第10話 外伝~紫の上~壱

 春の花咲く庭を眺めていると頬を撫でていた暖かい風が不意に強くなり髪を踊らせた。


 都は暖かい。幼い頃に居たところは春でももっと風が冷たかった。


 私は幼い頃に母を亡くして尼である祖母と北山の寺に住んでいた。母のことは覚えていない。父がなんたか卿の宮と言われてもそれがどんな人なのかよく解らなかった。


 その頃の私は我が儘をよく言っていた。

 おばあ様はにこにこしながら私の話を聞いてくれた。


「あらあら、そうなの。こまったわねぇ。」


 いつも嬉しそうに少しも困らないお顔で言うので夢中で話した覚えがある。


 あの頃はじめて字を覚えて、書いていたものを時々見ては思い出している。


 思えばいつもは困らないお顔のおばあさまが本当に困った顔をするようになったのは貴方が来てからだったかしら。


 やさしく古い紙の束をひろげると今では笑ってしまうほど拙い字がならんでいる。





 『おばあさまがにっこりわらっていろいろおしえてくれた。


 いちにちのできごとをかんたんにかいてみましょうっていってくれたからはじめてかくの。

 きょうは、いぬき とあそんだの。でも、いぬきったらすずめをにがしてしまったのよ。

 とてもかわいいすずめ、ふせごにいれておいたのに。

 おばあさまはまえからすずめをにがしてあげなさいっていっていたの。

 だからいぬきがにがしてもおこらないの。


 ゆうがたにとてもきれいなひとをみたの。きものはおとこのひとだけどてんにょさまよきっと。』




 懐かしい、幼い頃の私。

 覚えているわ。この日、とても悔しいと思って泣きじゃくりながらおばあさまに駆け寄ったもの。


 おばあさまの衣の紋様や焚き染められた香、朝夕に少し離れた部屋から聞こえる読経までゆっくりと記憶の端から浮かんでくる。幼い自分の見ていた光景が鮮やかに思い出された。


 夕暮れの雲が熟れた柿の実色に染まったあの日。

 おばあさまの衣の端を掴み泣きながらそっぽを向いた時、垣根からこちらを見てにっこりと微笑んだ貴方を見つけていたの。



 誰彼時たそがれどきの貴方はこの世の者とも思えない程、美しかった。






 ********







「可愛らしい花だね。」



 お気に入りの二輪草をながめていたら頭の上から声が降ってきた。


 見上げるとにっこり笑う唇。


 ───あ──夕暮れにみた────


「天女さま」



「え?」



 わたしを見下ろす影から抜け出して驚く声の主を明るい日差しの下でよく確かめる。


 輝くようにきれいなお顔の男の人。


 なぜかとても驚いた様子でわたしをみている。


 お声をかけていいのか迷っていたら、おばあさまが歩いて来たのが見えてそちらの方にかけていった。



「あれあれ、こんな庭の外まで来ていたの?

