第2話 理論

 夜、お風呂上がりの妻は、満足そうに鏡に映る素顔を眺めていた。

「イカロスの翼と言うだけあるね、本当にすっきり綺麗に落ちたよー。お湯で落ちるタイプの化粧品も今までいくつかあったけど、今回のこれは一味違うね。まさに融けていく感じで、使い心地抜群だよ」

 嬉しそうに肌のお手入れをする彼女に向って、僕は買ってもらった服のタグを外しながら言った。

「しかしまぁ、イカロスの翼なんて実際にはなかったんだろうな。仮に塔から飛び立ったのは確かだとしても、上空に行けばむしろ気温が下がる。太陽の熱でロウが融けるなんてことはあり得ないから、墜落の原因もきっと何かの比喩なんだろうなぁ」

 それを聞いた妻は突如、黙って動きを止めてしまった。ごく当たり前のことを言ったつもりだったが、僕の言葉の何かが妻の琴線に触れたようだ。怒らせるようなことは言っていないはず。こうやって妻が突然黙り込むときは何か考え事が始まった時の合図だ。一気に話すことが好きな妻は、それと同様に気になった事象があればフリーズして一気に考えることが好きだ。こうなったら結論が出てくるまではそっとしておくに限る。

 しばらくして、顔を上げた妻が満面の笑みでこう宣った。

「ねぇ、スカイダイビングに行こうよ。太陽に近づくほど寒いなんて、私、信じられない」


 ***


『上空に行くほど気温が下がり、地上に近いほど暖かい』

 そんなことは常識で、当然のように義務教育でも習う。自明だ。科学的にも明らかだ。それが信じられないだなんて、突然何を言っているんだ、わが妻は。


 僕は手を止めずに、目を合わせずに、意図を確認する。

「……君は空の上の方が、ここよりも暑いって思うってこと?」

「いくら理科が苦手な私でもね、さすがに上空の方が寒いってことくらいは知ってるよ。テレビの天気予報でも<上空の寒気>とかよく言ってるし、何よりあなたからいろいろ教わっているからね、私だってそこまでバカじゃないよ」

 そう、今でこそただのサラリーマンだが、僕はかつて大学院で宇宙工学を専攻していた。妻は元来、理科は苦手で嫌いだとか言っていたが、結婚後、妻も僕の趣味に付き合って一緒に科学館や博物館へよく行くようになり、科学ニュースや気象学も日常の生活の中で折に触れて雑談していた。その結果、それなりに科学的知識はついたのだ。だから、地上が暖かいことくらい当然知っている。それじゃあ、なぜ。それを疑う。そして、それで、なぜスカイダイビングなんだ。ちょっと待ってくれ。

「それで、あの、なぜスカイダイビング、ってことになるんでしょうかネ?スカイダイビングとは、飛行機から飛び降りて自由落下するアクティビティでございますヨネ?」

 非常に嫌な予感を感じ取り、僕は恐れながら、やや丁寧に尋ねる。動揺して、若干おかしな言葉になるが。

「うーん、あなたのような理屈っぽい言い方をするとね、ある地点Aにおいて、鉛直方向の移動があった時の、気温の差を、実体感したい……ってところかな?」

「……えっと、理論的に知ってはいるけれど、実際に気温の変化を体験してみたいと、いうことでよろしいでしょうか?」

「そういうこと」

 おかしいな、なぜ化粧品と神話の話をしていただけじゃないか。それがなぜ飛行機から放り出される話になるんだ。新しく買ってもらった服をそっと畳みながら、僕は尋ねる。

「……なぜそのようなお考えに達したのでしょうか?」

「そのままの意味だよ、上空が寒いっていうことを、実際に体験してみたいの。スカイダイビングだったら飛行機のドアを開けて飛び降りてくるから、生身で上空から地上までの空気を体験できるでしょ。私だって、イカロスの翼が太陽の熱で融けるお話はあくまで神話だと思っていたよ。だけどね、改めてあなたに『あり得ない』って言われると、本当かなって疑問に思って。だって、上空が寒いということを、私は実際に体験したことがないもの。疑問に思ったから、実験したい。あなたも実験は好きでしょう?」


