第11話 外伝~紫の上~弐
そのあと遠巻きに騒いでいた女房たちが寄ってきたので菓子の小さな包みだけそっと袖にしまっておいた。
わざわざ一枝桃の花を手折って来たのはどうしてかと首を捻っていると早種と萩野が教えてくれた。
花だけの贈り物は花言葉を文の代わりとするものなのだって。
桃の花の花言葉は『貴女の
「とりこ」の意味が解らなくって鳥の子だと思っていたら早種に笑われた。
だって犬君が逃がした雀の子の代わりに似た意味のお花をくれたのかと思ったんだもの。
わたしが悔し泣きしていたのを源氏のおにいさまは見ていたし。
虜は『素敵な貴女に私の心はつかまってしまいました。』というような意味だと萩野から聞いた。
「素敵っ……」だの「ね?もうお手並みが凄いでしょ?」だの、きゃあきゃあさわいでいる女房たちを置き去りにして部屋でひとりになった。
受け取ってしまった小さな包みをやっと袖から取り出した。
綺麗な白い包み紙をそっと開くと白くてころりとした菓子が出てきた。
甘いお菓子なんて初めてだから、つい言われた通りにこっそり食べることにしてしまった。
指先でつまんで口にいれると、さくりとした歯ざわり。
ふうわりと口いっぱいにしあわせが広がって、ほどけてなくなった。
甘い おいしい
頭の隅々まではっきりとした心地がして
次いでこの甘くおいしいお菓子にも何かしらの深い意味があったのかしらと思いつく。
やけに鮮明に思い出したのは長くしなやかな指と添えられた薄紅の 唇
『───みんなに
どうしてそんなに嬉しそうにわたしを見るの?
そんなに潤んだ瞳で
私の顔を覗き込んだ時、ほぅとため息をついたのは何故?
わたしはどうして
おばあさまが悲しむからお話しないと決めた人に、こんなに聞きたいことが次々に湧いて出てきてしまうの?
天女のようにきれいな、源氏のおにいさま
子どものように笑っていたお顔を思い出すとわたしもすこし笑ってしまうの。
大人なのに かわいらしい ふしぎな人。
最後の甘いかけらを口に放り込んだ。
このお菓子に大人の考えた意味がいろいろとあるかもしれないけれど
今はそのことに気づかないでいいことにする。
わかるのは何だか気に入られたらしいこと、甘いお菓子を内緒でくれたこと。
おばあさまに心配はかけたくないけれど源氏のおにいさまのことは───うん、嫌いではない。
もしまた来たらお花とお菓子のお礼くらいは話してあげることにしよう。
おばあさまが調子の良いときにはなるべく顔を見せて、何処にもいなくなったりしてないと安心してもらおう。
桜が花開いていているのに凍えるように寒くなった日、『お父様』が訪ねていらしたの。
「紫、おお……こんなに可愛らしく育っていたのか。今まで気づいてやれず、すまなかった。寂しい思いをさせてしまったな。今度こそ一緒に暮らそう。」
わたしの顔をみるなり涙ぐんだのがお父様──
『
だと言われた。
わたしの行方を探していたというお父様は鼻をすすりながら抱きしめて来る。
その肩越しに見えたのは体の調子が悪いのに無理に起きてきたおばあさまだった。
ひどく悲しそうに、微笑んでいる。
『私のもとからいなくならないでおくれ──……』
そう言って泣いたあの日と同じ瞳なのに無理に笑っているの。
お父様と一緒に………?
いやよ、おばあさまは尼だもの。
寺からはなれて暮らせないわ。
わたしが行ったらおばあさまは独りぼっちになってしまう。
でも視線の先のおばあさまはうなづいて言った。
「紫……お父様はきっと貴女を優しく育ててくださるわ……ね。そうでしょう?」
「そうとも、可愛い紫。邸を整えてそなたのことを迎える用意をしておこう。」
お父様にはおばあさまの目尻からこぼれる涙が見えていない。
どうして……嫌よ、離して
───苦しいっ
「ぃゃ……いやあっっ……ぅわぁあああん」
ぎゅうっとわたしを抱きしめたままのお父様は目を閉じてわたしに頬ずりするばかりで、わたしの声にも気づかない。
首を横に振って嫌だと訴えても泣きわめいても甘えてすり寄ってると思っているのよ。
ようやく腕から力が抜けて体が離れるとわたしが泣いているのを見て言った。
「紫、私も会えて嬉しい。ようやく会えたのだから泣くのも当然だ。仕事を片付けてそなたを受け入れる準備が整うのに……二月はかかろう、今少し辛抱しておくれ。必ず迎えに来る。」
がしがしと乱暴に頭を撫でる手はすぐに離れる。
「では私はこれで一度戻るよ。尼君もようやく憂いなくすごすことができよう。二月後にまた使いをよこすから。心配無用だ。」
わたしの嫌な気持ちや戸惑いには最後まで気づかずにお父様は帰って行った。
「おばあさま、どうして……?わたし、寺にいてはいけないの?」
疲れから床に臥しているおばあさまの手を、そろりと握り話しかける。
「許しておくれ紫、まだ──小さいお前には後ろ楯がなくては……この先かならず苦労することになるのよ……だから、」
言葉を切り咳込むおばあさまの喉から
