それでも意識は廻っている

しうしう

日曜日

 一月某日、北海道東部目梨郡羅臼町栄町。

 雪に霞む白い街の中を、一人の大柄な男が歩いていた。肌を刺すような寒さに、真っ赤になった鼻頭をマフラーに埋めて、男は白い息を吐く。

「あ……ここか」

 男はやがて一つの建物の前で立ち止まり、コートのポケットから取り出したスマホの画面と建物の看板を交互に見てから、その中へと足を踏み入れた。

 掲げられた看板には親しみやすい丸いフォントで、『羅臼町コミュニティーセンター』と書かれている。


 コミュニティーセンターの中は清潔で、入り口の横の掲示板には、色紙を切って作ったらしい「ようこそ」という文字や、かわいらしい紙細工や綺麗な風景の写真、館内行事の案内ポスターなどが張られている。男はそれを無造作に一瞥してから、掲示板の横に掛けられたホワイトボードに目を移した。隣のにぎやかさに比べて、そのホワイトボードは事務的で面白みのない文字が並んでいるだけだ。

 ホワイトボードには、建物二階の貸会議室や貸書斎の利用状況が書かれている。

 特に会議室について、上から『第一小会議室 around70バンド結成一周年を祝う会』『第二小会議室 ビーズ細工ワークショップ』『第三小会議室 空室』『大会議室 集団健忘症について話し合う会』と書かれているのを確認して、男は二階に続く階段へと向かった。

 男は、老人や子供が楽し気に過ごしている『いこいの広場』なる空間を通り抜け、階段を上り、調子っぱずれの演奏や賑やかな喋り声の漏れ出る扉を通り過ぎて、廊下突き当りの扉の前で足を止める。

 扉には『大会議室』と印刷されたプレートが嵌っており、その下には『集団健忘症について話し合う会』と書かれた紙が貼られている。男は一つ深呼吸をしてから、大会議室の戸を開けた。

 その部屋の中には、コミュニティーセンターという穏やかな建物にはおよそ似つかわしくない程緊迫した空気が満ちていた。数人の先客がいるが、誰も彼もピリピリとした気配を纏っていて、酷く居心地の悪そうな空間だった。

 男は、そんな先客たちの視線をなるべく避けようと、大きな体をできるだけ小さく丸めて部屋の中へと踏み入った。

 部屋の中にはパイプ椅子が乱雑に並べられており、集会の参加者たちはそれぞれ思い思いに座っていたり、立っていたりと様々だ。話していたり、連絡先の交換を行ってるような人達もいるが、それも和やかな雰囲気とは言い難い。どころか、皆どこか焦っているような、切羽詰まっているような空気感がある。

 男は、なるべく部屋の隅の方の目立たない場所に着席した。体が大きいだけでなく、かなり強面の彼に、進んで話しかけようとする者はいない。男は縮こまりながら、防寒具を脱ぎにかかった。室内は暑いほど暖房が聞いており、とてもそれらを着込んだままで過ごせるような環境ではない。脱いだ手袋やマフラーをコートに包んで膝の上に落ち着けると、男はやっと脱力し深く息をついた。

「あの、これ落とされましたよ」

 ちょうどそんな気が緩んだ瞬間に誰かに声をかけられ、男は肩を跳ねさせた。顔を上げると、柔和な雰囲気の男が赤い手袋を差し出していた。雪だるま模様のそれに見覚えのあった男は、慌ててコートに包んだ自分のそれを確認する。そして確かに、片手分足りないことに気付いて、男の差し出す手袋を受け取った。

「すみません。その、ありがとうございました」

「いいえ、お気になさらず。ところで、隣失礼してもいいですか? ほかにお連れの方がいないんでしたら、少し話し相手になって欲しくて」

「あ、はい。私で良ければいくらでも。席も全然ご自由にどうぞ、私も勝手にここに座ってるだけですから」

「ありがとうございます。やっぱりこういう場は緊張するからね、誰かと話して気を紛らわせたいんですが、生憎知り合いもいないし。落とし物を拾ったのも何かの縁ですし、お近づきになれればと思ったんですが、迷惑でしたら言ってくださいね」

 彼は悠々と男の隣に腰を下してそう言った。そんな軽快な彼の様子に、男はなんとか気の利いた受け答えをひねり出そうとした。

「いえ、あの、私もこんな雰囲気の中、気不味かったところですし嬉しいです」

「そう言ってくれるとうれしいなあ。お名前をお伺いしても?」

「あ、はい。私、小倉鉄貫と申します。小倉餡の小倉に、金属の鉄に、貫通の貫と書きます」

 大柄な男――小倉鉄貫は、堅苦しくそう名乗る。それを受けて、柔和な男はにっこりと笑んだ。

「なるほど! 勇ましい名前だ!」

「そうですか、ありがとうございます。えっと、あなたは?」

「私は漂木眞です。漂流の漂に、木曜日の木でひるぎ、下の名前は真実の真の旧字です」

「ひるぎ……珍しいお名前ですね。あまり聞かない名前というか……」

「そうですね、私も自分と家族以外には見たことがありません。なんでも、マングローブの一種らしいけど」

「へえ、マングローブの……それは、なんかすごいですね」

「ていうか、小倉さん堅いなあ。もっと楽に話してくださいよ。何ならタメ口でも構いませんよ。たぶん私の方が年下ですよね。おいくつですか? あ、あと私も敬語苦手なんで、タメ口でもいいですか?」

「今四十二です。まあ、構いませんが……」

「へー、そんなに年上なんだ! 若く見えるなあ! その年頃の方って太ってたり草臥れたりしてるイメージだけど、小倉さんはすごく無駄のない体格だし、とても健康そうだよね。何かスポーツでもしてたり?」

 たちまち漂木の言葉の節々にあった、少し型崩れの敬語が抜け、小倉は戸惑う。小倉だって部下にタメ口をきくことはあるが、基本的に体育会系な職場なので逆はない。同僚相手には初対面時の敬語から、タメ口への移行に随分苦労した。それを思うと、漂木の気さくさが羨ましくもあった。

「あ、えっと、柔道や空手なんかを少し……」

「へー! これ偏見だけど、そういう武道系って大人になってからも続けるの難しくない? バスケとかサッカーとかだと、会社によってはクラブみたいなのあったり、スポーツセンターとかで趣味として続けたりできそうだけど、柔道の試合とかはなかなか機会に恵まれなさそう。ほら、チームプレイのゲーム以上に対戦相手がいないと成り立たないでしょ? それとも漫画とかで見るような、木に帯を巻き付けて背負い投げの練習! みたいな感じでやるの?」

