ただ、笑っていて欲しかった

雑草


 ──いつも、繰り返し見る夢があった。


 今ではもう遠い、何のしがらみもなく無邪気に笑えていた子供の頃。かつての私の居場所だった教室。その一画に佇む女の子。


 彼女は自分を見るたびいつも嬉しそうに笑ってみせた。よく知った、可愛らしいその笑顔。私は彼女と話がしたくて、つい走り寄ってしまうのだ、彼女の元へと──けれども、決まって彼女はそれを喜んではくれなかった。ただ嫌悪したように、ぎとりと睨め付けるようにして私を見つめる。その目の、子供らしからぬ醜悪さに。私はつい怯んでしまうものだった。


 そんな私に、彼女は何かを口走る。薄桃色の、子供らしい小さな唇が薄く開き〝どうして〟と動くそれ──そこで、いつも目が覚めてしまう。そんな、快いとも不快だとも言いがたい微妙な夢を。私はいつだって繰り返し見続けていた。



 ──ジリジリと纏わりつくようにしてあちらこちらから飛び込んでくる蝉の鳴き声に、私は眠気ももうすっかりと吹き飛ばされて──だからさっさと寝具から身を引き剥がすと身支度のためだけに忙しなく動き回る。


 トイレに行って、いやな汗にじとりと光る顔を洗って──そうして味わうこともなく食事を済ませ、それから身を清めて適当な衣服を身に纏い──そうしていつもの無表情、何の感慨の色も乗らない死人のような顔を共に、私は出たくもない家を後にする。


 そうして揺れる電車の中、身動ぎすらも許されない窮屈な人混みの中を私はただ流されていく。もはや考えるまでもなく、なかば無意識的に辿り着く、すっかり見慣れた今の私の居場所。


 いっそ嫌味なほどに仰々しいビルの、無駄に長いエレベーターの中。無機質な環境音が暗にお前ももう立派な社会人なのだと、大人だろうと責め立ててくる。そうしてまだ何もしていないというのに痛む頭を押さえ込んで、私はその扉が開くと同時に機械のような人間へと成りきって、憂鬱な現実に順応してみせるのだ──大人らしく。


 「おはようございます」


 何の色も滲まない私の声を拾い上げた仲間たちは、あちらこちらから口々に〝おはようございます〟と白々しい声で復唱してみせる。その声だけが暗に、この場の皆も本当は自分と同じ気持ちなのだ──と教えてくれるものだったから。私はようやく僅かばかり穏やかな心持ちになると自分のデスクへと腰を下ろす。


 そうして息吐く間もなく届くコール音に手を伸ばして、私の1日はそうやって始まるのだった。



 「先輩〜! 本当にありがとうございました!」


 ──やや甘ったるい響きを持つ声が突如、頭上から降ってきた。女の薄っぺらなそんな言葉に、私は箸を動かす手を止めて、視線を声の主の元へと移してこの目にその姿を映し出す。


 そうして深々と、やや大袈裟とも取れるようにして手を合わせる、柔らかな茶色がたなびく可愛らしい女の姿に。私にはもう持ち得ないそんな無垢な可愛らしさに少しばかりの妬ましさを込めて、私は冷ややかに返事をする。


 「全く、そろそろ一人立ちしなさいよね」


 ──もう大人でしょ? なんて責め立てたくなる本心には蓋をして。私は形だけのそれらしい笑顔を作ってみせる。そうして、すっかり食欲も失せてしまった私は手早く弁当を片付けると、今から休憩なのだろう女に席を明け渡して、立ち去るためだけに踵を返した。


 「ちょっと待ってくださいよ? 私今からお昼なんです」


 ──お話に付き合ってくださいよ、なんて。彼女は甘えたふうに言うものだから。その可愛らしさに何も言う気にはなれなかった私は仕方なく彼女の隣へと、先ほどまで自身が腰掛けていた椅子へと座りなおす。


 ──私、やっぱり可愛いものには目がないのかしら、なんて。つい今朝方、夢で見た可愛らしい女の子の元へと走り寄ってしまった自分の姿が不意に今に重なってしまい、たまらず苦笑いをこぼしてしまう。どうしても、可愛いものには。その傍へと寄り添いたくなってしまう。昔から人形など特に、そんなふうにして己がそばに置いて可愛がったものだと。