ひゅうとすきま風のような音がする。
ゴロゴロと濁った音が混じる。
「わたし、おばあさまを独りなんかにしたくないわ……。」
「───私が居なくなっても、……っ……すぐに大人に成れはしないの……だから、…今はっ」
ぐぐっと低く呻いたおばあさまは強く咳込んで声が続かなくなってしまった。
「紫さま、尼君様もお疲れのご様子ですので休んでいただきましょう。」
後ろに控えていた乳母の少納言から声がかかる。苦しげなおばあさまの様子にこれ以上お話しは出来ないと諦めて、お辞儀をして部屋に戻る。
「少納言、わたし……今日お会いしたばかりのお父様の所にどうしても行かなくてはならないの?おばあさまも、本当は独りになるのは嫌なのではないの?」
「紫さま……昔からご一緒しているのですから尼君様のお気持ちも、紫さまのお気持ちもこの少納言良くわかっておりますよ。」
涙ぐんだ少納言は目尻に薄い皺をよせて微笑み、わたしの手をとった。これまでも何度もつないできた手。幼い頃と同じように優しくさすってくれている。
「尼君様は誰より紫さまのことを案じておいでです。それこそご自分のことよりも……。紫さまの後ろ楯となってもらいたいがために尼君様が兵部卿宮様をお呼びしたのでしょう。体がお辛いのをおしてでも……それだけもう猶予がないとお考えなのです。」
涙が零れて落ちそうになるのを袖で拭った。
お父様の元へ行っても行かなくてもおばあさまとのお別れが、近い。
「少しひとりにして。お庭の風にあたってくるから。」
「紫さま………。」
少納言は気遣わしげに声を残して下がって行った。
私は庭に飛び出して、垣根の近くにしゃがみ。声を立てないように泣いた。
大きな声を出したら少納言が戻ってきてしまう。
『二輪草の姫君』
垣根の向こうから小さく囁くような声がして顔を上げる。
空耳ではなく確かに、いま
垣根の枝の間から聞こえた。
「げんじの……おにいさま……?」
『うん……悲しそうな声音だね。姫君とお顔を合わせてだと周りの人たちが心配するのであれば、顔を見なければお話しできるかなと思って来たのだけど───また出直そう。』
「おにいさま……わたしここから居なくなるの。」
衣擦れの音に向かって声をかけた。
「……何故?」
驚いたのか声がやや近づいた。
おにいさまは生垣の隙間から、その綺麗な瞳を覗かせている。
「おばあさまの……お体の具合が、とても悪くて……っ……お父様のところに暮らすのだって、二月もしたらお迎えにきてしまうの。わたし、おばあさまの近くにいたい………。もう時間があまり無いなら余計に、そう思うの。」
言い終えてうつむくと、足元に生えた蓮華草に涙がぽたりと落ちて花を揺らした。
「そう………姫君は、尼君とのお別れを急かされたようで辛いのだね。」
形にならない思いを言い表せなくて苦しかったけれど、源氏のおにいさまがそれを汲み取って言葉にした。
時を忘れたようなこの山の上で、なぜ別れる時だけこんなにもせわしく追い立てられるように去らなくてはならないのか。
お父様と暮らしたいなどとは欠片も思っていないのに。
「姫君……涙や言いたいことは我慢しないものさ。気持ちを押し込めていては、体にも障るよ。駄々を捏ねてもいいんだ。大人が怯むくらい拗ねていれば『お父様』とやらもすぐには迎えに来ないかもしれないよ。」
枝葉の間から見える瞳と聞こえる声が微笑む。
少しお話ししただけでなぜこんなに伝わるのだろう。
お父様には嫌がっているのすら気づいて貰えなかったのに。
おにいさまは顔もほとんど見えないのに声だけでわたしが悲しいと気づいた。
わたしの気持ちをわかって、優しい言葉をくれる。暖かい風に包まれた心地になった。
「───やはりまた出直そう。」
「お、おにいさま。あの、」
「ん?」
「ありがとう。お話し聞いてくれて、なんだか楽になったの。あ、あとこの前のお花とお菓子も……ありがとうごさいました。わたし、お礼も言えてなかった。」
「話してみて良かったと思って貰えたなら来た甲斐があるというものさ。」
「すぐにまた来てくれる……?」
「ああ、姫君が望むなら明日にでも来よう。……来てもいいかな?」
少し心配そうに、緑の間から覗く瞳が揺れる。
「いいよ。……ここで待ってる。」
「ふふ、嬉しい言葉だ。では、また明日。」
凍えるような寒さは日射しと風に追われて何処かへ行ったようで空気が春らしくなった。
頬を濡らした涙もすっかり乾いていた。
遠ざかる衣擦れに向かって呟く。
「また明日ね。……おにいさま。」
約束があることの嬉しさと、胸の中に震える暖かさを覚えたこの日。
わたしの涙で揺れたあの蓮華草の花言葉を知りたくなって萩野に聞きに行った。
蓮華草の花言葉は、
『あなたと一緒にいると心が和らぐ。』
明日、おにいさまが来たら一輪あげよう。
咲き匂う花のように 春夜如夢 @haruno-yono
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