第9話 外伝~花散里

 長く冷え冷えとした五月雨の夜が明けて、梅の葉の先にたたえられた露がそよ風に弾けるまぶしい朝。





 お付きの女房、小実こさねの声で目が覚めた。


「──様、三の君様、いい加減起きてくださいませ……まったく、やっとお目覚めでございますか?このように十分日も高うございますのに。

 さぁさ、香を焚き染めますから衣を出して下さいましね。よいお天気ですから風にあたるのもようございますよ。」



 ハキハキと無遠慮に言う小実はこの屋敷では古株であり、幼い頃から頭が上がらない。

 薄く開けた瞼から入る光は眼に染みて、天気の良さに納得した。



「わかったわ──……。」



「お返事だけして身動ぎもなさらないなら、この小実にも考えがございますからね。」



 じとりと睨まれるのでしぶしぶ起き上がり衣を手渡す。


「代わりにこちらのうちぎをお召しになってくださいませ。

 ああ、そのように振り乱してせっかくの豊かなおぐしが……。」


 あれこれと急かされて運ばれて来た粥を食し、小実に髪を梳かされながらぼんやりともの想いに耽る。







 桐壺帝の女御として入内した姉君様が麗京殿れいけいでんの女御と呼ばれ、私はその三番目の妹だから三の君。


 これといった取り柄もなくお世辞にも美しいとは言えない容姿の私。

 入内した姉君様とは比べるのも烏滸おこがましい。

 髪の量こそ豊富にあるが目鼻立ちも平凡そのもの。

 何より悩みなのは必要以上に大きく成長した胸元。

 ひとえに袴の腰をよく締めて袿を着ていると目立たないが、このように若いうちから身に余るほど胸まわりに肉付いているのは鳩胸はとむねと呼ばれる。


 不恰好なこの身がはずかしく、人と接することなど厭わしい限りだった。


 私は殿方の噂に上がるような雅な特技を持ち合わせていない。琴や笛、薫物たきものなどにはあまり興味がなかった。


 姉君様にお贈りするために草木で染めた布を作ったり、それを縫って袋をつくるなどはよくしていた。貴族の娘としては似つかわしくない特技であると思う。


 誰が通うわけでもなしそれでもいいと、ただ過ごしていたこの身に、まさかの出来事が起こったのは去年の秋のことだった。









 観月の宴が十五夜に催されることとなり麗京殿の女御のゆかりのものとして私は宮中に参じた。


 初めのうちは池に浮かべた舟や楽士たちの調べに感心し趣向を凝らした宴に見入っていたものの、人の多さを煩わしく感じ人のいない部屋の几帳の陰に隠れてこの宴をやり過ごそうとしていた。