 ま、まぁ……貴方は………。」


 おばあさまはわたしを抱きとめて声をかけると男の人を見てひどく驚いたようだった。



 おばあさまの背に隠れながらようやく男の人に声をかけることができた。


「ご、ごめんなさい。あのっ……あんまりきれいなお顔だから、男の人の衣を着た天女さまだとおもったの。」




「ぶっ……あっははは!」


 急に笑いだしたその人はわたしを見て言った。


「て、天女に間違われるなんて、初めてだよっ………くっ……ふふっ」


 可笑しくて仕方ないようでお腹を押さえて笑っている。

 目じりに涙まで浮かべて。


 大人の男の人なのに──何だか子どもみたい。


「もしや………源氏の君ではございませんか?」


「ああ、………わたしをご存じなのですね尼君。」


 にっこりと微笑んだお顔はさっきまでお腹を押さえて泣き笑いしていたのと同じ人とは思えないほど落ち着いた様子で、急に大人になったように見えた。


「噂は聞いておりましたから、でもなぜこちらへ……?」


「病の祈祷のためにこの近くに滞在していましてね。閉じ籠ってばかりいては更に気が滅入りそうなので外に散策に出たのです。

 手入れの行き届いたお庭が見えてつい近くまで来てしまいました。

 花をめでておられたのはどちらの姫君でしょうか?とても愛らしいですね。」



 優しくお話しをしているのにおばあさまの手に力が入っている気がする。

 はじめに隠れたのはわたしだけどもっと背中にかばわれた形になっている。


「私は娘に先立たれ、御霊を弔いながらこの孫娘とこの寺で暮らしている老いた尼でございます。

 孫は母を亡くし礼儀も然程わからぬ童ですので何事か無礼を申しましたらどうかこの尼に免じてお許しくださいませ。」


 おばあさまのお顔は見えないけれどお声が少し震えている。思わず握った手がとても冷たいの。


「お気になさらず。つい笑ってしまった私こそ無礼というもの。しかし……そうですか、母君を亡くされて……。

 私も母を幼いうちに亡くしたのですよ。何だか不思議なご縁がありそうだ。

 療養の間はとにかく気が塞ぎがちでしてね。可愛らしい姫君のお姿を見るだけでも心の暗い霞が晴れるようです。

 僅かに言葉を交わしただけでもこんなに気持ちが軽やかだ。またぜひお話しをさせて下さい。」



「まだまだ幼く、源氏の君のお話しのお相手などつとまるはずがございません。」


「今はそうでも……じきに輝くように美しくなるに違いない。叶うことなら側でその成長を見守りたいものです。」


「──ほほ……お戯れを。」


 おばあさまはわたしの方に振りかえると一瞬今まで見たこともない程困ったお顔をしていた。

 すぐにこりと笑ってくれたけれど、


「さあ、風が出てきましたからね。中に戻りましょう。では、失礼致します。」


 そう言っておばあさまはわたしの肩をつかみ、いつもよりはずっと早足で寺の中にもどった。


 几帳の内側に入ると力が抜けたように座り込んでわたしを抱きしめたの。


「なんてこと、なんてこと……。むらさきあなたはまだこんなに幼いのに源氏の君に見初められるなんて────嗚呼、お前まで私の手から居なくなってしまわないでおくれ……。」



 おばあさまの腕のなかでその涙声を聞いた。体を離した時にはもう涙は消えてしまっていたけど口元だけの微笑みがひどく淋しそうで、わたしは訳もわからずに不安な気持ちになった。


 おばあさまはその後、夕餉も召し上がらず臥せってしまった。









 おばあさまの体の具合いは前からあまり良くなかった。

 回りには見せないように読経の途中で肩で息をしていたのを、わたしは見ていたからわかる。


 おばあさまが『げんじのきみ』と会ったあの日以来、隠すこともできないほど具合いの悪い日が増えた。


「ねえ、『げんじのきみ』ってどういう方なの?おばあさまはあの方と顔を合わせてから様子がおかしいの。

 わたしとお話したいとか成長を見守りたいとか言っていたようだけど、どういうこと?」


 年若い女房たちに聞いてみた。しっかり者の萩野はぎの、のんびり屋の木野江きのえ、ずぼらだけど鋭い早種はやぐさの三人はわたしの話に目をまん丸く輝かせて騒がしくなった。


「源氏の君と言えば帝の御子ですね。臣に下られたとはいえ高貴な御方。その美貌は都一との評判なのですよ。」


「紫様、お会いしたのですか?……う、うらやましい」


「え……?もっとお話ししたいとか成長を見守りたいとか?あれ?紫様を引き取る気ですかね?口説かれてます?」


「それは尼君様、心労がひどくていらっしゃるでしょうね。源氏の君は美貌もさることながら数々の恋のお噂もおありだし………それに、紫様を……なんて……。」


「恋のお相手の幅が広すぎない?え?紫様は十になったばかりよね?」


「う、わぁ……でも、源氏の……はぁ、うらやましいぃ」


 目の前でわいわいと盛り上がる女房たちの様子に頭が回らない。


「うん、わたし今度あの方が来たらおばあさまが悲しむからもうお話ししないって言うわ。」


 難しいことは考えないようにしようと立ち上がる。


「いやいや、駄目ですよ?帝の御子ですからね?邪険に扱ったらほら、ね?」


「無碍にも出来なくて尼君様は困っていらっしゃったのでしょうね。」


「また、いらっしゃったら……お、お顔見れますかねぇ」


 はあ、大人ってなんてめんどうなの。





 それからしばらくして、また庭に出ているときにあの方がやって来た。



「ああ、二輪草の姫君。」


「あ」


『げんじのきみ』だ。

 何で来たの?おばあさまがまた臥せってしまうわ。


 隠れる場所を探していると目の端にきゃあきゃあ言っている三女房を見つけた。


 そうだ、文句を言おう。

 くるりと向き直って



「源氏のおにいさま。わたしはまだ子どもなので、お話の意味もわかりません。

 おにいさまがお見えになると大人はみんなものが言えなくなるみたい。

 わたしが口をきくのも心配で隠れて顔を青くしてみているのだもの。

 だからわたし何もお話ししません。」


 わたしは怒ってるけどあんまり邪険にしてもいけないって言うからお話しお断りの文句だってすごく考えたのよ。


 言い切ってからまた背を向けた。

 きれいなお顔なんてみないんですからね!


「おや、二輪草の姫君は私をおにいさまと呼んでくれるんだね。嬉しいことだ。ふふ」


 肩ごしに聞こえる声が弾んでいる。この方やっぱり子どもみたい。


 ふわりと花の香りが強くなった。

 目の前にかざされたのは桃の花だった。


 わたしの前に回り込んで屈む『げんじのきみ』のきれいなお顔が見えてしまった。


 とろけるように優しい微笑みをしている。

 そしてわたしにだけ聞こえる小さな声で言った。



「この桃の花と、この包みを姫君に。包みの中身は甘ぁい唐菓子からがしだ。みんなに内緒でお話ししないで、ね?」


 唇の前に人差し指をあててみせると包みをわたしに持たせ、ひらひらと手を振って行ってしまった。


「うう~」


 なんか、いろいろ負けた気がするの。




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