直後の現場は酷いもんでしたよ。もうあっちこっち血まみれで、その中に前川貴の体がバラバラに散らばってるんです。ベテラン刑事は慣れた物でしたけれど、まだ耐性の無い新米が数人貧血を起こしました。あれを最初に見ちまった水原の娘のことが気がかりですよ。親父を逮捕した俺らが言うのも可笑しな話ですが、立ち直ってくれるといいですね」

「……はい。こんなひどい事件なんてそうそう起こらないのに、どうしていざ起こった時には、あんな子供や赤ん坊が巻き込まれなくてはならないんでしょうね。……いえ、そもそも誰も巻き込まれず、事件も起こらないのが一番なんですが、それでも……」

「お気持ちは分かります。事件はいつも悲惨ですけれど、子供が関わって来る事件はやっぱり輪をかけてやるせないもんですよ。ああ、でもね、そうそう無いって言っても、実はこの町って過去に結構こういう事件が起こっているんですよ」

「え?」

「小倉さんの勤務先は確かここら辺じゃないですよね? 小倉さんと同署勤務の知り合いがいるんですけれど。ここいらは地元で?」

「あ、はい。実家がこの辺で」

「じゃあ、あんまり知らなくても仕方ないですよ。結構って言っても数十年前から時折ってくらいですし、それぞれの事件にも関連はありませんから、取り立てて注目もされませんでしたし。どれも町の人間が犯人でスピード解決でしたからね。私自身が実際に携わったのは一つか二つあったくらいです。それにちょっと事情があって、身内では若干タブーになってますから」

「事情?」

「あー…………これは流石に言っていいのかな……。うーん……でも別に事件は解決してるし……相手は小倉さんだしな……」

 小倉が首をかしげると、今まで饒舌だった芹澤が僅かに逡巡を見せた。暫く小倉から目を逸らし、口を覆うようにして考え込んでいたが、やがて芹沢は顔を上げた。

「まあいいか。これはここだけの話ですけれど、捜査資料が無くなってるんですよ。過去の事件のことも、だから私は先輩に聞いて知ったんです。きちんと保管してあったはずなのにいつの間にか紛失したらしくて。身内の犯行ってのは考え過ぎにしても、不手際があったのは間違いないですから、口には出さないのが暗黙の了解みたいなところがありましてね」

「そんなことが……ちょっと物騒ですね」

「ちゃんと保管してましたし、夜勤も駐在して、見回りとかも行ってるんですけどね。まあ、最初は相当もめましたけど、定期的に古いものを処分するからそれに混ざっちゃったんじゃないかって話に落ち着きました。どれもバラバラ殺人と言う共通項がありますし、未解決事件だったら犯人の証拠隠滅を疑うところなんですけど。ああ、そう。小倉さんが今回のことを疑問に思ったのは、犯人が記憶喪失だからですよね。じゃあ、これも言っておいた方がいいかな。実はどの事件も犯人の記憶が無いという共通点がもう一つあるんです」

「そうなんですか? 彼らの判決は?」

「全て極刑だったそうです。実際にはそういう風に犯人が証言していただけで、医者の診断では正常でしたから、責任能力の欠如は認められませんでした。けど、俺が担当した数件に関してのみいえば、今回の水原同様、本当に何も覚えていない風にも見えました」

「嘘だとしても不思議な話ですね。似たような事件が起こり、犯人が同じ証言をするなんて……犯人達に交流があったんでしょうか。それで示し合わせたとか」

「いえ、そもそも事件のスパンは結構離れていますし。まあ、狭い町ですし、同じ学校の出身者だとか、職場が近かったとか、遠い親戚だったとか、微妙な繋がりがある奴もいましたけれど、どれも偶然の域を出ませんね。特に犯人全員に共通することはありませんでした。強いて言えば、全員男だったってくらいですかね。まあ、そもそもバラバラにするなんて結構力仕事ですから、女性が犯人のケースは多く無いんですけどね」