「十五夜だけあって月明かりだけは見事なものね。隠れたいものにとっては憎らしいくらい……。」



 ポツリと小さくつぶやいた時。部屋に誰かが入って来る気配がして身構えた。


「私も月明かりから逃れたい。仲間に入れてもらってもいいかな………?」



 よく通る殿方の声。恐ろしくなって几帳の陰で震えていると、声の主は衣擦れと共に近づいてくる。

 隔てた几帳を回り込んで私の顔を見た。

 さぞかしがっかりしていることだろうと私も相手に目を向けた。



 月明かりにうつしだされた息をのむように美しい殿方。

 お酒を召されたのか頬が少し赤くなっていて艶かしい。

 実は男装の麗人だとか天女の生まれ変わりだとか言われても信じてしまいそうなこの人は誰だろう……と考えて、ようやく光源氏様だと気がついた。


「ひかる………源氏様?」


「おや私をご存じか、……うん、震えが止まったね。よかった。」


 私の顔を見ても失望の色を見せずにっこりと美しく微笑む様子を見て世の姫君たちに同情した。


 ああ、こんな笑顔を見せられては心奪われずにいることは至難の技と言うものよね。



「あ……ありがとうございます。お、お気遣いいただきまして、でででは失礼します。」


「何処へ行くの?」


 いたたまれず部屋を出ようとした私の手を光源氏様は捕まえてしまった。


「あ」


 殿方に手をつかまれたことのない私は耳まで一気に熱を帯びたのがわかった。


 その手を離さないまま光源氏様は微笑んで形良い唇を私の耳に寄せ美声で囁いた。


「ね……せっかく月明かりから逃れたもの同士、ここに隠れていても誰にも気づかれないよ。」


 光源氏様は私の肩に手をおいてゆっくりと座るように促す。


「あ、あ、私……あの、お手が」


 再び座りながら肩の手が触れたままでいることにどぎまぎしていると、ふふっと笑い肩から手を離してくれた。


 触れていた手が離れたことで少しほっとした私は名乗りもしないでいたことに気付き慌てた。


「あの私、麗京殿の女御の妹で」


「知っているよ。三の君、貴女のお屋敷は垣根の辺りを通りかかるだけでもとても風情があるよね。」


 どうして姉君様でなく私を知っているの?


 不思議そうにしているのを見て光源氏様は続けた。


「橘の花咲く屋敷の人目を避ける奥ゆかしい姫君の噂を耳にしてね、話しをしてみたいと思っていたんだ。」


「それは……私が不器量だから隠れていただけで………。」


 だからこんなに美しい方の前に姿を晒しているなんて恥ずかしいのに……と俯いていると私の言葉を光源氏様が繰り返した。


「不器量?」


 光源氏様の両手が私の頬に触れその瞳から逃れられないように上げられた。


 決して強引ではなく、柔らかく触れられているのに、視線を逸らすこともできずにいた。親指が私の頬を優しく撫でている。


「あ、ぁっあの」


「貴女の何処が不器量だと言うの?