 不意に思い出す、そんな子供の頃から大して変わらない自分の内面に呆れ半分で、私は彼女の忙しなく動く薄桃色が美しい艶やかな唇をただうんうんと愛でるように眺めた。


 「でね、先輩はどう思います?」


 不意に疑問系をもって投げ掛けられた言葉に、私はついびくりと肩を跳ね上げた。実はあんまり話を聞いてはいませんでした──なんて。そんな失礼な事実を告げるわけにもいかない私は、ただ考えるふりだけをしてみせる。すると決まってこの気の良い彼女は、もう一度その要点のみを話してくれるものだったから。そんな親切で大らかな彼女に甘える形で、私は今度こそその声が紡ぎ出す言葉へとしっかり耳を傾ける。


 「お人形がね、寂しいって夢枕に立つんですって! 気味が悪くてそのまま捨てて良いものか。それともちゃんと神社とかに持って行った方がいいのか。先輩だったらどうします?」


 いやにはっきりとこの脳髄を揺さぶるその言葉に、私はその違和感にはあまり深く考えることはせず、ぼんやりと浮かび上がった疑問だけを彼女にぶつけた。


 「それ、そもそも捨てないって選択肢はないの? というよりもなんでその人は手放したいわけ? 別に何をするでもない、ただの人形でしょう? 例えば着ぐるみくらい大きいものならまだしも、大して場所もとらないじゃない?」


 ──置いておいたらいいんじゃないの、可愛いんだし。暗にそう言った私に、彼女はぱちくりとその丸い瞳を押し開いて、まるで何か眩しいものでも見たように、そのガラス玉のような瞳をキラキラと輝かせて口を開く。


 「やっぱり、先輩は優しいですよね! 私、先輩ならきっとそう言ってくれるんだろうなって思ってました! そのお人形さん、離れたくなくて寂しいから、わざわざ出るんですよ? そんな可愛いもの、捨てる方がどうかしてますよね!」


 それだけを駆け足で言い終えた彼女はうふふ、と心底から嬉しそうに、その陶器のような白い頬を綻ばせる。そんな、よく見慣れたはずの彼女の可愛らしい笑顔が、どうしてか──えも言われぬ居心地の悪さを私に齎すものだったから。だから私はその居た堪れなさを誤魔化すようにして、彼女の口元へ自身が今し方つまみかけていた林檎を押し付けて。


 そうやって無理やりに会話を終わらせると、まだ食べ終わってもいない彼女を置いて、私は一足先に自身の持ち場へと足早に戻って行った。


 (何なのだろうか、この、違和感は) ──握る手には汗が滲む。

 (一体どうして、私はまるで責められているような、そんな気分になってしまうのだろう) ──騒つく胸は、動悸だけを訴える。そんな胸中の、消えぬ蟠りに。私はどうにかと忘れる努力を、やりたくもない書類仕事へとのめり込むことで、どうにかそれを成し遂げるとすっかり人気も失せたオフィスで一人思いきり伸びをした。


 この塩梅なら、後はもう明日に持ち越しても構わない。そんな進行具合を確かめて、私は一息吐くとさっさと帰るためだけに、手早く後片付けへと行動を移して、そうして適当に綺麗になったことを見とめると廊下へと繋がる扉に手を掛けた。


 「先輩、一緒に帰りましょう?」


 ──刹那。背後から飛び込んできた明るい彼女の声に、私は驚きのあまり思わず飛び上がってしまう。そんな私を見とめる彼女は、ただおかしいと言わんばかりにケラケラと笑い声を上げた。


 「もう、ビックリさせないでよ! 心臓に悪いわ!」


 気恥ずかしくて誤魔化すように怒る私に、彼女は無邪気ないたずらっ子のように、涙が滲むほどに笑ってみせた。


 「ごめんなさい。先輩いっつも小難しい顔ばっかりしてるものだから、笑わせてあげたくって」


 ──つい、やり過ぎちゃった。そんなふうにしたためる彼女の、ペロリと舌を出す、まるで子供のような戯けた仕草に。つい毒気を抜かれてしまった私はもういいのよと短く彼女を窘めて。そうして私の腕に纏わりつく彼女のややひんやりとした手に引かれるがままに、オフィスを後にした。


 長い廊下に響き渡る私たちの足音と、彼女の澄んだ声。他には何もない、そんな空間で。私は不意に、今朝の夢を思い出して──つい考え込んでしまう。


 ──私は、彼女に走り寄って、一体何を話したかったのだろう? 彼女は一体、私の何を咎めていて、私に本当は何を言いたかったのだろう。そんな、考えても仕方がない。いっそ無意味でしかないことをなぞってしまう私に、彼女は不意に声を掛けてくる。