「なるほど。では、彼らの証言が一致したのは偶然か、あるいは模倣犯ということでしょうか」

「だと思います。記憶喪失云々って話には毎度マスコミが食いつきますし、それを見て真似たり、過去の事件の報道が頭に染みついたり、とかそういう事なんじゃないでしょうか」

「そうなんですか」

小倉は話が途切れたタイミングで、ふと壁にかけられた時計を見上げた。それはそろそろ五時に差しかかろうという頃合いを示していた。随分長く話していたことに気付いて、小倉は慌てて荷物をまとめ立ち上がった。

「今日は本当に色々ありがとうございました。興味深い話をたくさん聞けて良かったです。そろそろ遅くなりますし、これでお暇しますね。お時間を取らせてしまって申し訳ありませんでした」

 深々と頭を下げる小倉に応える様に、芹澤も立ち上がる。

「いえ、こちらこそ話すことで自分の中でいろいろ整理できましたし、それに小倉さんと話せてよかったです。入口まで送りますよ」

「いえ、そんな、申し訳ないです……」

「いいですから、いいですから。気にしないでください。それより、今度飲みに行きません? 連絡先交換しましょうよ。さっき少し言ったかもしれませんが、私の友達が小倉さんの部下なんですよ」

「さっき……ああ、私と同署勤務の方がいらっしゃると……え、私の部下なんですか?」

「はい、そいつ会う度に『上司がいい人で俺は社会人勝ち組だ』って自慢してくるんですよ。先達に恵まれない身として悔しいんで、私も小倉さんとお近づきになれませんかね。あいつの面白話で盛り上がりましょう?」

「いえ、その、それ、誰なんですか? と言うか、上司違いでは? 私、怖い上司トップランカーなんでしょう?」

「小倉さんがランクインしてるのは怖い『刑事』ランキングですよ。先輩・上司にしたい刑事ランキングでも小倉さんは結構上ですからね」

「それは……掛け値なしに嬉しいですけれど、いや、そうではなくて……」

「今日だって来たのが小倉さんじゃなきゃ、私は同業者にだってこんなにペラペラ色々しゃべりませんよ。私、本来は口の堅いキャラなんですからね」

「私に部下の面白情報をリークしようとしていることを思うと、にわかには信じがたいですけれど」

 芹澤と小倉が応接室を出て駐在所の入り口前で雑談をしていると、近くに置かれた小型テレビから『緊急速報』という単語が聞こえてきた。二人とも染みついた習性で即座に会話を中断してそちらに目を向ける。

 画面の中では、煙の上がるマンションを背にして、ヘルメットを被ったレポーターが何やら切羽詰まった表情でわめいている。

『ただいま斜里町のとあるマンションで原因不明の大爆発が起こりました! 死傷者の有無はまだ分かりませんが、外壁は大きく損壊しています! 内部はどうなって居るのでしょうか! 消防隊が住民の救助・避難誘導を行っていますが、しかし依然として……』

「うわあ、物騒ですね。ガス爆発か何かでしょうか。冬だから燃料に引火したとか? にしても、民家じゃ珍しいですよね。連鎖爆発とか起こらないと良いけど」

「ええ……」

 小倉は芹澤の言葉に相槌を打ちながら、『斜里町って杉先生の診療所がある町だ』と、ぼんやりと考えた。


◇◇◇


 小倉が緊急速報を受けるしばらく前、渋澤は音もなくマンションのベランダに降り立っていた。ベランダに面するドアにはクレセント錠が落ちているのが見え、さらに緩くカーテンが引かれており、室内の様子は窺えなかった。

