悪魔のチェス

三ツ沢ひらく

Q.

 季節は初冬。


 ちらちらと雪が降る中、小さな町の小さな教会で、静かにチェスをするふたつの影がありました。


 ひとりはとび色の瞳を持つ美しい若い女性――この教会のシスターです。


 シスターはその細い指で白のポーンを持ち上げて、コトンとひとマス進めます。


 その表情は冷静ですが、このゲームに対する戸惑いと、対戦相手に対するほんの少しの怖れが見てとれました。


 もうひとつの影は、シスターと同じくとび色の瞳を持った悪魔です。


 悪魔は瞳の色以外の形が定まっていないようで、シスターがまばたきをするたびにその姿を変えます。


 あるときは、シスターが幼い頃に生き別れた弟の姿に。


 あるときは、シスターの初恋の相手だったお医者さまの姿に。


 そして次にまばたきをすると、この教会の神父さまの姿になりました。


 悪魔が黒のポーンをひとマス進めるのを見て、シスターはなぜこんな状況になってしまったのか、ゆっくりと思い返します。


 今夜は町のお祭りがあるので、シスターは一日中大忙しでした。というのも、町の大人たちがお祭りの準備をしている間、子供たちの面倒を見るのがシスターに与えられた役目だったからです。


 本の読み聞かせやお歌を歌うだけでは子供たちは満足せず、シスターは日が暮れるまで教会の敷地で子供たちとおにごっこやかくれんぼをしていました。


 お祭りの準備が無事に終わって子供たちが家に帰った頃には、シスターは身も心もヘトヘトになっていたのでした。


 そして、ようやく日課である教会の掃除に取りかかった時、少し早い初雪とともに、黒い影が教会に落ちてきました。


 教会のレンガの壁をすり抜け、その黒い影はまっすぐにシスターの元へと漂ってきます。それから、老若男女すべてが入り混じった声で言いました。


「私と勝負をしませんか」


 シスターはそれを聞いてすぐに、この影が悪魔だと気がつきました。遠くの町が悪魔にめちゃくちゃにされたと、お祭りに来ていた旅の商人が噂をしていたからです。


 そして山向こうの町に出張に行ったまま戻らない神父さまが、昔言っていたことを思い出しました。


「悪魔は聖職者との勝負に負けるとその存在が消える」


 シスターはごくりとのどを鳴らして、勇気をもって悪魔に向き直ります。


「私はただのシスターですが、もしも私が勝負に勝ったらあなたは消えるのですか?」


「はい。そのかわり、私が勝ったらあなたをいただきます」


「……勝負の方法は?」


 シスターの問いかけに、悪魔は姿を人間の形に変え、子供たちが教会の隅に置きっぱなしにしていたチェス盤を指さしました。


 それを見たシスターはしばらく考えて、意を決したように頷きます。


「分かりました。お受けしましょう」


 こうしてシスターは人々を脅かす悪魔を消し去るために、


 悪魔はシスターを得るために、


『悪魔のチェス』で勝負をすることになったのでした。



 ▽


 シスターは自分がチェスが得意な方だと思っていました。子供の頃、身寄りのない彼女を教会で育ててくれた神父さまがチェスを教えてくれてから、神父さま以外の人にチェスで負けたことがありません。