 「ねぇ、先輩。どうして先輩は、いつもそんなつまらないっていう顔をしているの?」


 困ったように、心配そうに言う彼女に──私は返す言葉も浮かばず、つい、黙り込んでしまう。その間にも、彼女は独り言のように言葉を続ける。


 「どうしたら、先輩はもう一度。心から、笑ってくれるの?」


 ギリッと衣が擦れるような小さな音を立てて、私の腕を握り締める彼女の、怒りすらも内包したようなそんな白い指に。私はどうして彼女がこうまで憤りに苛まれているのかも分からなくて。ただ困惑の色だけを滲ませる。


 「どうして、あなたは。そんなにも私を慕ってくれるの?」


 ──業務以外で交流する人もいない。いつも一人だった。

 それを寂しいと感じる心すらもないほどに、ただ忙しなく目まぐるしく過ぎる日々に。寝て、起きて、働いて──また寝て。それだけの繰り返し。もはや自分が何のために生きているのかも分からない日々に。何の感慨もない無機質な毎日に、唯一彩りをくれる彼女の。そんな彼女が──今、らしくもなく怒っている。


 それだけが明白な今に、私は一体どうしたらいいのかも分からなくて、ただ彼女の姿だけを見つめる。そんな私を咎めるように、彼女は呟く。


 「どうして? 先輩は忘れてしまったの?」


 ──夢を、思い出した。この瞬間、はっきりと。



 ──私と彼女が佇む教室、その一画で。彼女は私に笑顔をくれる。けれども、私が駆け寄ろうとすると、嫌悪するように睨め付けてくる。それはちょうど、こんなふうに。ガラス玉の目が二つ、大人になってしまった私に、作り笑顔しか浮かべられない私に──その憤りを示すかのように。


 ──彼女の目は、怒りに濡れたぎっている。


 それが恐ろしくて、私はつい立ち止まってしまう。ちょうど、こんなふうに。そんな私を見て彼女はその形のよい、いっそ作り物めいた薄桃色に色付く唇を、薄く開くのだ。


 〝どうして、笑ってくれないの?〟

 〝どうして、遊んでくれないの?〟

 〝どうして、ひとりぼっちにするの?〟


 ──どうして、と。彼女はそう言いたかったのだ、と。

 私はその全てを、理解してしまう。


 ──なおも、彼女は言う。


 「ねぇ、一緒にいてよ? もう、どこにも行かないで。ただ、私と一緒に、ずーっとあそこで、二人きりで遊んでいようよ?」


 彼女は艶やかに笑う。冷たくて硬い、ぎこちなく伸びる細い指が私の頬に触れた。彼女のガラス玉の瞳は、その瞳孔をまん丸に開いたままに。瞬きもなく私を射抜く──ああ、もう。そんな、彼女が誰だったのかを──その全てを思い出してしまった私は、もはや彼女を拒絶する術などあるはずもなく。私はあの頃のように彼女を抱き上げて、感慨に浸るように包み込んでしまう。


 「ごめんね、随分と長いこと一人ぼっちにして。あんなにも必死に訴えかけていてくれたのに、何にも気が付かなくて」


 流れる涙は、彼女のナイロンのような艶やかな髪に染み込むことはなく、その昔から良く知る可愛らしい衣服の肩口に滴り落ちては染みを作る。そんな、長らく動くことの無かったこの心が、その異質さよりもよほど感動に震えている事実に、私はただ幸福感だけを胸に笑う。

 人形遊びをしては、無邪気に笑っていたあの頃のように──彼女はもはや、そんな私を見とめるだけで何も言わない。ただ、ようやく怒りを解いて、私の腕を頑なに引き掴むだけだった。私はそんな彼女のさまに全てを悟ってしまって。


 だからこそ私は彼女の望むがままに、彼女と共に歩き去った。



 ── ×県某市、30代会社員女性が行方不明。

 会社より帰宅途中に突如、失踪。

 女性には目立った人間関係のトラブルもなく、事件性はないと判断した警察は、その不可解な失踪を本人の意思による蒸発と結論付け、家族の訴えも虚しく大規模な捜査を打ち切りました。


 ──そんなニュースだけが映るモニターの傍ら。そのニュースの主たる女性の部屋を片付ける親族の、前。艶やかな茶色の髪が美しい、ひどく可愛らしい笑みを浮かべる人形は、もう一つの人形と堅く手を繋いでいる。


 子供のような無垢な笑顔が張り付く人形。モニターに張り出される女性の顔によく似たそれは、満足げに。その人形の隣、ただ静かに並び座っている。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ただ、笑っていて欲しかった 雑草 @mkmkmgmg

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