 滑らかで吸い付くような珠の肌、恥じらう様はこんなにも可愛らしいというのに。」


 僅かでも明るく感じる十五夜の月明かりを受けて煌めく瞳がすぐ近くにある。


 吐息を吸い込まれてしまいそうなほど近くに唇がある。

 いつの間にか頬から離れた手は私の腰を抱き寄せている。

「ぅ……そ、……だって、私は不恰好で」


「貴女は充分魅力的だよ、今私が離したくないと思うくらいに……ね。」


 殿方に褒められたのは初めてで、心臓は早鐘のように打っている。

 この方の眼差しは私の瞳を捕らえて離さない。



 十五夜の優しくも眩しい月明かりは私達を隠してはくれず、光源氏様の美しさを照らし出してしまう。

 濡れた瞳に睫毛の影がおちる様までくっきりと。

 甘い言葉を囁いたばかりの唇は私の唇に重ねられた。


 うっとりと柔かな唇の感覚に酔いしれていると、するりと降りてきた長い指が私の帯を引き抜いて肩から重ねた袿が落ちる。


「あっ」


 はっと気づいたときにはすでに優しく抱き締めながら横に倒されていた。襟元が緩み、隠していた胸がこぼれ出る。


 光源氏様は、ほぅと息を吐くと私の緩んだ襟元をさらに広げ、たぷりとした胸に顔を埋めて頬ずりした。


 そして顔を上げると恍惚の吐息をはきながら私の胸を両の手でやわやわと持ち上げては下ろし感触を味わうようにひとしきり撫であげる。


「ぁ、ぁっあ……っ」


 掌で転がすように撫でて、その長い指先で先端を押し込み、またつまみあげて

 初めて与えられる感覚に私がはしたなく声を上げるのを見ている。

 堪らない色香と熱を滲ませた瞳で私を見つめて言った。


「私は魅力溢れる貴女をはなすつもりはないよ……受け入れてくれるね?」


 もはや拒めない有り様になってから問うなんてずるいと思う。


 ただ私を見つめる眼にも声にも触れる手にも蔑むようなものは感じられなかった。

 真実を口にしてくれているんだと信じることができた。

 私を女として欲しいと望んだ初めての殿方


 それが光源氏様だと言うのだから今この幸運が幻にならないように小さく答えた。


「………っ、は……ぃ」









 夢見心地のような十五夜に契りをかわしてから、光源氏様は私のもとに時々通われる。



 まつりごとや数多の恋の悩みもあるのだと思う。


 私のもとに来る時は、何処かやつれた様子の時や悲しげにみえる時が多いようだった。


 心が塞いでいるときに私を頼ってくれているようで嬉しい気持ちと共に、胸が痛んだ。


 せめて私のところにおいでになるときは安らいだ心地で寛いで欲しいと願った。


 稀なお見えでも、三日続けて通ってもらえなくてもいい。もともと私には過ぎたる方なのだから。



 いつおいでになってもいいように部屋をきれいに片付け、香を焚き染める。

 毎日身を清め、褒めてもらった肌が美しく保てるようにしていた。


 橘の木の傍にある庭の入り口、いつもおいでになるときはそこからだった。


 夜にみえることが多かったから夜遅くまで起きて庭の見渡せる部屋で月を眺める毎日。


 私が夜更かしすることで朝寝坊するようになってしまったことに小実は気づいて呆れているのだろう。








 今日は橘の花が盛りに咲いて爽やかな香りが庭を包んでいた。



 麗京殿の女御あねぎみさまのもとに光源氏様が挨拶に見えていると知らされたのはその日の夕方だった。



 もし忙しくてお会い出来なくても泣いたりしないと決めていた。


 私は幸せだと思う。

 こんなにも愛しいと思う方がいるのだから。



 今宵は半月、月明かりに夜の闇が僅かに勝って白い橘の花が隠れてしまう。


 カタンと軽い音がして庭の入り口のかんぬきが外れた。


 そよ風が起きて、咲いた橘の花をいくつか散らしたのだろう。爽やかな花の香りが漂う。


 花の香りと共に私の胸を震わせる薫りがする。


 待ち望んだ薫り。


 思わず几帳を押し退けていざり出る。


「………光源氏様っ」


 前のめりに手を伸ばした私の体を愛しい人が抱き止めてくれた。


 逢えなくても泣かないと決めていたのに、逢えて涙が滲むのだから困ってしまう。


 愛しい方の顔を見ると口許に笑みがこぼれる。

 泣き笑いのようになってしまった私を優しく抱き締め、心配そうに光源氏様がのぞきこむ。


「ずっと来れなくてすまなかったね。さみしい思いをさせて貴女に嫌われてしまったかな……?」


「いいえっ……良いのです私は、貴方が健やかで居てくださるなら」


「橘の花散るこの屋敷が思い出されてならなかったよ……貴女と居ると心が安らぐんだ。

 花散里はなちるさと───私の健気な恋人……」



 私を三の君ではなく花散里はなちるさとと呼んだ愛しの君は両手で私の頬を包むと、あの十五夜の時のように優しく口づけをしてくれた。



 甘やかな時を過ごし、二人で庭から月を眺めた。

 麗しの恋人は私の膝を枕に寛いでいる。


「花散里……私は君に甘えてばかりだね。」


「私は頼ってもらえると嬉しいですよ。」


「もっと恨みごとを言われるかと思っていたよ。」


「他所で散々言われている方をこれ以上責め立てては可哀想ではありませんか。」


「はは、お見通しか。」



「ふふ、良いのですよ。ここでくらい弱音や愚痴をこぼしても……あんまり張り詰めていては壊れてしまいますもの。」


「………ぁあ、私は……貴女に育てて欲しかったよ。」


「まあ、こんなに可愛らしい御子のお世話ならきっと毎日楽しいでしょうね。」



 明るい日の光のもとで橘の花咲く庭を可愛らしい子どもたちが駆け回る風景を思い浮かべる。


 それは何よりも幸せなことだと思った。



 夜露で潤った橘の花が眩しい朝日を受けてその露を乾かす頃、かすかに立ち上るもやの中颯爽と行く背を見送る。



 また白い橘の花がそよ風に揺れて幾つか散った。


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