「いえ、あの、私、警察官なもので、有事に備えて必修させられていて……。それで、その、続けられているというか、何というか」

「……へえ、警察なんだ。それはまた」

 小倉は、漂木の流れるような話術に押されっぱなしで、気付けば自分のことばかり話していることに気付いた。彼は自分の口下手を自覚していたが、だからといって会話の労苦を全て相手に押し付けているようなこの状況はいたたまれなかった。小倉は漂木の調子に倣って、何とか質問を返す。

「漂木さんは、どんなお仕事を?」

「医療関係。ていうか、なんかそれお見合いみたいだね。いや、むしろ尋問? 『吐いたら楽になれるぞ!』って。この言葉、私が言ったら『吐く』の意味が変わるね。食中毒の対処法的な」

「漂木さん、お医者さんなんですか。随分お若いのに、すごいですね。おいくつ何ですか?」

「いくつに見える?」

「え? えっと、その……、二十代から三十代、くらいでしょうか」

「結構幅広く来たね。間違いないと言えば間違いないけれど、クイズの答えとしては反則だよ。でも、確かに事件のニュースとか見ると、そういう断定を避けるような標記って多いよね。警察官の癖、みたいな感じかな」

「すみません……」

「いえいえ、別に怒ってないよ。こんなのただのお遊びだし。そういえば……」

 漂木は辺りを見渡しながら言葉を濁した。大会議室にはちらほらと人が増え始めている。全員男性で年齢は様々だが、子供というほどに若い者も、老人というほどに老いている者もいない。漂木は少し声のトーンを抑えて、小倉に囁きかけた。

「小倉さんも、例の?」

 例の、の後に隠された文意を察して、小倉は神妙に頷いた。そもそも、ここに居る全員がそのことについて話し合うために集まっているのだから、何を憚る必要もないはずなのに、それでも二人は自然と声を潜めてしまう。

 しかし、それも仕方がない。どうあっても、とんでもなくデリケートな話にならざるを得ないのだから。

 記憶が飛ぶ、なんて事は。

「私は一日だけなんだけど、小倉さんは?」

「私もです。一日だけ……いえ、丸一日分も、何も覚えていないんです」

「そうだね、本来数時間でも異常事態なのに『だけ』なんておかしかったね。でも、中には数日分記憶を失っている人もいるらしいから、それと比べたらつい……」

「あ、いや、すみません。揚げ足をとるようになってしまって……」

「いいよ。むしろこれは医療関係者として手痛い心得違いだな。何事であれ、症状を甘く見るなんて。そちらのお二人はどうなの? どれだけ記憶が無くなっている感じ?」

 唐突に漂木は、近くに立っていた二人の男性に声をかけた。話しかけられた二人も驚きの表情を隠せないようだったが、小倉の方も漂木の大胆さに目を丸くしていた。もっとも彼の目は鋭すぎて、見開いたところで丸みを帯びることは無い。

「あ、ああ、俺も一日だけです。渋澤君も確かそうですよね?」

「はい……。ボクもそうですね。一日です」

 話しかけられた二人は戸惑いつつも、漂木たちに歩み寄りながらそう答えた。

「あ、私は漂木眞といいます。すみません、話が弾んで、勢い貴方達に飛び火しちゃった。でもこういう話って、いろんな人と共有しておいた方が安心じゃない? サンプルも多い方が、分かることもあるかもしれないしね」

漂木は近くの椅子を二人に勧めながら言った。

「確かに一理ありますね。俺は佐々木・ラピスラズリ・橘花です。よろしくお願いしますね」

「ボクは渋澤塔です」

「あ、私は、小倉です。小倉鉄貫です」

 彫の深い顔立ちの青年、佐々木がハキハキとそう名乗り、それに大人しそうな青年、渋澤が控えめに続いた。小倉も慌てて自己紹介をし、軽く頭を下げた。

「ラピスラズリ? へえ、きれいだね! ミドルネームって奴? もしかしてハーフの方だったり?」

「はい、そうです。母が西洋の方にルーツがあって。けど、普通に日本暮らしなんで、異国情緒はありませんけどね」

「そうなんだね! ラピスラズリは和名で瑠璃だよね。るりちゃんて呼んでいい?」

「え、嫌です」

「よろしくね、るりちゃん! 渋澤君は、澤は難しい方? 下の名前はどういう字を?」

「あ、そうです。塔はタワーの塔です」

「よろしくお願いします。渋澤君たちは記憶が飛んでるってどの時点で気付いた? あ、これ、小倉さんにも教えてほしい。私実はなかなか気付かなかったんだよね」

「ボクは会社に行って。記憶が無いのは金曜日のことなんですけど、次の日金曜のつもりで出社しちゃって」

「私も、職場で気付きました。朝その日あるはずだった調査の話を同僚にしたら、それは昨日終わっただろ、と指摘されて」

「渋澤君たちのことは普通に呼ぶんですね……。俺は朝のニュースが、自分の思ってた日付より一日進んだ日付を読み上げていて、それを取っ掛かりに携帯とか、新聞の日付を確認して気付いたんです」

「へー。皆ちゃんと生きているんだね」

「それはどういう感想なんですか。ていうか、むしろなんで気付かなかったんですか?」

 感心したように頷く漂木に、佐々木は呆れ気味に尋ねた。

「いやいや、そりゃあ、普通は気付くんだろうけど、だからって気付かなかった私が異常ってわけでもないよ。皆は何らかの組織に属しているから、曜日感覚が狂わないんだろうけど、自営業だったり、あるいは休日関係なく働いてたりすると、結構そこら辺あやふやだからね。特に私なんて、政治情勢に興味がある訳でもないから、新聞とか見ないし」

「はあ、確かに。僕にはよくわからない感覚ですけど、案外そんな感じなんですかね」

 渋澤は曖昧にそう相槌を打った。

「そうだよ~。特に私みたいな駆け出しは、昼も夜もなくあくせく働かないとやっていけないからね」

「でも、確かに私も新聞やニュースに注意を配る方ではないですから、何となく流してる音声や映像が日付を読み上げていても、それが自分の感覚と違うかどうか気付かないかもしれません。佐々木さんはすごいですね」

