第8話 外伝~空蝉



 私にとって



 あの一夜の出来事は




 この上なく甘美な過ちだった……



 ******************


 心がざわめいていた。



 夜通し降っていた五月雨が止み、すっきりと晴れ渡った朝。


 見慣れた庭の木々が珠のように輝く露をたたえて眩くきらめいて見えた。



 元は上流の役どころとされる衛門督えもんのかみの娘であった私は父を病で無くしてからその日の食にも困る日々を暮らしていた。

 私を不憫に思った親類のつてで紀伊守きのかみの後妻としてこの屋敷に嫁ぎ、北のおくがたとして扱われるようになってからはもうずいぶん経つ。


 夫の伊予介いよのすけとは一回り以上歳が離れているが、私のことをとても大切にしてくれる。


 伊予介は受領ずりょうの仕事で留守になることも多いけれど屋敷の細々としたことに気を回して采配していると心細さも紛れてしまう。

 前の北の方との娘は私と年が近いこともありすぐに打ち解けることができて寂しく感じることもなかった。

 必要とされること、温かく穏やかに私を愛してくれる伊予介との生活に満足していた。



 今日もいままで何度となく過ごした伊予介の不在日。なにをどうするかの段取りはすべて身に付いている。


 それなのに、今のこの胸のざわめき。

 いままでに感じたことのない胸騒ぎにいっそう不安を掻き立てられた。



 これはなんだというの……?

 心を落ち着けるため庭に出た。



 枝葉の上に乗った露を手のひらにのせる。



 頬にぴしゃりとあてて自分に喝を入れる。


 伊予介がいないのだから私がしっかりしないと……!


 そこへ弟の子君こぎみがやってきた。



「姉上!」



 子君はまだ幼い。


 殿上童でんじょうわらわとして宮仕えしていたこともあって宮中の楽しい話しを私に教えてくれる。



「姉上、今日はすごいお客さまがお見えになるかもしれないよ!」


「まぁ、どうしたの?」


「源氏の君が方違えによい屋敷はないかとお尋ねになってね!ぜひよろしかったらおいで下さいって話をしたんだ~。」



 臣に下ったとはいえ高貴な血筋の源氏の君……光り輝くほどの美男子と評判の―――。


「そうしようかなとおっしゃってたから、きっとお見えになると思うよ!」


「ぇ……っえ?この屋敷にお招きしたの?」



 子君の話しの通りなら――……大変なことよ!?


 方違えといったら翌朝までは滞在することになる。



 来客用の夜具は整っていたかしら……?

 食事もなにか特別に用意するべき……?



 焦ってあれこれと思いを巡らせている自分に気づいて、ふと思い直す。


 子君の言うことよ?軽くあしらわれただけかもしれないし……。



 もし本当にお見えになったら、その時考えるほうがいいわ。



 半時もしないうちに屋敷の表に網代車が止まった。


 駆けて行った子君が、笑顔で戻ってきた。



「やっぱり源氏の君だった!客間にご案内してくる!」


 本当に―――!?



「待ちなさい、子君!高貴なお方を泊められるだけの用意がこの屋敷にはないのよ?!」



「大丈夫だよ、源氏の君は気さくなお方だから。」



 止めるのもきかず駆けて行ってしまった。


 さっと御簾の中に入り、子君の案内する様子を見る。



 廊下を浮き立つ足取りでやってくる子君の後ろから、若い殿方がゆっくりと歩いてくる。

 さすがに身なりのよいのが御簾越しにもわかる。



「大したおもてなしは出来ませんけど、ゆっくりして行って下さいねっ!」



「私のことはかまわなくていいよ、急ですまないね。」


 ――そう思うならこんな所にお見えならないでいただきたいわ。


 心の中でつぶやき、通り過ぎていく源氏の君の顔を見た。



 ―――……噂に違わず美しい方……。


 若く、爽やかな立ち居振る舞いからも上品さが滲み出ているわ。

 歳の離れた伊予介とは全く違う……。



 私は無意識のうちに御簾の近くに寄り添うほどに近づいて見入っていた。


「そういえば、屋敷の主人にまだ会っていないが……。」


 源氏の君がこちら側に振り返る。


 目をそらし思わず後ずさりした。


 私……なにをうろたえて……御簾の向こうから見えるわけないのに。


 後ずさるうち近くに置いてあった碁盤の端に衣が触れ、じゃりっと碁石の鳴る音が響いた。




「……どなたかそこにおいでか……?」



 ―――しまった。


「主人の義兄上様は留守にしていていないんです。たぶん御簾の中にいるのは僕の姉上です!」


 ―――……余計なことを……!