 渋澤は窓に耳を近づけ、室内の生活音を探る。

 テレビの音や歩き回る音、トイレや台所からの水音は聞こえない。まだ明るいので分かりにくいが、灯りが点いている様子もない。

 それらを確認すると渋澤は立ち上がり、ポケットから小さなマイナスドライバーを取り出した。そして窓枠とガラスの間にそれを突き立てる。何度か同じ位置に打撃を繰り返すと、やがてガラスの一部が静かに崩れた。渋澤はその隙間から指を差し入れ、クレセント錠を押し開ける。そして家主のように堂々と部屋へ侵入した。

 レスキュー隊もかくやの習熟した特殊技術は、渋澤が趣味で身につけたものだ。

 渋澤は人間観察が好きで、それが高じて、時折ターゲットに定めた相手の探究と解明に熱を上げ過ぎることがあった。その熱意は、尾行や家宅侵入と言う形になって現れることになった。

 渋澤塔。何処にでもいる普通のサラリーマン、兼無差別ストーカー。その冷酷なまでに徹底した犯行は決して証拠を残さず、被害だけを静かに積み上げながら、刑事事件に発展したことは一度もない。

 そんな渋澤は、今回もスムーズに不法侵入を果たした。

「だ、誰だ、あんた……」

 そして通算五十を超える犯行の中で初めて、ドジを踏んだ。

 室内には一人の男がいた。普段は、生活様式を念入りに調べ上げてから、絶対に部屋に標的が居ない時間を割り出して侵入するため、こんな初歩的な失態は在り得ない。しかし、事前情報の無い、ぶっつけ本番の侵入は勝手が違った。

 ベランダから入り込んだ部屋にはベッドが置かれ、寝室になっていた。そのベッドの上によれたワイシャツ姿の男が一人座っていた。窓ガラスが割れた音で飛び起きた、と言う風な様子で、見開かれた目が渋澤を見ている。

 業種は分からないが徹夜の残業を終えて、やっと家に帰り着き、着替えもせずにベッドに倒れ込んだ、と言ったところだろうか。平日の昼間に家に居る者は多くは無いが、居ない訳でもない。寝ていれば生活音もする筈がない。迂闊だった。

 頭では冷静に失敗の原因と、相手の分析を行いながら、渋澤は身を翻して逃げを打った。下手な小細工はいらない。相手が戸惑っているなら、素早く撤退するだけで虚を突き、逃げ遂せることができる。そう判断しての行動だった。

 しかし男は、渋澤が逃走の気配を見せるや否や、先ほどまでの動揺っぷりから打って変わって敏捷にベッドから跳ね起きた。そして窓から飛び出そうとする渋澤の手首を掴み、室内へと引き戻し、関節を決める。

「誰か知らねえが、警官の家に忍び込んでくるたあ、ふてえ泥棒もいたもんだ。それとも私怨か? とにかく、俺の家を選んだのが運の尽きだ。このまま迎えが来るまで、大人しくしててもらうぞ」

 そう言いながら男は、ベッドに投げ出された携帯を手繰り寄せ、操作し始めた。

 一方捕まった渋澤は、腕を捻じり上げられてなお、冷静だった。なるほど、警察官。それならば不定形な休日形態も、この手早い捕獲術も納得できる。しかしまあ、北の大地に在って随分江戸っ子な警察官もいたものだ。そんなことを呑気に考えていた。

 男がとうとうどこかに電話をかけ始める。コール音が渋澤にも聞こえて来た。

 連絡先は同僚だろうか。110番よりは余計な仲介がいらず、手っ取り早いだろう。この電話が繋がったら、流石にどうしようもない。

 渋澤は深くため息をついた。三度目のコールが鳴り終わる。

 それを合図に、渋澤は大きく背をのけぞらせ、後ろの男に頭突きを食らわせた。ごりっと鈍い音がする。鼻は柔らかい。頭蓋骨には、その部分に穴が開いているから。男が呻きながら携帯をとり落とす。それでも渋澤を捕まえる手は離さない辺りは、プロ意識と言ったところか。

