夏が燻る

新巻へもん

ぶすぶすと

 蚊遣りから煙が薄く立ち上って、ゆらゆらと揺れながら夏の空に溶けていく。その根元では陶器製の豚の腹の中で、濃緑色の渦巻きが三分の一ほど灰になっていた。除虫菊の成分は人にも毒になる。そして、石見にとってあまり好きな香りではないのだが、小うるさい蚊が寄ってこないという利便性には代え難かった。


 とたとたと歩いてきて縁側に腰を下ろす。抱えてきた盆の上には良く冷えた瓶ビールと汗をかいたグラス。ミンミンと響くセミの声に混じり、軒下に吊るした風鈴がチリンと音を立てた。それに釣られて視線を上げれば、葦簀ごしに青空に入道雲が沸き上がっているのが目に見える。お嬢様はビーチで今頃上手くやっているかしらと石見は首を傾げた。


 石見が仕える宇嘉お嬢様が、想い人の圭太との関係を少しずつ進展させながら迎えた夏。夏合宿と称したレクリエーションに出かけているせいで、石見は仕事から解放されていた。もう一人の同僚であるガサツ女の山吹は、羽を伸ばし過ぎて昨夜から行方不明。ならば一人静かに夏を楽しもうというところだった。


 パチと炭がはぜる音で石見は我に返る。七輪に乗せた金網の上で、干物がジワジワと焼け、脂が表面に浮き出してきていた。人によっては不快感を感じる刺激臭が石見の鼻を打つ。端正な石見の顔が笑み崩れた。でへ。八丈島産のムロアジを使用したの逸品。いい焼き加減だ。そろそろいいだろう。


 トクトクトク。グラスにビールをそそぐ。黄金色の液体から泡が立ち上り、白い泡の帽子を被る。溢れそうになって慌てて石見はグラスに口をつけた。キンキンに冷えたビールが石見の唇を濡らし、たまらず石見は一口目を喉の奥に送る。ぷはあ。天国の味がした。


 石見はどうせ誰もいないやと膝を崩して胡坐をかく。短パンから伸びたスラリと足が艶めかしい。菜箸でくさやを摘み上げると皿に移す。代わりに茄子とトウモロコシを切ったものを乗せた。アチアチと言いながら、くさやの端を手で千切る。沸き上がる唾を飲み込んで、くさやを口に入れ噛みしめた。じゅわと広がる独特の風味。そしてまた、ビール。


 夏の醍醐味を堪能して至福のときを満喫している石見。そこに馬鹿声が響いた。

「あー。一人で狡い」

 同僚の山吹が無駄にでかい乳を揺らしながら縁側を駆け寄ってくる。風情が台無しになり、石見はため息をついた。


「狡いって、あんたが昨夜から帰ってこなかったんでしょ」

「あはは。そうだった」

「ちょっと。そんな汚い手を出さないで。手を洗ってきなさいよ」

「はいはい。その間に私のビールもよろよろ」


 台所から新たな一本とグラスを持って石見が戻ってくると、焦げ臭いにおいがする。七輪の上で茄子が煙をあげていた。その横ではご機嫌で山吹がくさやをもぐもぐと食べている。石見は茄子を菜箸で救出して別皿にのせ、山吹の抱えている皿と交換した。


「あんたはこっち」

「ええ~。私もそっちがいい」

「だったら火の番ぐらいしなさいよ」

「折角の非番なのに石見がいじめる~」


 大騒ぎをする山吹とそれを目にして半眼になる石見。毎度の光景ではあった。自分一人だけで男遊びしてきた奴に言われたくない。お嬢様の恋模様がうまくいくまでこっちは我慢してるのに。燻ぶる気持ちに水をかけるように、石見は新たな一杯を喉に流し込んだ。


-終-

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