「日本は時間に厳しい勤勉な国民性だってよく言われますけど、この中だと意外にも俺が一番時間を気にして生きてるのかもですね。まあ、俺の生活様式が日本式である以上、国民性で物を語るのもナンセンスな話ですけど」

「むしろこの場合は、勤勉さが裏目に出てる感じかもしれないね。渋澤君も小倉さんも、時間通りに出社して働くことが身に染みつき過ぎていて、パターン化した生活を送っているから、結果曜日や日時に疎くなる、みたいな」

「はあ……まあ、それは確かにあるかもしれないです」

「徹夜や連勤が続くと、さらに分からなくなりますよね。数日張り込みとかしていると、日付が変わったって感覚がなくなってきます」

「日本人働き過ぎなんじゃないですか。なんですか、二人ともまさか今を時めくブラック企業にお勤めで? あまり働き過ぎると、ネムの木の下に捕らわれますよ」

「ネムの木? えっと、外国の諺ですか? でも、ブラック企業が今を時めいてるってかなり深刻な状況ですよね。一応私は公務員なはずなんですけれど……」

「ボクの会社も一部上場企業ですし、比較的クリーンなはずなんですけれど……」

「もう、国の根底に社畜根性染みついてる感じだよね。ボクのようなフリーランスになれば、少なくとも会社や社会ではなく自分の奴隷でいれるよ。まあ、自分が自分に対して、会社や社会よりも優しいとは限らないけど」

「先ほどのお二人の会話を聞く限り、漂木さんはお医者さんなんですよね? それでフリーランスとか平気なんですか? 医者って、それだけでなんかそういう協会とか医局とかに属してるものなんじゃないんですか?」

「嫌だなあ、るりちゃんってば。言葉の綾だよ。大病院勤めじゃなくて、町医者やってるみたいなニュアンス」

「はあ、なるほど」

 がやがやと話の本筋から外れて四人が盛り上がっていると、にわかに辺りがざわつき始めた。四人が顔を上げると、ちょうど大会議室に誰かが入ってきたところだった。沸き立った喧騒は、その顔に見覚えのある者が多いからだろう。

 会議室に据え付けられた教壇に登る男を見て、小倉も誰にともなく呟いた。

「あ、杉先生だ……」

「小倉さんの知り合い? 先生……教育者の方ですか? それともお仕事で目を付けている汚職政治家とか?」

「え、いやいや、そんなまさか……。むしろ、漂木さんの同業者の方ですよ。お医者さんです」

「おや、医者ですか……」

「はい、記憶をなくしたことに気付いた時、私、半休取ってお医者さんに診てもらったんですが、その時診察してくれたのがあの方だったんです。今回の会合も、他に似たような症状の人たちで集まって話し合うから、良かったら、とあの方が連絡をくれたんですよ」

「あ、俺もです。診察したその場で、『原因不明の健忘症が多発しているようなので、患者の皆様で症状について話し合う場を設けようと思ってます』って言われて。随分アクティブな医者もいたもんだなあと思いました」

「なるほどなるほど、私が知らないのも納得だね。自分に知識があると、余程専門的な薬や設備が必要でもない限り、自分で診察して済ませちゃうから」

「医者の不養生って言葉、ありましたよね」

「あるけど、なんでこのタイミングで言うの。さてはるりちゃん、結構性格悪いな」

「そりゃあ、そんな呼ばれ方をしたら性格もひねくれます」

「この短時間で、そこまでるりちゃんの人格形成に影響を与えたのだとしたら、私逆に凄くない?」

 杉が壇上に立ったことで部屋に居た参加者は、それぞれ手近な椅子に座って居住まいを正した。四人も会話を中断して杉に注目する。会議室に静寂が下りる。自分の発言を待つために沈黙した場を、軽く見渡して満足げに一つ頷き、杉は話し始めた。

「皆さん、こんにちは。脳神経外科医の杉亮一です。ご存じの方はいらっしゃると思いますが、私はこの町でクリニックを開いています。本日皆さんに集まっていただいたのは、他でもない、皆様とこの町に起こっている異常について、話し合うためです」

 明朗な口調で前口上を述べると、杉は紙の束を手に取った。そして、その中身を確認するように捲りながら、言葉を続ける。

「私の専門外来に訪れる方のほとんどはTGA、一過性全健忘という、一時的に記憶ができなくなる症状を訴えています。その大半が二十歳から四十代半ばの男性です。健忘、つまり物忘れの症状は一般的に四十代後半から顕著になるものなので、この年の方々に健忘の症状が、しかも一人二人ではなく大量に出ていることは、異常といえます。

 とはいえ、この年齢層に集団健忘症の先例が全く無い訳ではありません。例えばアメリカのマサチューセッツ州では、五年間で十四件の異常な健忘の症例が見られました。その原因は若年層や主婦などの間に蔓延した違法薬物だったそうです。

 けれど、今回私が担当した健忘症患者の方に、専門の検査を受けて頂きましたが、脳に異常は見受けられませんでした。もちろん薬物使用の痕跡も確認されていません。つまり、この町で起きている集団健忘症は、少なくとも既知の薬物によるものではない、ということです。

 他に原因として考えられるのは、未知の薬物や感染症などです。現時点では幸いながら、症状は一過性の健忘だけのようですが、だからといって放置すれば、深刻な事態になる可能性も無いではありません。

 そこで、一刻も早く原因を究明するために、皆さんと意見交換を行うべく、今回の会合を企画させて頂きました。皆さんにとって有意義な時間になればいいと考えています」

 杉が話を締めくくると、再びあたりに喧騒が戻ってきた。しかし、それは杉の説明が始まる以前の、身の無い会話の入り乱れではなく、それなりに統一感のある論理的な討論になっていた。

 やがて、一人が手を挙げて発言権を求めた。杉が議長のごとく、それを承認する。立ち上がったのは、目鼻立ちの整った見るからに感じのいい男だった。

「私はある三日間分の記憶が無いんです。詳しい日付とかは省きますが、とにかく、気が付いた時には、なぜかカレンダーが三枚めくられており、猛烈な眠気を感じている状態でした。その時は記憶を失ったという自覚が無く、『しっかり眠ったはずなのにおかしいな』程度に思い、なんだか夢うつつで違和感もそのままに、眠ってしまったんです。けれど、意識がはっきりしてから振り返ってみると、確かに三日の時間が経っており、その間の記憶がないことに気付きました」