 渋澤はそのまま大きく踵を振り上げて、床に落ちた携帯を踏み割った。これで連絡手段は奪った。

 間髪を入れず、同じく足で男の膝頭を踏みつける様に蹴り下ろす。護身術として広く知られた手段。ありふれたその動きを、鼻の痛みに悶絶する男は避けられなかった。嫌な音に、男が食い締めるような悲鳴を上げて、今度こそ渋澤から手を離した。上手く行けばと言うべきか、下手をすればと言うべきか、この方法は膝の皿を蹴割ることがある。実際に割れたかどうかはともかく、男は相応のダメージを負っただろう。

 蹲る男を振り返り、渋澤は自由になった両手で追い打ちをかけた。男の胸ぐらを掴み寄せ、拳を振り上げる。このまま逃げては、固定電話で警察を呼ばれる可能性も大いにある。さらに固定電話を壊しても、男が自力で応援を呼びに行くことも考えられる。同じマンションで、まだやるべきことがある以上、全てが終わるまでの間、男を無力化して置かなければならない。そんな意図から、焦りも必死さもなく、ただただ冷静に冷徹に、渋澤は男の顔面に拳を振り下ろした。

 殴り続けること数分。渋澤は失神した男をタンスから取り出した洋服で縛り上げ、放り出しておいた。少なくともこれで数時間は起きないだろうし、意識を取り戻しても回復に時間がかかるだろう。そうきつい拘束でもないし、目が覚めた後しばらく暴れていれば解ける。死ぬことはあるまい。

 全てのことを終えて、渋澤はベランダに戻ると、身を乗り出して下に待機する二人を覗き込んだ。階下で漂木が大きく手を振っており、佐々木が片手を挙げて隣の部屋を指し示している。渋澤は両腕で丸を作って合図に応え、ベランダを伝って今度こそ302号室に侵入した。


 リビングに死体があった。濁った眼は天井を睨みつけ、口は開いたまま固まり、舌がでろりと溢れている。投げ出された手は空を掻くように歪み、最期の瞬間の苦しみを物語っていた。

 杉亮一は、死んでいた。

首に、痛々しい絞殺痕と吉川線をこしらえて、302号室のリビングに杉亮一だったものは転がっていた。

 真冬の北海道。腐敗の気配はまだ無いが、それでも、生きている者には無い汚らわしさが付与された、あるいは、生きている者ならではの汚らわしさが欠落した、そんな不気味さがあった。

 とにかく、生者とは完全に乖離した死体。歩み寄ることさえできない断絶が、そこにはあった。

 開いた眼は、瞬きをしない。眼球が乾いて萎びても、瞼はもう自ら降りることは無い。

 拡大した瞳孔は、縮小しない。どれほど眩しい光を浴びても、茫然と受け止めるだけ。

 固まった口は、語らない。最期の悲鳴の形に固まったまま、ぽっかり開いて動かない。

 止まった心臓は、脈打たない。血を回す役目を放棄して、吐き出すはずの血を溜める。

 散らばる四肢は、緩まない。固く冷たく氷のように、不可逆に変形したきり戻らない。

 脳はこのまま、煮溶けて逝く。

 彼の人格、彼の記憶、彼の感情、彼の思考、彼しか知らない事実。全ては細胞の中に秘匿され、取り出す術はどこにもない。

「あ、ああ、うああ」

 杉の死体を前に、渋澤は後ずさる。

 昨日の集会の記憶が無い渋澤にとっては、会ったこともない誰かの、『多分恐らく杉亮一の』死体。どうでもいい誰か、赤の他人。

 けれど渋澤は、冷静になれなかった。

 足が震え、手が痙攣する。指先が冷たくなっていくのを、他人事のように感じていた。渋澤は言い逃れようもなく犯罪者だが、殺された死体を見たことは一度もない。彼は、今初めて殺人現場を目撃してしまった。

