自由な意思とは何ぞや?

 人間に自由はないらしい。


 決定論の考え方である。現実で起こるすべての物事は予め決まっているのである。

 今これを読んでいる人が(いるのかは分からないが)ここで読むのをやめるのも、読み続けるのも、その人自身が決めるのではなくあらかじめ決まっていたのだ。


 とはいえ、多くの人はこれを否定したいと思うか、拒絶するだろう。

 自分がこれから何をどうしようかはすべて自分の自由意志によって決まっていると。


 次の考え方を(納得できなくても)知っておいてほしい。

 その時に働いている物理法則やそれによって動かされるものを分子や原子のレベルで観測することによってこれから起こる未来の出来事を知ることができる。つまり未来の出来事は既に決まっている。


 人間の脳はどのようにして身体を動かしているのだろうか?

 人間の脳内の神経に電気信号が送られることで「動かす」という命令を身体の各部分に伝えている。思考する場合も同様に脳内で電気信号のやり取りが行われている。


 であれば、脳内の電気信号の動きをどこかの悪魔に一瞬のうちに計測・計算させればその人が次にどう動くかを先に知ることができるのだ。これを先に書いておいた考え方と照らし合わせれば人間の行動の全ても予め決まっていたことになる。


 では、人間は自由意志をどのようにして感じているのだろうか?


 腕を上げるとかの身体の動きを考えることは難しいが、思考しているの場合を考えると考えやすいのではないだろうか?


 ほとんどの行動は思考の上に成り立っている。

 これに疑問を抱く人は少ないだろう。(反例はいくらでも存在しそうなので“ほとんど”という言葉でごまかしておく)


 思考することは自分の意志だろうか?

 思考することで感じる疲労が0だったらどうだろうか? 本人は疲れることなく(つまり感覚的には0エネルギー)で物事を考えることができ、その結果を得ることができる。

 さらにこの時、思考に必要な時間がごく短かったらどうだろう?

 体感では思考の結果が、まるでインターネットで検索したかのように得られるのではないだろうか? そうだとした場合、思考のプロセスは自由を感じるものであろうか? 自動的と感じるのではないだろうか?


 思考できるという点で動物と人間を区別することもあるほどに思考とは人間にとって重要である。この場合の思考とは考える過程のことを重要視するものである。そこをすっ飛ばして結果を得るのだからそれは自由によって得たものではなく自動的に得たものと言えなくもないだろう。


 決定論を正しいと考えた場合、思考にかかる時間と疲労感が自分で考えた(考えないこともできたのに)と思わせるのではないだろうか? 


 ここまで読んでくれた人(がいたらいいな)が頭をかしげていたり、疲れていたりするそれこそが、思考や行動に自由な選択があったと(後から)思わせるのではないだろうか?

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