「これは失礼、伊予介殿の北の方でしたか……。

 方違えによい方角の屋敷を探していたら子君が案内してくれましてね。

 今夜一晩だけ滞在させて下さい。」



 子君が気さくだと言っていたけど、たしかに身分を鼻にかける様子は見当たらないわ。


「……高貴なお方に見合うものは何ひとつございませぬが、雨風ぐらいはしのげましょう。

 部屋を用意致しますのでそちらでお休み下さい。」


「ありがとう。」


 爽やかに微笑んでみせ、廊下を渡って行く源氏の君の姿を女房たちは溜め息まじりに見送っている。



 私は胸騒ぎがより濃くなって落ち着かなかった。


 なにより源氏の君の姿に見とれ、振り返っただけでうろたえている自分が恥ずかしく思えた。


 浮き足立った女房たちが源氏の君に夕餉の膳を運んで行く役目を取り合ったり、微笑みかけてもらったと喜ぶ様子を眺めても私はどこか冷ややかだった。



 その反面、夜が更けても目が冴えて眠れずにいた。


 御簾の中から夜空を見上げると半月の横で星が瞬くのが見えた。


 はぁ……。



 溜め息をついたその時、御簾の内側にすっと押し入る人影を見て身構えた。



「……誰っ!?」


 力強い人影は片腕で私を抱き止め口を衣で塞ぐ。


「お静かに……北の方。あなたを間近で見たかったからつい忍んできてしまいました……。」


 源氏の君――!?


 片腕は私の身体を離さない。口を塞いでいた衣からはかぐわしい香りが漂っていた。


「ああ……やはり可憐だ。」


 私の顔を撫でてそんなことをいう源氏の君に腹が立った。


 突き飛ばし、小声で抗議した。


「……でていって下さいっ……これが身分のある方のなさりようですの?!

 主人の留守中にこんなっ……!」


 抗議の言葉が今度は衣ではなく源氏の君の唇で遮られた。



 ――っ……!!



 強引に重ねられた唇は私の唇を押し開いて舌を絡めとり、今度は逃げようとしてもがっちりと抱き締められて離れない。


 唇を離そうとしても執拗に絡む舌が理性を鈍らせるほどに追いかけてくる。



 身体の線をなぞるように下がった源氏の君の手が私の衣の帯にかかり一気に引かれた。


 寝るだけのための薄重ねの衣が肩から落ちそうになる。


 がくがくっと膝から折れて倒れる身体を支えるのに逃がさぬよう抱き締めていた腕から少し力が抜けた。

 抱きかかえられて横に寝かされる。


 身体を返し抵抗しようとすると、私の両手は源氏の君の片手で抑えられた。


 割れた着物の裾から滑るように源氏の君の手が登ってくる。



「……っ!っやめ……て!いやっ!」



「こんなに可憐な貴女に触れずにいろと……?私には出来ないよ。」



 源氏の君の手が太腿にまで登り脚を割り広げようとしてくる。


「――っ!……だめっ!いやあっ!っ……っ」



 声は再び唇で塞がれて出せない。



 太腿にあった片手は脱げかかった衣を引き下げ露わにさせ、私の両手は解かれた帯でいつの間にか縛られていた。



「……抗う様も艶めかしいね。」



 唇を離した源氏の君が耳を舐めねぶりながら意地悪く美声で囁く。



「嫌がってもいいよ……あなたの声をもっと聞かせて。」



 引きおろし露わにされた胸に思いきり吸いつかれ思わず矯声をあげる。


 憎らしいほど美しい顔に恍惚の表情をうかべながら自由になった両手で容赦なく私を指先で責め立てる。


 むしゃぶりつくように激しい舌先で胸の先端を舐め転がされ、指先の動きに翻弄され私はすっかり濡れそぼっていた。


 耳に自分の身体から聞こえる水音がぐちゅぐちゅと聞こえる。


 恥ずかしさで涙が滲んだ。

 自分の身体が恨めしい。こんなにも淫らに濡らしきって自分の耳でわかるほど音をたてられたことなど───伊予介に触れられたときには起こり得なかったことだった。


 何度も上げる抗議の声も快楽の痺れにくぐもり、はねのけようにも手首を縛られたままで指先も力が入らずにいた。私の両足の間に沈みこんだ美しい顔は舌先でさらに激しく蹂躙し出した。