「すみません、良いですか?」

 彼の発言を受けて、もう一人の人物が挙手をする。おずおずと立ち上がったのは、今まで発言していた端正な男とは対照的に、猿を連想させる醜男だった。

「こちらの方の体験談をお聞きしたところ、自分のそれとはだいぶ違うと感じたので、良ければ私の場合についても意見をいただきたいです。私は、この方のような長期間の記憶喪失は経験しておりませんが、短期間の記憶が度々無くなります。そうですね……、今思うと、小学生の時にはもう、こう言った症状はあったように思えます。去年も二度ほど、どれも一日だけですが、記憶を失いました。それから、記憶を失った直後というか、そのことに気付いた時に、眠気を感じるということは特にありませんでした」

 男の口調は、見た目の悪印象を覆す、はっきりとした丁寧な物腰だった。会議室には、彼に同意を示すざわめきが広がる。

「なるほど……。つまり、一度きり長期間の健忘よりも、短期的継続的な症状の方が多い、ということでしょうか。他に、特別こういうことがあったとか、自分の場合はこうだったとか、何か発言したい方はいらっしゃいますか?」

杉が、二人の話をまとめつつ、議論を促す。

「では、お話させていただきたいのですが、よろしいでしょうか」

 その司会進行に応えて、高く凛とした声が響く。それが鶴の一声だったかのようにざわついていた声が、ぴたりとやんだ。そして静けさの中にすっと立ち上がった人物を見て、漂木が小倉達三人にだけ聞こえる声で囁いた。

「へえ、女性もいたんですね」

 三人も無言で頷く。会議室には見た限り男性しかおらず、ここには男しかいない、とみんな無意識に思い込んでいたのだ。実際彼女以外に女性はやはり見当たらない。

 必然の注目を浴びながらも臆することなく、女性は口を開いた。彼女はどこか覚悟のような、あるいは必死さのような物を感じさせる表情をしていた。

「実は、私は健忘症の当事者ではないんです。記憶喪失を経験したのは、私ではなく私の夫です。今、私の夫は、隣人夫婦二人を殺害した嫌疑をかけられ、札幌の拘置所に収監されています。けれど、夫には事件当日の記憶がないのです。夫は温厚な人で、隣の旦那さんとも奥さんとも良好な関係を築いていました。私は夫が人を殺すような人とはとても思えません。事件について知っていることなら何でも話します。皆様にはぜひ、夫の無実を証明する手助けをしてほしいのです」

 女性の発言に、たちまち場の空気が陰気なものになった。彼女の言う『事件』が何を示しているのか、誰もが思い当たったからだろう。

 『隣人夫婦を惨殺か!? 戦慄のバラバラ殺人事件!』などというセンセーショナルな煽り文句がマスメディアを沸かせたのは、ほんの三か月ほど前で、未だに解決を見ないその事件を知らない者の方が少ない。

「あの事件だろ。警察でもないのに協力とか言われても……」

 誰からともなくそんなつぶやきが聞こえた。全員、我が身に降りかかった謎の症状について情報を求めに来たのであって、唐突に殺人だの冤罪だのと言われても、戸惑いを隠せない。

 見かねたように、杉が口を開く。早々に彼女の話を終わらせてしまいたい、というのが、主催者である彼の本心だろう。

「えー、私は仕事のある身なので協力は出来かねますが、どなたかこのご婦人に協力してくださる方はいらっしゃいますか?」

 当然のためらいと、見て見ぬふりをする罪悪感に、何となく誰もが目を逸らす中、小倉が声を上げた。

「旦那様に対する疑いにどれ程の正当性または不当性があるのか、容疑者に有利な事柄や証拠があるのか、協力と言ってもどの様なことを求めているのか、などが分からないと協力するか否か決めかねます。よろしければその辺りのことを窺いたいのですが」

 それはどもりがちで話下手な彼の性分を思わせない流暢な口調で、連れ合いの三人は思わず顔を見合わせた。

 何となく辺りには、『空気読めよ、このまま誰も手を挙げなかったら終わってた流れだろ』というような空気が漂ったが、発言者を睨み咎めようとした者は、小倉が強面の大男であることを確認すると、慌てて目を逸らした。

 思いがけず協力的と言えなくもない発言に、夫人はさっそく説明を始めようとした。

「えっと、まずですね……」

「待ってください」

 しかしその言葉を佐々木が遮る。

「ここは健忘症について話し合う場所です。容疑者に健忘症が見られたということは留意すべきケースですが、その事件の疑問点や容疑者の無実については話の趣旨と異なるので、ここで話すべきではないのでは?」

 佐々木の厳しい口調に夫人はきっと彼をねめつけたが、小倉の方ははっとして立ち上がり、全体に向けて頭を下げた。

「すみません、確かに佐々木さんの言う通りですね。つい、気になってしまって……。本筋を逸らすような真似をして、皆さんにも申し訳ありません。えっと……水原夫人、ですよね、容疑者の奥様ということは。もしも私でよろしいようでしたら、後ほどお話をお聞かせください」

 そう言って小倉は着席する。立ってみれば身長も体格も際立つ大男の、見た目を裏切る素直な反省具合に、拍子抜けしたような毒気を抜かれたような、なんとも言えない空気が辺りに満ちた。夫人も、雰囲気に流されてすんなり腰を下ろす。そして仕切り直して話し合いが再開される。

 漂木は小倉を肘で突いて茶化すように囁きかけた。

「どうしちゃったのさ、小倉さん。現職警官の血が騒いじゃった?」

 その問いかけに、小倉は気まずそうに目を伏せて答えた。

「いえ、その……。自分は刑事課の者ではありませんから、この事件に関しては一般人も同然ですし……。それに、その、あのご婦人には申し訳ありませんが、ドラマや小説ならともかく、現実的には警察の捜査力はそう生ぬるくありません。容疑をかけるからには相応の正当性があると私は信じます。だから、そういうのはあんまり……」

「それじゃあ、どうしてあの夫人に気を持たせるようなことを? もしかして好みのタイプだからお近づきになろうとか?」

 漂木のからかいに小倉は少し青ざめて首を振った。

「違います。やめてください。そうじゃなくて、だから……、その……、事件のことも気になりますけど、その、さっきの何度も記憶が飛んでいるという話と、事件のことを聞いたら、この先また記憶をなくして、知らない間に大変なことをしてしまう事もあるのかもしれないと思えて、だとしたら旦那さんの様子について聞いておきたいと」

