第3話

 店を閉めた後もお客様は残り、船の時間まで色々と話をしました。


「わたしが最初にここに来た日、注文したのはところてん」お客様は、人差し指で宙に「心太」と書きました。ところてんは漢字だと「心太」と書くのです。「店長は、ところてんを突き出すように、わたしのを来世に押し出してくれた」


 ぼくも、宙に「善哉」と書きました。「お客様は今夜、旅立つ前に、ぜんざいを召しがりました」


「旅立ち。よきかな」


「はい、よきかな。お客様、そろそろ地上へのお船の時間です」


「店長、船着き場まで見送りに来てくれる?」


「喜んで」




 店を出ると、空には十六夜いざよい月が掛かっていました。月明かりの下、草むらでは秋の虫たちが鳴いています。


 船着き場に向かう道すがら、お客様は月を見上げながら言いました。


「わたしが最初に店長のお店に行った日、店長は『どなたからのご紹介で』って訊いたわよね」


「はい」


「かわいい仔猫ちゃんたちが、教えてくれたのよ」


「仔猫がですか」


「ええ。店長と同じ、あのお月様みたいな目をした仔猫ちゃんたち」


 その後は、お客様はもう何も言いませんでした。




 船着き場に着くと、お客様はいきなりぼくを強く抱きしめました。


「ありがとう、さん」


 それから体を離すと、ぼくの目を見て「行ってくるわ」と言いました。


「どうぞ、良い旅を」


 お客様はうなずくと、振り返らずにまっすぐ船に歩いて行きました。

 ぼくはその後ろ姿を見ながら、彼女の地上への旅立ちを心から祝福しました。

 



 お店に戻ると窓を開け、お月様といっしょに飾り棚の二つの金花糖を夜明けまで見ていました。


 お預かりしたハイハイ人形は、出産祝いの金花糖でした。でも、その後すぐにお客様は前世を終え、乳飲み子を残して、地上を去ることになったのです。


 きっと地上に残されたどなたかが、せめてもの道連れにとお祝いの金花糖をお棺に入れたのでしょう。それが、おかあさんだったのか、おばあちゃまだったのか、それとも、おつれあいだったのか……。


 お客様がはじめて店を訪れた時、ぼくは一目見て、生まれ変わることのできる時期が過ぎかけているのに気が付きました。人としての面影が消えかけていましたから。

 

 地上に旅立って行くのも行かないのも、ご本人が選ぶこと。ぼくがどうこういうことではありません。

 ただ、このお客様はこの地に来てから長い時間ずっと迷い続けていたようでした。また人間に生まれ変わりたいという思いがありながらも、前世のつらい体験が障壁となり二の足を踏ませていたのです。


 店には、彼女のように最後の最後まで迷っている人たちもおいでになります。そういう人には、飛び切り美味しいものをご用意します。


 美味しいは、幸せ。


 このささやかな幸せが、前世の幸せを思い出す切っ掛けとなることを、ぼくは願っているのです。



 地上では楽しいこと幸せなことばかりではありません。悲しいことやつらいことも起こります。

 もしかしたら生まれ変わっても、悲しいことばかり起こるかもしれません。

 だけど、悲しいことばかりで、このまま終わるのは、あまりにもつらすぎます。

 生まれ変われば、時間に隔てられ、これまでまみえることのできなかったものと出会えて、新たな幸せを見付けることだって、できるはずです。


 それは人と人ばかりではありません。他の生き物たち、美味しいものや美しい風景、幾多の幸せとも巡り合えるのです。


 迷っているのなら、思い切って一歩踏み出してみるのもありだと、ぼくは思います。


 だから、少しでも悲しみを軽くしたり、リセットするお手伝いをするために、ぼくはこの店を魂の船着場近くに開いたのでした。

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