 僕は頭を抱えた。この妻は突然何を言い出すんだ。あほか。いや、あほではないんだ。こういうことを考え付くんだから、少なくともあほではない。なら馬鹿か、ちがう。断じて馬鹿ではない。むしろ賢い。既知の知見に新たな仮定を立てたうえで、自分が考えた方法で実験をしたい、それはクレバーだ。いや、しかしだな。こういう人を形容するときに何と言ったらいいんだろう。すっとんきょう、気まぐれ、思い付き。いや違う、そうじゃない。いやいや違う、今すべきは、この人のことを形容することではない。妻も知っているはずだが、僕は高いところが苦手なんだ。妻の要求であるスカイダイビング、それを止めること、それが最優先だ。落ち着いて、クールにこの場を切り抜けなければ。

「……君はすでに体験しているよ。飛行機に乗ると外の気温がモニターに表示されたりするじゃないか。飛行機の窓が曇ることも知っているだろう。どうしても改めて体験したいというならさ、ほら、今は夏休みのシーズンだから、近所の気象台で観測機器を飛ばすイベントとかがある。そういうのに参加してみたらどうだろう」

 ぼくはやんわりとスカイダイビング以外の実験を提案する。しかし妻はいい顔をしない。

「観測された数字を信じていないわけじゃないんだけど、数字はあくまで数字でしょ?『窓が曇る』というのも、現象でしょ?細かいことを言ったら、ほかに曇る理由があるかもしれないじゃない、気圧とか。寒いか暑いかを体感したいのが目的だから、そういうのだとちょっと違うのよね」

 ……無駄に屁理屈が上手になっている気がする。いや、無駄ではないんだが。

「それなら、登山でいいじゃないか。高い山に登ると涼しいよ。それで十分じゃないか」

「登山だと、横方向の移動があるでしょう。離れたところの上空と地上を比べることになるよ。条件が違うものは比較してはいけないんでしょう?」

「いや、そんなのは地球のスケールからしたら誤差の範囲だよ」

「じゃあ、時間の差は?仮に富士山に登るとしたら、結構時間がかかるよね?そしたら気温も時間によって変わるんだから、やっぱり比較にならないよ。それに五合目とか山の途中から登り始めるなら、上と下の高低差が大きくないから気温の差も体感しにくいと思うし」

 ……比較試験のことなども折に触れて話していたことが、ここで裏目に出るとは。確かに妻の言う通りではあるが。

「それじゃあ、スカイツリーのような高い建物だったらどうだ?」

「高い建物は外に出れないじゃない」

 そりゃあそうだ。

「じゃあ、気球はどうだろう?気球だったらその場で浮かび上がるからいいだろう?」

 もうやけくそだ、気球も怖いし高いところとはいえ、飛行機からの自由落下よりはマシだ。

「学生の頃に北海道の気球ツアーを調べたんだけど、気球のシーズンって冬だったから諦めたたんだよね。今は夏だよ。冬まで待ちたくないし、遠いから大変だし。それに北海道の冬なんて、上も下も寒いからきっと体感差が少ないよ」

 妻がここまで手ごわいとは。ほかにいい案が思いつかない。どうしよう。何か他の案を考えるといって立ち上がって逃げてしまおうか。

 僕の言葉が途切れた隙をつくように、妻は素敵な笑顔で立派なクロージングのセリフを述べた。

「スカイダイビングなら、ある一つの地点の上空と地上の気温を体感できて、時間差もほとんどないでしょ。今は真夏だから、温度差もしっかりあるはず。だからね、スカイダイビングで体験してみたいの。大丈夫だよ、遭難する可能性がある登山よりは、きっとスカイダイビングの方が100倍安全安心だから」

 だめだ、完敗だ。僕が高いところが苦手だと知っていて、この笑顔で、そして、目をそらし続ける僕の目を覗き込むようにして、理論的に要求を突き付けてくるなんてなんて女だ。

「日帰りで行けるところ、早速探してみるね」

 こうなったら、妻は僕の力では制止できない。飛び立つしか選択肢がないとき、のイカロスはどんな心境だっただろうか。

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イカロスの翼 @sameyuki

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