 相手が泣き叫んで失神するまで人を殴ることができても、マンションの外壁を命綱なしでよじ登れても、駄目だった。

 他殺死体の恐ろしさには耐えられなかった。

 経験したこともない、強烈な嫌悪感と恐怖が、渋澤の脳天を貫く。

「っああああああああああああああああ!」

 絶叫が、渋澤の喉を引き裂いた。


「さて、渋澤君も中に入ったことだし、開けてもらおっか」

「そうですね、早く入りたいです。寒空の下でいつまでも屋外待機とかありえない」

 渋澤が無事302号室に侵入していったことを確認した二人は、再びエントランスに戻ってきた。

 渋澤が一度目的地を間違えたことに気付いた時は焦ったが、すぐにひょっこり顔を見せたところを見ると、どうやら何事もなかったらしい。そう結論付けて、二人はさっさと行動に移った。改めて杉の部屋番号をコールする。後は部屋の中にいる渋澤が、インターホンから開錠ボタンを押してくれれば、エントランスの扉は突破できる。

 しばらくの呼び出し音の後、今度こそガチャリと来訪を受ける音がした。

「あ、もしもーし。渋澤君? 大丈夫? 杉先生は居た? まあ、それより早いとこ入れてくれる? るりちゃんが寒さでブチ切れそうなんだよね」

「……」

「渋澤くーん?」

 返答しない通話口に向かって、漂木は再度呼び掛けた。

「……あの、私、杉圭一と申しますが……あなた達はどちら様ですか?」

 渋澤の声が、そう応答した。

「……父に、杉亮一に何か御用ですか?」

「えーと……」

 何故か、全く別人の名で杉の息子を騙る渋澤に、流石の漂木も言葉を失う。

「なんですか、またあいつ何か忘れたんですか?」

 硬直した会話に、かなりイラついた様子で佐々木が割り込んだ。

「いや、それがさあ、忘れてるっていうより、なんか変なんだよね」

「は? 良く分からないんですけど」

「じゃあ、代わってくれる?」

「了解しました。ぶちのめしてやります」

「わお。るりちゃんってば過激―」

「貴方からでも良いんですよ」

「すみません佐々木さん」

 漂木がインターホンの前から身を引き、佐々木が入れ替わる。

「代わりました、佐々木と申します。渋澤さんですか?」

「いえ、杉です。部屋番号をお間違えですか?」

「間違ってません。杉先生ならそれでもいいんです。先生に用があるので入れて頂けますか?」

「父へのご用件とは?」

「集団健忘症についての云々です。入れて頂けますか?」

「いえ、でも今は父が居ないので……」

「ではお部屋で待たせてください。ついでに、お父さんが持ち帰っている資料があるかもしれないので、それを探させてくださると嬉しいです」

「人の家を家探しする気ですか?」

「間接的に許可をいただいております。別に荷物を荒らす気はありません。息子さんがいるなら、お父さんから私たちの事も聞いているでしょう? 身元が不安だというなら、私たちの友人で、同じ健忘症発症者で、杉先生の患者さんである方に、警察官の方がいらっしゃいます。彼が我々を保証してくださるかと」

「はあ、いや、でも……」

「いいから入れろ、寒いんだよ」

「はい、すみません」

 最後まで渋っていた渋澤だったが、佐々木が口調とトーンを剣呑に変えると、エントランスの扉を開いた。

 我が物顔で扉を潜り、ぐんぐん進んでいく佐々木の後を追いながら『るりちゃんを部屋に上げるのは、泥棒に侵入されるより怖いかもしれない』と、漂木はしみじみ思った。


「あの、じゃあ、お茶を淹れますね」

「えっ」

 二人をリビングに上げると、そそくさと台所に引っ込んでいった渋澤を、漂木は驚きの目で見つめた。そしてダイニングに転がる死体と渋澤を見比べて、異常なものを見る目で眉を顰めると、佐々木に耳打ちをした。