「ふむ、それは確かにあり得るね。うん、思えば記憶が無くなった間のことをしっかり考えたことなかったかもしれない。原因についてばかり考えてたけど、実際自分が何をしていたか、しっかりと分かってはいないんだよな。……知らないところで尻尾出しちゃっても困るし……よし、じゃあ小倉さん、後であの夫人に話を聞くときは私も一緒に行っていい? なんか興味が出てきた」

「そうですか? それは、正直助かります。漂木さんがいらっしゃってくれると、気が楽で……しっぽ?」

「気にしないで」

 その後は特別な脱線も進展も無く、会議は進み、最後に杉の挨拶で集会は解散となった。

「ではそろそろ会議室の利用終了時間も迫っていますし、今回の集団健忘症について話し合う会はこれまでにいたしましょう。この件に関しては私個人も情報収集を行っておりますので、何かあれば診療所まで連絡をお願いいします」


 ちらほらと人が掃けていく会議室の中で、小倉もコートを羽織り、帰り支度をしていた。

「じゃあ、僕たちはお先に」

「さようなら」

 佐々木と渋澤は連絡先の交換を済ませると、管を巻くことも無く帰っていった。小倉は彼らの連絡先が増えたスマホで、時間を確認する。時刻は四時を少し過ぎたところで、季節的に外はもう赤を通り過ぎて薄暗い。

「小倉さん、小倉さん」

 そんなことを取り留めも無く考えていた小倉は、漂木に脇を突かれて顔を上げる。見ると人はすっかりおらず、代わりに例の夫人がすぐ傍にまで近づいていた。

「あ、すみません。お待たせして。えっと……、場所を移しましょうか。どこか落ち着いて人目を気にせずに話せるところ……」

「でしたら、私の家にいらしてください。私も外で話して変な方に聞かれるのも嫌ですから」

 夫人は苦々し気に顔を歪めて言った。例の事件は相当ショッキングだっただけに、発生直後はマスコミが色めき立って関係者を追い立てていた。彼女も散々な目を見たのだろう。

「……でも、見ず知らずの人間に住所を知られるなんて嫌じゃありませんか?」

「小倉さんは悪い方には見えませんし、それに住所なんて今更ですわ。知らない人に知らないうちに家の場所を特定されるのには、もう慣れましたもの」

「あれ? 今私、省かれた? そんなに信用無い印象?」

 小倉と漂木は顔を見合わせる。小倉の方は赤の他人の家にそれも令状も無しに上がるのは、気まずくて仕方が無かったが、彼女がそれがいいというなら反対する理由も権利もないだろう。漂木も一つ頷いて同意を示す。

「わかりました。では、お宅の方にお邪魔させていただきます」


◇◇◇


「夫は虫も殺せないような人なんです。ましてバラバラ殺人なんて」

 水原宅は思ったよりもコミュニティーセンターに近い所にあった。入口の外扉に張り付けられた誹謗中傷の紙を、慣れた手つきで取り払い、水原夫人は二人を家へと招き入れた。

 ストーブでぽかぽかと暖められた居間は、落ち着いた色合いで綺麗に纏められていたが、どこか濁った空気感があった。

 夫人は大きなファイルを持ってきて、それをダイニングテーブルに座る二人の前に差し出した。

「申し訳ありません。事件の詳細は私の口からだと、どうしても冷静に語れませんので、こちらの新聞のスクラップブックで確認ください」

「へえ、それじゃあ」

 漂木がそのファイルを受け取り、小倉にも見えやすいように机の上で大きく開く。

 情報の発信元によって語り口調や描写は異なったが、総括すれば事件の概要はこうだった。


 事件が起きたのは三か月ほど前。

 被害者は前川夫妻。前川宅でバラバラ死体が発見された。検死の結果、この遺体は前川貴(二八歳)さんと判明。

 前川貴さんの夫人で、事件当時妊娠中であった前川茜(二三歳)さんは行方不明であり、現在捜索中である。

 前川貴さんの遺体の第一発見者は、隣人の水原茜(十五歳)さん。

 午後六時○○分頃、彼女は母親である水原野枝(四三歳)さんに頼まれ隣人宅に夕飯のおすそ分けに訪れ、死体を発見する。

 彼女は自宅に逃げ帰り、母親に報告。

 午後六時二○分頃、娘の話を聞いた母親が警察に通報し、事件が発覚した。

 午後七時二○分頃、警察が現場に到着。

 現場には前川夫妻両名の血が散乱しており、前川貴さんの遺体だけが発見された。

 容疑者とされる水原琢磨(四一歳)さんは、前川宅のトイレで気を失っていた。警察に発見された時点で琢磨容疑者の着衣には前川夫妻の血痕が大量に付着していた。警察は水原茜さんの証言を決め手として、容疑者を逮捕。

 琢磨容疑者は、目を覚ます以前の記憶が全くないと供述しており、事件については黙秘している。


「この、水原野枝さん、というのが奥さんのことであってる?」

「はい、私です」

「水原茜さんというのが、娘さん……この子が第一発見者なんですか。ということは、旦那様は、娘さんの証言で逮捕されたと?」

「はい、そうなんです」

「それは、なんというか珍しいケースですね。失礼な言い方になりますが、『身内の証言は当てにしない』というのが私たちのセオリーですし……。よっぽど客観性の高い証言だったのでしょうか」

「私たち?」

「小倉さんは凄腕刑事なんだよ、奥さん! どんな事件もすぐに解決……」

「や、やめてください! だから私は刑事課の所属じゃありませんし、この捜査に際しては一般人以上のことは出来ません! それに、敏腕とか何とか、漂木さん今日会ったばっかりなんだから、私の刑事としての功将なんて知らないでしょう……?」

「そんな本気で嫌がらなくてもいいじゃないですか。ちょっとしたジョークなのに」

「水原さんは真剣に相談してるんだから、余計な誤解を招くのは失礼かと……」

「ふふ、ありがとうございます。そんな風に言っていただけるだけで嬉しいわ」

 そんな二人の様子に、水原野枝は少しだけ雰囲気を和らげて微笑んだ。そして、思い出したように言った。

「あ、よろしければ、茜にお話を聞きますか? 今、上におりますので、何か気になることがあるようでしたら、呼びますが」

「そうですか? じゃあ、せっかくだし、聞こっか? 小倉さん」

「そうですね、それではお願いしても?」

「ええ。……ただ、娘は相当ショックを受けていて、少し気が立っているので、ご配慮いただければと……」

「はい、それはお約束します。娘さんが嫌がるようでしたら、すぐにお暇させていただきますね」

「すみません」

「いえ、こちらこそ」

「娘さんがいるのって上? 階段はこっちかな。呼んでくるね」

「おいちょっと待て。なんであなたが行くんですか」

 そう言って居間を出ようとする漂木の襟首を小倉がつかみ上げる。

「他人の家ですよ、遠慮とかないんですか? ていうか女の子の部屋に、許可なく知らない男が乗り込むって事案ですからね? 仮にも現職警官の前で何してんだ、しょっ引くぞ」

