第2話

 季節は足早やに行き過ぎ、この地にも秋がやってきました。

 今日のお客様は、旅支度をしています。やはり、以前と同じ閉店間際。店には、ぼくとお客様だけです。


「お忘れ物がありましたよ」


「わたしのこと、覚えていてくれたのね。梅雨つゆの走りに一度来たきりなのに」


「一度いらしたお客様の顔は忘れません」


 ぼくはほうじ茶といっしょに、金花糖の入った小箱をお客様の前に置きました。お客様はハイハイ人形のようにニコニコとぼくを見上げました。


「あの日は麦茶を出してくれたけど、今日はほうじ茶なのね」


「麦茶が新茶のころでしたから。お客様もよく覚えておいでで」


「あれからずっと考えていて、わたし、やっと決心がついたの」


「それで、旅支度を」


「今夜の最終便で出発するの。わたしに割り当てられた乗船券の最後の便」


「それは何より嬉しいことです。お客様は、おぜんざいはお好きですか」


「ええ、好きよ」


「それなら、今日のご注文は、おぜんざいになさいませ」


「なぜ?」


「ぜんざいを、漢字で書くと」ぼくは、オーダーメモに「善哉」と書いて、お客様にお見せしました。「善哉という熟語は、喜び祝う意味もあります。その上に『よきかな』とも読めますし、旅立ちにはふさわしいかと」


 まるで最後に残った迷いが吹っ切れたように、お客様の顔がパッと輝きました。


「それなら、そうする。おぜんざいをいただくわ」


 漆器の椀に白玉を添えたぜんざいを持っていくと、お客様は小箱から金花糖のハイハイ人形を出していました。


「お待たせしました」


「白玉を、紅白にしてくれたのね」


「旅立ちのお祝いですから」


「ところてんの器も江戸切子だったけれど、この器も江戸漆器」


「はい。お好みかと」


「それに、おぜんざいも」


「はい。粒餡つぶあんで」




 ぜんざいも、ところてんの味付けと同じく地域によって違うのです。

 ちょっとややこしくもありますが、関東のぜんざいは粒餡でほとんど汁気がありません。汁気のあるのは、おしるこ。それが関西では、おしるこはし餡で、粒餡のおしるこがぜんざいになります。だから、江戸前がお好みのお客様には、汁気のない東京風の粒餡をご用意したのです。




「店長のご出身は?」


「東京の下町です」


「わたしの前世と同じね」


「はい」


「わたし、思い出したの。金花糖のお祝いをもらったとき、とても嬉しかったことを。その嬉しさを、ずっと忘れていた。忘れていたから、怖かったのよ。覚えているのは、嫌なことばかり。だから、また一からやり直すことがとても怖かった。いろんなことが起こるのが、怖くて仕方なかった」


「生きていると、良いことだけではありませんから」


「ええ」


「しかし、悪いことばかりでもありません、決して」


「そうよね。嬉しいことだってあるはずよね」


「はい。お客様が思い出されたように」


「この店で、金花糖を見たおかげ」


「ありがとうございます」


「ありがとうを言うのは、わたしのほう」


 お客様は金花糖のハイハイ人形を愛しそうにご自分の手のひらに乗せてから、ぼくに差し出しました。


「このお人形、貰ってはくれないかしら」


「よろしいんですか。今まで大切になさっていたのに」


「だって、持ってはいけないでしょう」お客様の顔は曇り、うつむいて聞き取れないほどの小さな声で続けました。「大切すぎて、旅立ちの迷いにもなっていた。また似たようなことが起こったらって、怖くて仕方がなかった」


禍福かふくあざなえる縄のごとしと申します」


「えっ?」


「幸福と不幸は、より合わせた縄のように絡み合っているものです。幸福も不幸もどちらもそればかりは続きません。幸福で浮かれていると、得てして不幸に足をすくわれるものです」


「金花糖のお人形を貰った後のように……」


「ですが、お客様。お祝いの後の思わぬ不祝儀、それも次の幸福が巡ってくるためのものでございますよ」ぼくは、お客様の手から小さな人形を受け取りました。「この金花糖は、喜んでお預かりします」


「あら、貰ってはくれないの? わたしは貰ってほしいのに」


「はい。お預かりするだけです。思い出の金花糖を受け取りに、またこの店に来ていただけるように」


 お客様の顔にやっと笑顔が戻りました。


「店長は商売上手ね。それなら、次にここに来るときには、おみやげをたくさん用意してこなくては」


「楽しみにお待ちしておりますよ」


 お客様がぜんざいを食べている間に、ぼくは飾り棚にハイハイ人形を持って行き、金花糖の招き猫の横に置きました。


「実はこの招き猫も、あるお人からの預かりものなんです」


 お客様は食べる手を止め、ぼくを見ました。


「その人も、旅立つときに?」


 ぼくがうなずくと、お客様はしばらく考えてからたずねました。


「店長は言っていたわよね。この招き猫は棚に置いたばかりだって」


「はい。お客様がお見えになった前の週に」


「その人はどんな事情で、この招き猫を?」


 ぼくは、その質問には黙ったままでいました。お客様はまたしばらく考えてからたずねました。


「それなら、わたし、その人に会うこともできるのかしら」


「それは、ぼくではなく、この招き猫におたずねになればと」


「この招き猫の持ち主は、どんな人?」


「それは、会ってからのお楽しみでございますよ」


「招き猫は新しくて、お砂糖の色はまだ白い。この地でさえ金花糖の色がすっかり変わるまで迷ってばかりいたわたしとは違って、思い切りのいい人なのよね。そんな気がする。きっと切符を手にしたら、迷わず、すぐに出発したんだわ」


「お客様とは、お似合いかもしれません。さっそく、招き猫に良縁祈願なさいませ」


「いやだ、店長ったら」

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