「え、何あいつ。これ見て、この状況で、何も思わないの? ていうか、本気で自分のこと杉なんとか一だと思ってる感じ? どう接するのが正解なのかな、これ」

「警察でも呼びますか?」

「警察はやめよう、絶対に」

 冷静に携帯を取り出そうとした佐々木を、漂木が止める。

「どうしてですか?」

「どうしても。ほら、大ごとになってもあれだし、巻き込まれたくないし、まだ出来ることがあるかもだし、とにかく警察はまずい」

 嘘臭く胡散臭い笑顔で、漂木は頑なに主張する。仕方なく佐々木は、ポケットの中で携帯を掴んでいた指をほどいた。

「はあ……そうですか」

「で、渋澤君はどうするの?」

「お任せします」

 佐々木はそう言うと、リビングに転がる杉医師の死体を仁王立ちで見下ろして、むっつりと考え込んでしまった。漂木はそんな彼を一瞥して傍を離れると、渋澤の方に向き直った。

「しぶ……杉君」

「はい?」

「お父さんは、不在なんだよね?」

「ええ、そうですよ」

「じゃあ、ここで寝ている人は何なのかな?」

「ひと? あはは、漂木さんはユーモラスな方ですね。ペットのコロですよ」

「……動かないんだけど」

「そう言う子なんです。寝てるのかもしれないけれど、起きててもそんなに動きませんよ」

「体温とか、脈、無いみたいなんだけど?」

「爬虫類ですから」

「哺乳類っぽく見えるんだけど?」

「擬態が得意なんです」

「へえ、凄いペットだね」

「そうですか? 割とメジャーな子だと思いますけれど?」

「どこで売ってるの?」

「すぐそこの『アニマル・神田』ってペットショップですよ」

「……今検索したけど、そんなペットショップ出てこないよ」

「あら、移転しちゃったんですかね」

「ふーん。杉君はここにお父さんと住んでるの?」

「そうですよ」

「でも、食器とか一組しかないし、ソファも一人がけだね」

「父は医者ですから、同じ時間帯に家にいることは少ないので。一人暮らしみたいなものです」

「そうなんだ。でも玄関見た限り、靴は一種類しかないよね。君にはサイズが大きいのばっかり」

「……僕は普段は会社の社宅に住んでるんです。ここには、正月の帰省できたんですよ」

「へえ。ところで、さっきから何をガチャガチャやってんの?」

「いえ、薬缶を探してて……」

「どこに仕舞ってるか分からないの?」

「父はいつも変なところに仕舞うんです」

「それでも、お父さんが普段どうしてるかは分かるでしょ?」

「……ああ、そうだ! ちょうど昨日壊れて、捨てちゃったんでした」

「エレベーターの中で分類法見た限り、昨日も今日も燃えないゴミの日ではなかったみたいだけど?」

「えーっと、ゴミ捨て場にあらかじめ置いてあるんです。燃えないゴミの日は明日ですけど、出し忘れたら嫌ですから」

「ふーん」

 燃えないゴミの日は一昨日だったし、マンションの周囲を警戒していた時に見かけたごみ置き場は空っぽだったよ、とは言うだけ無駄だろう。漂木はそう考えて、死体の傍に屈み込む佐々木を見た。一般人っぽいのに、豪胆なものだ。恐らく、その胆力が無かったことが、渋澤の異変の原因だろうに。

 漂木はまだ何やら台所を漁っている渋澤を残して、佐々木に近づいた。

「ふざけてやってる訳でも、馬鹿にしてる訳でもないみたいだよ、あれ」

「へえ、あんな穴だらけの嘘で本気で騙せてるつもりなんですか、あいつ」

「なんだ、るりちゃん私たちの会話聞いてたの」

「聞こえてきたんですよ、声がでかいから」

「じゃあ、まあ、分かるかもだけど。あれさ、あの子が吐いてる嘘。もちろん嘘なんだけど、何かしらの目的やプロットがある感じのそれじゃないんだよね。むしろ、私の言葉に反応して、その場で思いついた先から適当に言ってる感じ。だから、矛盾だらけだし、誰かを騙せるレベルじゃない」