「冗談だよ。なんだかお二人がまどろっこしいから、私なりに気を遣ったの。というか、やっと敬語とれたね、小倉さん」

「あっ……、怖がられるから気を付けてたのに……」

「え、えーっと、じゃあ、呼んできますね?」

「すみません……」

 水原野枝の足音が廊下を遠ざかっていくのを聞いて、再び二人は椅子に腰を下ろす。

「小倉さんって、警察官のイメージより物腰穏やかな反面、気も弱そうでどうなのかなって思ってたけど、案外ぴしっとするところはするんだね」

「そんな風に思われてたんですね……。まあ、多少は堂々としてなきゃ務まりませんけど、むやみに人を怖がらせるのも申し訳ないですし……」

「なるほど、それでそんな風に小さい声で、ゆっくり喋ってるんだ」

「それはただ口下手で……。聞き取りづらいですか?」

「いや、別にそこまででもないけど。で、娘さんに何を聞く?」

「あ、えっと……。どんな証言をしたのか聞いてみたいですね。それから、どうして父親にとって不利になるようなことを言ったのかも。いえ、嘘をついているとか言いたいわけではありませんけど、気になって……」

「確かに……。やっぱり親子って関係で何かバイアスがかかってないかは気になるよね」

「……あの、漂木さんって、子供の相手って得意ですか?」

「え? なんで?」

「私、あんまり得意じゃなくて……。特に小さい子には怖がられるので……」

「あ、そういう! 確かに小倉さんの体格は子供には怖いかもね。よし! じゃあ、事情聴取は僕に任せて」

「すみません、頼りにしてます」

 二人がそんな会話をしていると、水原野枝が戻ってきた。彼女の後ろに隠れる様に、少女が立っている。

「うちの娘の茜です。お二人については上で少し話をしておきました」

水原野枝がそう言って彼女を紹介した。彼女は警戒心を多分に含んだ目で二人を睨む。一般的にはかわいらしい部類の子なのだろうが、酷くやつれ、隈で目が落ち窪み、ぱっと見では痛ましいという印象が先立った。

「初めまして! 水原茜ちゃんだね? 僕たちは今日お母さんと知り合って、色々あって、お父さんのことについて聞かせてもらうことになったんだ。それで、君が警察に話した証言とかを教えてほしいんだけど、お願いできるかな?」

 漂木は少女の様子に一瞬ひるむも、すぐににこやかな調子で話しかけた。満面の笑みと猫なで声。漂木は親しみやすさをアピールして彼女を懐柔しようとしたのだろうが、それはむしろ逆効果で胡散臭い印象を抱かせた。水原茜の敵意がより一層膨らんだことに彼自身も気付いたのだろう。しまったという顔で振り向かれて、小倉も途方に暮れる。

「あの、初めまして。私は小倉と申します。こちらの漂木さんのおっしゃった通り、お父さんの事件についてお話を聞きたくて、失礼いたしました。思い出すのも辛い話でしょうが、できれば……その、お願いします」

 小倉は立ち上がり、出来る限りの誠意をもって少女に頭を下げた。漂木もそれに倣う。

 彼女は訝し気な目で二人の男を交互に眺め、それからちらりと確認するように母親を見て、やがて口を開いた。

「……警察に言ったことを、もう一回言えばいいの?」

 小倉と漂木は顔を見合わせる。そして、少女に感謝の意を示してもう一度頭を下げた。

「学校から帰ってきたら、あいつが丁度出かけるとこだったの。なんか、見たことのないコートを着てた。どこ行くの? って聞いたら、ちょっと散歩だってそのまま出ってた。その時、『あかちゃんは足が速いから、もう行かなきゃ』とか言ってて。その時は意味わかんなかったけど後で考えたらあれって、きっと逃げた茜さんを追いかけるってことだったんだ。追いかけて、それで……」

 水原茜はそこから先を言い淀んで、目を伏せた。しかし、あえて続きを催促せずとも、彼女が何を言おうとし、なぜ言葉を躊躇ったのかは察するに余りある。

「……警察には今みたいなことを言っただけ。もういいでしょ」

 吐き捨てるようにそう言うと、少女は席を立つ。部屋を出ていこうとする彼女に、小倉は再三の謝辞を述べる。

「ありがとうございます。嫌なことをお願いしてすみません」

「……なんでもいいから、早く出ってて」

 少女は最後にそれだけ言うと、足早に退室していった。彼女が席を離れて充分時間がたったのを確認してから、漂木が口を開く。彼女に話を聞かせないように配慮したのだろう。

「あかちゃんっていうのは、赤ん坊のことではないよね。前川茜さんは妊娠していたらしいけど、胎児が走る訳ないし。てことは、茜さんのニックネームなのかな? って、あ! 今口に出して気付いたけど、茜ちゃんと茜さんって同じ名前なのか」

「あ、そうですね。字面だと読み飛ばしちゃいましたけど、言われてみれば……」

「そうなんです。同じ名前なのもあって、あの子は前川茜さんと特に仲良くしてて……。だから余計にショックだったみたいです。『あかちゃん』って言うのも、あの子が考えたあだ名で、そんな風に呼び合うくらい、あかねさんとは仲良くしていたみたいで……」

「なるほど。えっと、他には……『あいつ』っていうのがお父さんのことですよね? もしかして娘さんはお父さんと折り合いが悪かったりしたんですか?」

「いえ、それは難しい年頃ですから、人並みに父親を遠ざけてはいましたけれど……。でも茜だって本当は、あの人が殺人を犯すような人じゃないことは、分かっているはずです」

 小倉は水原野枝のそのセリフに、内心首を傾げる。水原茜が、普段から父親をどう思っていたかは分からないが、少なくとも彼女は、母ほど父の無罪を信じているようには見えなかった。むしろ、自分の体験を通して、父親の罪を確信しているようにすら、小倉には感じられた。