 しかし悪魔もシスターに引けを取らない腕を持っているようでした。


 再び弟の姿になった悪魔を見て、シスターはほんの一瞬だけ、本当に弟とチェスをしているような気持ちになりました。


 それが幻覚だと分かっていても、与えられる幸福に心が揺さぶられてしまいます。


 まばたきの後、町のパン屋さんの姿になった悪魔が不意に口を開きました。


「キャスリングします」


「……どうぞ」


 悪魔はそう宣言して、自陣のキングを外側に、そしてルークを内側に動かしました。シスターはそれを確認して、改めて盤面を見直します。


「悪魔のチェスのルール、その一」


「キャスリングは何回でもできる、でしたよね」


 シスターの言葉に悪魔はゆったりと頷きます。


 悪魔のチェスというのは普通のチェスのルールとは異なるのだと、ゲームが始まる前にシスターは説明を受けていました。


 そのひとつがこのキャスリング無制限ルールです。


 普通のチェスでは、キングとルークの位置を入れ替えるキャスリングは一回しかできません。


 しかし悪魔のチェスでは何回でもキャスリングすることができるのです。


 クルクル変わる盤面と、変化する悪魔の姿に惑わされないよう、シスターは戦いに集中します。


 悪魔の指がナイトを進めました。それは奇襲ともいえる良い攻め手で、シスターの綺麗な顔が思わず歪みます。


「キャスリングします」


 シスターの口からそう宣言がされました。しかしシスターの手はキャスリングではなく、クイーンでキングを守るために駒を動かします。


「嘘つきですね」


「これは悪魔のチェスですから」


 シスターは悪魔のチェスの戦い方がどんなものか、段々と理解し始めていました。


 そして、悪魔の指先がキングに触れます。


「キャスリングします」


「どうぞ」


 クルリと入れ替わったそれを見て、シスターはため息をつきました。


「こんなに忙しいチェスは初めてです」


 ▽


 町ではお祭りが始まりました。


 陽気な笛の音と花火の音が教会に響きます。


 シスターはもうしばらく姿を固定したままの悪魔に問いかけました。


「なぜ私と勝負をしようと思ったのですか?」


「あなたの瞳の色が、美しかったからです」


「あなたが勝ったら私をいただくというのは、具体的にどういう意味ですか?」


「キャスリングします」


「それは知らない方が良いでしょう」


「ではなぜ、先ほどから神父さまの姿から変わらないのですか」


「悪魔は相手の望む姿に見えるからです」


「キャスリングします」


「本当ですか?」


「本当ですよ。私は嘘をつきません」


「シスター、どうやらあなたは頭がいいようだ。こちらもキャスリングをします」


「どうぞ」


 コツンコツンと駒を進める音と、二人の会話以外は、積もり出した雪に吸われて徐々に聞こえなくなっていきました。


 それから二人はキャスリングをすることなく、淡々と駒を進めていきました。


 シスターは胸元の十字架を見つめ、記憶の中の神父さまに想いを馳せます。


 もしかしたら神父さまも悪魔と勝負をしたのではないか。


 教会に帰ってこないのは、悪魔に負けてしまったからではないか。


 そしてこの悪魔は神父さまを負かした悪魔なのではないか。


 嫌な妄想がシスターの思考力を奪います。


「あなたは嘘つきですね」


「否定はしません」


「私の瞳はあなたと同じ色なのに、私の瞳がほしいのですか。そうではないでしょう。本当のことを言わないのならば私はこの勝負、引き分けを狙います」


 二人は同じ色の瞳でお互いを見つめました。


 そして悪魔はぽつりぽつりと語り始めます。


「私は――悪魔のチェスで負けた人間の、魂の集合体のようなものです」


「魂の……?」


「私は悪魔のチェスで勝つたびに、相手の体と魂を手に入れます。その体に、別の恵まれなかった不幸な魂を宿すのです」


「相手の体に、別の魂を?」


「そう。人間には様々な欲があります。同時に、生まれながらの不平等もある。あなたに勝つということは、悪魔のチェスにわざと負けて体と魂を売り渡してまで、若く美しい女性に生まれ変わりたいと願った魂が救われるということ。つまり悪魔は人間の欲望のために、悪魔のチェスは人間の救済のためにあるのです」


「そんなっ」


 悪魔の放った恐ろしい言葉にシスターは声を詰まらせました。


 目の前の悪魔は、己に魂を売った人間の欲望を叶えるために、シスターの体を奪おうとしていたのです。


 シスターはしばらく呆然としてから、それでも毅然とした態度を見せました。


「悪魔が魂の救済をするのならば……それはもう悪魔とは呼べないのかもしれません。しかし、あなたの行いはまさしく悪魔的で、許すわけにはいきません!」


「安心してください。あなたも私の一部になるだけです。じきにあなたの望む姿に生まれ変わらせてあげましょう」


「そうやって悩みのある人間をかどわかしたんですね。ではやはり、それは救済ではあり得ません。勝負を続けましょう。私はあなたを消さなければいけません」


 互いの駒が少なくなり、盤面はいよいよ終焉へと向かっていました。


 そしてついに白のクイーンが黒のキングの喉元に刃を突きつけます。


「チェックメイト」


 シスターの可憐な声が、静かな教会にこだましました。




 シスターは人の魂と体を奪う悪魔を消し去るために、


 悪魔は自分に頼るしかなかった不幸な魂を救うために、


 悪魔のチェスで勝負をしました。


 どちらも自身の行いが、人のためになると信じて。




 とび色の瞳が勝利の喜びに染まります。









「悪魔のチェスのルール、その二――キャスリングをするたびに私たちの中身が入れ替わる」











 さあ、


 ――勝ったのはどっち?



(了)

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