イカロスの翼

@sameyuki

第1話 好奇心

 都会では、人は雑踏の中の背景となる。ポスターや町の看板、自販機の広告と同様に、あくまで背景でしかなく、その人がどのような人であるかは目にも留めない。一人一人が、多様な属性を持ち、様々な好奇心や、子供心を持っているのだが、その多くの心を知ることは難しい。大人になると自分が思っていること、感じていること、好奇心をひけらかすことがためらわれるようになる。ましてや、自分の気持ちをあらわにすることが、こんなにも恥ずかしいことになってしまった世の中では。


***


 久しぶりに妻と二人で大きな街に出た。妻が新しい化粧品を買うついでに、僕の服も見繕ってくれるという。正直、梅雨明けで暑いから外に出たくなかったためやんわりと辞退したが「ブランド物や流行りの恰好をしてほしいわけではないの。ただ、いくら在宅勤務が多いからって、醤油のシミがついたポロシャツを着続けているなんて、恥ずかしいでしょう」そういわれてしまって、僕は言い返す言葉がなかった。シミがついていない服を着て、電車に乗って大きな街まで出かける。電車の窓から見える大通りは人だらけで、まさに都会の雑踏という様相である。僕は、人がゴミのように見えてしまうこの景色が、あまり好きではない。

 百貨店の華やかな化粧品売り場に到着し、妻は慣れた様相で販売員と話し始めた。新しく買いたいという化粧品は、睫毛に塗って目元の印象を変える、マスカラというものらしい。妻はすでに似たようなものをいくつも持っているし、そんなものを塗らなくたって彼女の目元はとても印象的で魅力的だ。だが、化粧品会社に勤める妻にとっては、一つひとつ違うもののように見えるのだろう。特にライバル会社の新商品ともなれば研究対象なのだろう。そういう研究肌なところは、僕とも気があう。意味もなく男性用化粧品のリーフレットをぼんやり眺めながら、熱心に情報収集と品定めをする妻を待った。

 数分後、「おまたせ。試しにメイクしてもらってみたよ。どうかな?」そういって、小さな紙袋を片手に声をかけてきた妻は、目元の睫毛が真っ白だった。切れ長の印象深い一重まぶたに、真っ白で長く、ふさふさした睫毛がのっていた。それはまるで、羽根のよう。とても魅力的だが、一瞬ためらった。「白い睫毛が、流行り、なのか……?羽根がのっかっているみたいだ」

 にっこりと、妻は頷いて、満足そうに歩き出した。


 お目当てのものが手に入った妻は、ご機嫌な口ぶりで歩きながらいろいろと説明してくれた。今までも色のついたマスカラの流行は幾度もあったこと、だがここまで純白のものは舞台メイクなど以外では一般的でなかったこと、僕の第一印象「まるで羽根のよう」ということを狙った商品だということ、そしてなぜ今回そのようなものが売り出されてきたということ―――


「今シーズン、このブランドテーマが神話の『イカロスの翼』でね、キャッチコピーが『太陽に、恋をした』というものなのよ。あなたもイカロスの翼は知っているでしょう?科学を追い求めたことが傲慢だとされて、塔に幽閉されたイカロスが、ロウで固めた翼で塔を飛び立って太陽を目指す。しかし太陽に近づくほど、ロウが太陽の熱で融けて墜落する―――っていうお話。太陽に近づきたくて手にしてしまうほど、罪な魅力を持つアイテムみたいなイメージ、なのかな?」

 妻は好きなことになると一気に話す。さすがに神話のイカロスの翼はなんとなく知っているが、化粧品のコンセプトやブランドイメージなどは、僕にとってさっぱりわからないが、そういうことを楽しそうに話す妻のことは好きだ。


「でね、このシリーズ、成分が熱で融けるからお湯で洗うとそれだけで全部落ちるんだよ。イメージとか見た目だけじゃなくて、ちゃんと利便性もしっかりストーリーと一致しているのが面白いでしょ」

「へぇ、それはよく作ってるね。けど、それじゃお目当ての太陽に近づいたとき、スッピンになっちまうわけだけど、スッピンで本命の男に近づくことにならないか?」

「そうだよ。その人の心や自分への自信が大切なの。あくまで化粧は化粧で、自信を持ったり、行動を助けたりするための道具なんだから。ツールにすぎないの。それに、近づきたい恋の相手が男とも限らないよ。理想の自分や、なりたいイメージということだってあるんだから」

 やっぱりよくわからない。手段が目的ってことじゃないか。それにツールを使ったところで目的の「太陽に近づく」ということは達成できないのではないか。

 納得いかない僕に妻は笑って言う。

「つまりはね、大切なのは好奇心なのよ」



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