 小倉はおずおずと夫人に問いかける。

「あの、失礼な質問になりますが、娘さんは、例えばその場の憤りなどで、お父さんを貶めるような発言をする子ですか?」

「とんでもないです! その辺の分別はしっかりした子ですわ」

 夫人はすぐに娘を擁護するが、それは余計に小倉を混乱させた。

 娘の証言で父親が逮捕された。

 彼女の言葉が本当なら、父親の行動はかなり不審だ。外野から見ても、被害者宅に血まみれで倒れていたという確固たる状況に、警察の捜査の裏打ち、その上怪しい行動を取っていたという証言とくれば、水原琢磨を無実と考えるのは難しい。小倉には娘の証言が嘘か間違いか、という以外に冤罪の可能性を見出す隙間は、見当たらないように思えた。

 娘の言葉も夫の無実も信じたい、という夫人の気持ちは分からなくもないが、部外者である小倉達に協力できることはなさそうだ。

 健忘症についても、参考になるようなことは無かった。

 小倉は漂木にちらりと視線をやる。漂木もそれにアイコンタクトで答える。

「お話をお聞かせいただき、ありがとうございました。ただ、その、申し訳ないのですが、この事件に関して私どもにお手伝いできることは無いかと……。もちろん、こうしてお話を聞かせて頂いたのも何かの縁ですし、今後何か力になれることがあれば、協力させていただきます」

「あまり遅くまで居座るのも悪いし、今日はこれで失礼しようかな」

 二人はそう言って席を立った。水原野枝も二人が帰るつもりだ、ということを察したのか、立ち上がって頭を下げる。

「そうですね、今日はありがとうございます。……やっぱり、そんな簡単に何とかできることではないですよね」

 少し悲しそうに呟く野枝に、すかさず漂木がフォローをいれる。

「あ、でもこうして知っちゃった以上、僕らも個人的にできることが無いか探してみようか。ね、小倉さん」

「そうですね、そうします。何かあったらまた連絡いたしますね」

「……はい、ありがとうございます」

 そうして野枝に玄関まで見送られて、二人は水原家を後にした。


「小倉さん、帰りは車? 歩き? それとも電車かバス?」

 水原宅の門扉の前で、漂木は小倉に問いかけた。返答次第で、別れの挨拶を今するか否かが決まる質問だった。

「バスです。コミュニティーセンターの傍のバス停からなので、ここからだと……いったん来た道を帰らなきゃ行けませんね」

「なるほど、僕は車なんだけど、やっぱりコミュニティーセンターの駐車場に停めてあるから戻らなきゃ。そこまでは一緒だね」

「そうですね」

 そう言って同じ方向に歩き出そうとした二人は、しかしそのままくるりと振り向いた。

 道端に寄せられた雪の山、濃い灰色の道路、とっくに日の沈んだ薄暗い街並みは、全体的にモノクロだった。しかしそんな色味に欠ける世界で、唐突に彼らの目に鮮烈な黄色が写り込んだのだ。

 空寒い風の流れに引かれて、たなびく細いその黄色は、小倉には職業上見慣れた物だった。漂木も、日常生活ではまず見ないが概念としては慣れ親しんでいる。

 『KEEPOUT』と『立ち入り禁止』の二言語が交互に印刷された黄色いテープ。事件現場で野次馬を拒み、現場保存に貢献するあのテープの一端が、ペらりと道路に舞い出ていた。

 すぐさま漂木が、帰路に背を向けてそちらへ歩き出した。小倉もそれを追う。

水原宅と庭やガレージを挟んで隣に、黄色でぐるぐる巻きにされた門を持つ家があった。洋風の小洒落た家だが、明かりの灯らない真っ暗な様相は、陰鬱な雰囲気を漂わせている。

 レンガ造りの門柱には、『前川』と書かれたプレートがはめ込まれていた。

「なるほど、つまりここが悲劇の舞台という訳ですか。どうする? 小倉さん」

「え、どうするって……」

「見てみちゃう? ここのテープ外れてるし、入れそうだけど」

 漂木のにやにやとした顔を一瞥したのち、小倉は答えた。

「……そうですね、見ちゃいましょうか」

「おや、小倉さんなら止めるかと思ったけど。ていうか、さっきみたいに怒られると思ったけど」

「もちろん、いけないことですけど……でも、三か月も経っていますし、こんな風にテープも剥がれているんだから、今更現場検証もしないでしょうし……。それに、私も少し気になりましたから」

「じゃあ、共犯だね」

 悪戯心と好奇心が悪意じみた形に表れた笑顔で、漂木はテープを引っ張った。

 その様子に、小倉は初めて悪戯を働く子供のように気まずげに、すいっと目を逸らした。


 二人は鍵のかかっていないドアから侵入し、手探りでリビングらしき場所まで辿り着いた。しかし、夕日はとうに途切れたが星明りはまだ登らない、そんな黄昏時であったため、家屋の内部は真っ暗だった。

「うーん、暗くて何も見えないなあ。スマホのライト機能で足りるかな」

 漂木がスマホを取り出し、ツールから懐中電灯のマークをタップする。パッと灯った白い光が部屋の様子を浮かび上がらせた。カウンターキッチンにダイニングテーブル。その奥にはテレビとソファとローテーブルで、ゆったりと寛げそうなスペースが作られている。それは、何処にでもありそうな、リビングルームだった。

「なーんだ、もっと血で真っ赤になってるもんかと予想してたけど、案外普通だね」

「……ええ、調査が終わった時点である程度片づけられたんだと思います」

 突然明るくなったその眩しさに驚いたのか、小倉は少し目を細めながら答える。彼の凶相が余計に凄みを増していた。

「ふーん、事件現場ってそのまま保存されるものかと思ってたけど」

「血や死体をほったらかしにはできないんでしょう。冬ですから虫こそ湧かないでしょうけど、不衛生ですし野生動物が寄って来たりするかもしれませんから。遺体を検死に回したり、証拠品を鑑定に送ったりしますし、発見時の状態のまま全く手を加えないなんてことは、普通ないと思います」