「それじゃあ、嘘を吐く意味ないじゃないですか」

「うん、だから、本人は嘘のつもりじゃないんだと思うよ」

「じゃあ、何のつもりなんですか」

「事実のつもり。ていうか、事実に基づいて素直に話しているつもり、だと思う。ああいう低レベルな嘘って他人を騙す効力は無いんだけど、一人だけ騙される奴がいるんだよね」

「……ああ、自分、ですか」

「正解。だから渋澤君は、多分本気で『自分は杉亮一の息子だ』って思ってる。だから、そのつもりで話してる。そして、虚実と現実の間を埋めようと、次から次に適当な嘘を吐いてる」

「急にそんなことになったのは、これが原因ですか」

 そこで初めて佐々木は、今まで死体から離さなかった視線を挙げて、隣に立つ漂木を見上げた。

「だろうね。まあ、結構ショッキングだからね、他殺死体って。一時的な混乱による幻覚や妄想、それに伴う虚言癖ってところかな。精神鑑定は専門じゃないから、はっきりとは言えないけど。で? るりちゃんの方は何か分かった?」

「ええ、ここなんですけど……」

 佐々木は、杉の死体の一部を指し示す。

「ん? どこ?」

「ここです、ここ」

 漂木は佐々木の隣に膝をついて、死体の上に屈み込んだ。

 瞬間、鈍い音と後頭部に冷たい感触があって、漂木の意識がブラックアウトする。

死体の傍らに伏せた漂木を軽く確認すると、佐々木は立ち上がった。

 ちょうどその時、台所から渋澤が出てきた。手にはマグカップとワイングラスが握られており、それぞれから、絶対にコップ用のサイズではない、ボトル用だろう麦茶のティーパックがはみ出している。お盆や丁度いいコップは見つからず、そのまま出せるような飲み物も見つからなかったのだろう。なんとも間抜けな出で立ちだ。

 あれ、漂木さん寝ちゃったんですか、などと嘯きながら奇妙な粗茶を机に並べる渋澤に、佐々木は向き直る。いつの間にか彼の手には、子供の頭ほどの大きさの氷塊が握られていた。雪国でもまず自然に見ることは無いような、混じりけの無い透き通った氷。暖かい室内でも表面に一滴の雫も浮かばせない、その異様な氷を、佐々木は振りかぶり、無防備な渋澤の後頭部に振り下ろした。ごとりと渋澤の頭が机に伏せ、そこからずるずると机から滑り落ち、床へと落ちた。

 暗殺者のような手際で二人の邪魔を排した佐々木は、手にしていた氷に口を寄せると、ふっと息を吹きかけた。途端、氷は細やかな霜になって霧散し、宙に溶けるように消える。

 それから佐々木は、遠慮も躊躇いもなく家中を片っ端から調べて回った。本棚をひっくり返したり、クローゼットの中身をぶちまけたり、戸棚中の食器を割れるのも構わずに掻き出したり、挙句の果てには、家具も引き倒し、カーペットまでも引っぺがす。

 佐々木の暴挙を止められる者は、残念ながら一人もいない。家主は死体、連れ合いは失神。小一時間後、やっと佐々木が動きを止めた時には、屋内で台風が吹き荒れたような惨状になっていた。

「……無いな」

 佐々木は取っ散らかったがらくたの中から、椅子を引っ張り出して溜め息をつき、独りごちた。

 佐々木が『無い』と言ったのは、健忘症の手がかりだ。何かしらの資料があれば、そうでなくとも、杉の調査の形跡でもあれば万々歳、と思っていたのだが、残念ながら芳しいものは何一つ見つからなかった。杉の趣味なのか、完成度の高いボトルシップがいくつか見つかった程度だった。鍵のかかった収納もこじ開けて調べたが、目ぼしいものは何も無かった。正直、杉の診療所のデスクの、三番目の引き出しの欠落を埋める何かくらいは見つかるのではないかと思っていただけに、落胆は激しい。