「なるほどね。こんな綺麗になっちゃった現場でも、プロの目から見たら違う?」

「いえ……、だから私は殺人現場のプロではありませんし……。やっぱり見える以上のことは分からないです」

「そっかー。まあ、だよね。事件のことを知らなかったら、調度品込みの売り家みたいにしか見えないかも。ここをいくら調査しても、分かることは無さそうだね」

「はい……あ」

「どうかした? 小倉さん」

「いえ、何か……」

 小倉はローテーブルに近寄り、そこから何かを拾い上げた。

「なんか見っかった? 事件の鍵になりそうなものとか」

「……いえ、事件には関係ないと思います。だから警察も置いていったんでしょうけど」

 でも、嫌なものです、と小倉はそれを漂木の方へ差し出した。

 それは、ごく普通のメモ帳だった。百円ショップで二、三個セットで売っていそうな。一番上のページには、近隣の公園の名前や遊具の種類が、一枚めくれば保育園の情報や空き状況、通いやすさなどが丁寧に纏められていた。カラーマーカーや色ペンをふんだんに使って細々と書きこまれたそれを見れば、前川夫妻がどれだけ生れてくる子を心待ちにしていたかが窺える。だからこそ、その幸せな未来が永遠に断たれたことを思うと、やるせない思いが掻き立てられた。

「帰ろっか。あんまり居座って、事件現場に明かりが見えるとか通報されても嫌だし」

「……そうですね」

 小倉はメモの写真を撮ってから、元の場所に戻した。

 そして二人は前川宅を後にし、今度こそ本当に帰路についた。


◇◇◇


 少し時間を遡り集会が終わって間もない頃、小倉と漂木を残して会議室を後にした渋澤と佐々木はコミュニティーセンターの廊下を歩きながら取り留めも無く会話をしていた。

「佐々木さんはこの後、どうするとかあるんですか?」

「ないですね、普通に帰って寝ます。今日からの三日間は吉凶の星に影が差すから、あまり変なことに首を突っ込みたくないし。それに、記憶が飛ぶなんて、どうせ脳の障害とか病気とかが原因だろうし、治療法が確立されるまで個人でできる事なんてないでしょ」

「そうですかね……まあ、そうかもしれません」

「俺は小倉さんみたいに心配性でもないし、漂木さんみたいに人付き合いもよくないんで、容疑者家族に話を聞くとか手間なだけです」

「でも、記憶がない間の自分の行動は、確かに分からないものがありますよね」

「記憶が飛んでようと自分なんだから、そんな変なことしてるとも思えないし、どうせいつも通りにルーティンで生活してたって」

「でも、あのカレンダーを無意味に三枚もめくってたとか、殺人を犯してたとかって聞くと、不安にもなりますよね」

「そういう人は元からそういう人だったんだよ。普段抑圧している内面が現れただけで」

「はあ……、厳しいですね」

「悪魔に取り憑かれでもしない限り、自分の行動の責任は自分にあると思うけどね」

「はあ、なるほど」

「渋澤君はどうするの? どっか寄ったりするつもり?」

「ああ、えっと、そうですね。杉先生の診療所にでも行ってみようかな」

「え、なんでまた。そりゃ情報提供に来てくださいとは言われたけど、さっきの今で行っても何も言うことないでしょ」

「あー、いえ、なんかあった時に場所を確認しときたいなーくらいの気持ちです」

「ふーん、じゃあ、俺は車で来てるからここでお別れだね」

「あ、はい、それでは。スリップとか気を付けてくださいね」

「へーきへーき、俺の車安定感凄いから」

 コミュニティーセンターを出ると、佐々木はそういって軽く手を振りながら歩き去っていった。佐々木が遠ざかっていくのを確認してから、渋澤は彼と反対方向に歩き出した。


「……」

 ガチャリと重い手ごたえを感じて、渋澤は診療所の扉に手をかけたまま沈黙した。一度引いたものを、今度は押し込んだり、横に引いてみたりと、色々試してみるが扉が開く気配はない。そもそも、曇りガラスに印字された『杉脳神経外科クリニック 定休日:日曜・祝日』の文を見れば、それらが無駄な試みなのは分かり切っていた。つまり、この病院は日曜である本日、入り口には鍵が掛けられているということだ。

 しかし、渋澤は診療所の場所を確認するという目的を果たしたにも関わらず、一旦扉から手を離したものの帰ろうという素振りは見せなかった。

 渋澤は一歩引いて扉を検分し、次に窓から院内を覗き込み、辺りを注意深く確認したのち、コートのポケットからペンほどの長さの針金を取り出した。何らかの実用的な使い道があるとも、何かの一部品とも思えないそれを、渋澤は扉の鍵穴に差し込んだ。その一場面は、もはや言い逃れの余地が無いほどに、犯罪臭のする絵面だったが、それを咎める人目は辺りには無かった。

 渋澤は慣れた手際で数秒の内に事を終え、扉は僅かな金属音と共に、不躾な訪問者を拒む能力を失った。ためらいも無く敷居を踏み越え、渋澤は不法侵入という罪を重ねる。

 扉を音もなく閉め内側から鍵を回し、渋澤は無人の院内を歩き出す。片田舎のそう大きくない病院なせいか、セキュリティーはかなり甘い。警報装置も監視カメラもない廊下を、渋澤は多少の警戒は見せながら、それでも悠々と闊歩する。

 渋澤は受付カウンターや待合室を通り抜け診察室に入った。そう広くない部屋に、診察用の簡易ベッドやごちゃごちゃと資料やファイルが散らばる机、医者用と患者用で向き合うように置かれたスツールや、手荷物置き場として用意された棚などが並んでいる。

 そして部屋の奥には、仕切りやカーテンで区切られたスペースがあった。渋澤は垂れ下がったカーテンを引いて、その中を覗き込む。そこには、入院用のパイプベッドが一つ置かれており、たくさんのチューブで様々な機械に繋がれた一人の男が横たわっていた。彼の目は薄く開いているが、何も見ていない。ただ虚ろに天井だけを映している。彼は渋澤を振り返ることも無ければ、指や耳がピクリと反応することもない。

 酸素マスクがシュー……シュー……とか細い音を立てて酸素を供給しているのだから、生かせる程度には生きているのだろうが、それでもそれは死体のようなものだった。あるいは魂の宿らない、抜け殻のようでもあった。

 渋澤はしばらく男を見つめていたが、やがて興味を失ったようにベッドのそばを離れ、今度は事務机の上に散らばる書類を手に取った。バインダーに挟まれた問診票や、大きめの付箋に書かれたメモを一瞥し、ファイルや書類に手当たり次第に目を通す。何かを探すように机を物色していた渋澤は、最後に机に備え付けられた三つの引き出しの一番下から、一枚の茶封筒を引っ張り出した。それぞれの中身を確認して渋澤は満足そうに頷き、それらを丁寧にカバンに詰めた。

 それから荒らした机をできる限り元の状態に近づけて、渋澤は病院を後にした。

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