 しかし、決して収穫が無かったわけでもなかった。当初の目的である健忘症についての前進は何もなかったが、杉殺しの方には、一つ手掛かりが残っていた。佐々木は、それだけ調査の荒波に飲まれない様に、サイドテーブルに避けておいたものを手に取った。

 安物の腕時計。

 メッキの剥げ掛けた円盤に、革製のベルト。ソファの下に滑り込むように隠れていたそれは、杉ともみ合う内に引き千切られたのか、金具の部分が破損している。使い込まれたそれに、佐々木は見覚えがあった。

 そう、確かにこの腕時計は、つい先日の集会で、誰かの腕にぶら下がっていた。

 そして佐々木は、『誰か』などとあやふやな言い方をしておいて、その実脳裏にはっきりと特定の人物を思い浮かべている自分に気付いて、自嘲した。

 さて、ここで問題だ。そいつは、今朝この腕時計をしていただろうか。否、していなかった。記憶力には自信がある。

 そいつが杉を殺したのか。しかし、だとすれば何故……。

 いや、そうか、そういうことか。

 ならば。

 佐々木は結論を出し、腕時計を杉の傍に置いた。しかし、この場合距離にはあまり意味が無いかもしれない。佐々木はそのまま部屋を離れようとし、途中で思いとどまって立ち止まり、引き返して漂木だけを抱えると、渋澤と杉を置き去りにして部屋を後にした。


 佐々木は、駐車場に止めていた自分の車に近寄る。銀色の丸いフォルムの車。その表面に佐々木は手を翳す。フィクションの中のエフェクトの様に、その手を中心に光の輪が広がり、車の表面を滑るように広がっていった。車の全体が淡く光に包まれる。

 一瞬の後、光が弾け飛ぶように散り、降り注ぐ光子の中には、銀の車の代わりに戦車が現れた。

 重厚なキャタピラに、厚い鉄板の車体。何よりもこの穏やかな住宅街に不似合いな、鈍くきらめく砲口が、何を狙うでもなくその武力を象徴している。

 佐々木は、肩下を掴み上げるようにして漂木を戦車の上に引きずり上げると、ハッチを開き内部に突っ込んだ。続いて自分も中に入り込み、漂木を蹴飛ばすようにして奥へ押しやると操縦席に着席した。

 佐々木・ラピスラズリ・橘花。彼は、遡れば母方の先祖に、西洋の魔女のルーツを持つ、血統正しき現代の魔法使いだ。

 空から氷を生み出し、吐息で物体の状態を変化させ、魔法陣で物の見た目を欺く。現実主義の小説に登場すれば、一気にリアリティを剥奪し、世界観を崩壊させてしまう、作者の技量が嗤われる様なご都合主義のキャラクター。

 とはいえ、佐々木自身は魔法の力を常用することは無い。使用に際して、取り立てて代償があるという訳ではないが、そう使い勝手がいい訳でもない。普段は、ミリオタの欲求を細やかに満たすため、戦車を乗用車に擬態させる程度だ。

 しかし、佐々木は如何せん、堪忍袋の緒が短いタイプの人間だった。あまり表面には出ないが、その場の怒りに飲まれれば自重は効かない。

 佐々木は戦車を起動させると、西日とちらちらと舞う粉雪に鬱陶しそうに舌打ちをしながら、照準を杉の部屋に向ける。そして、今日起きた全ての不条理に対する苛立ちを込めて、引き金に指をかけた。

 数分後、斜里町のマンション大爆発の速報が、報道網を駆け巡った。

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