 度重なる果てに息も絶え絶えな私に容赦なく愉悦の波は襲いかかる。


 そして気づけば深く貫いてくる中心をずっぷりと呑み込み体の奥から快感にわなないていた。


 何度果てたか自分でもわからなかった。


 小さく呻いて、源氏の君が身体の奥に弾ける熱を注ぐのを感じながらほとんど意識を手放していた。




 両手が軽くなったのに気づいて目を開く。縛られていた帯が解かれたからだ。



「……手荒な真似をしてすまなかった。屋敷についてあなたの声を聞いた時から触れたくて、たまらなかった。」



 意識の遠退く寸前から現実に少しずつ引き戻された。



 ……私……なにをしていたの、夫のある身で……!



 初めは抵抗したとはいえ、夫以外の殿方との快感に溺れて……淫らに濡らして、喘ぎ狂って果てたのは紛れもない事実だった。



「……私……っ────こんな……ぁあ──いゃ……なんてこと……っ!」


 震えながら起き上がるとまだ吸いつかれた感覚が肌に残っていた。


 身体の奥からは源氏の君に注がれたぬるりとした白濁がこぼれて腿に伝う。


「……っ……!」


 快感の余韻に痺れる身体とは裏腹に頭の中は伊予介に対する罪悪感で満ちていた。




「……今宵のことは忘れられそうにない……

 また……いずれ。」



 血の気が引くほどの罪悪感に打ちひしがれているところに


 強引に事に及んだ本人が再びの逢瀬を望んでいるような口振り。



「……たわむれもたいがいになさいませっ!!

 身分があれば、なにをしてもいいなどゆめゆめお思いになりますな──

 たかが中流の、受領の妻だからとこの仕打ち……源氏の君とて恨みまする!」



 言い放ったところで自分の醜態に気づき、背を向ける。


 脱げた衣の胸元を閉じて握りしめた。



 ……快楽に溺れたのは私……。

 触れられて悦び喘いだのも私。

 源氏の君だけを責められる状態じゃないのはわかってる。


 わかっているけど


 恥ずかしさと自分への悔しさ伊予介への罪悪感がごちゃごちゃになって、涙が溢れた。



 私の震える肩を源氏の君が後ろから無言で抱きすくめた。


 もう怒鳴る気力はなかった。



「――……おねがいでございます。

 お帰りください。


 もう、おいでにならないで……。」



 源氏の君は無言のまま私から離れて身支度を直し立ち去った。




 翌朝――



 私は気分が優れないと家の者に言いおいて部屋にこもっていた。


 源氏の君の姿をわずかでも目にしたくなかった。




 見れば昨夜の事を鮮明に思い出してしまう────

 何度も身体を支配した甘くとろけるような痺れも、源氏の君の吐息まで……。



 少し離れた所から、子君が明るく源氏の君を見送っている声が聞こえた。


「ぜひまたおいでくださいね!」


「ああ、また寄らせてもらうよ。」


 よく通る源氏の君の声がそう応えるのが聞こえた。



 それから源氏の君が子君を通して文を届けてくることが度々あった。


 届いた文や花は読まずに火鉢にくべて燃やしてしまったから内容はどんなものか知らない。


 知りたくなかった。


 源氏の君の香の焚きしめられた文。

 手にしただけで目眩がした。


 抱き締められた感触が甦って胸が苦しくなる。


 だから……燃やした。





「子君。源氏の君からのお届けものはもう受け取ってこないで、滞在させたお礼なのかもしれないけれど変な噂が立っても嫌だから……ね?」






「………うん……わかった。次に頼まれたらそう伝えてお断りするよ。」



 とぼとぼと戻っていく子君を見送る。



 伊予介が帰ってくるまであと数日……。


 何事もなかったように取り繕って振る舞わなくてはならない。


 あの夜はなかったものとして


 まともに伊予介の目を見る事すらできない気がして指先が震える。


 また深いため息をついた。




「ふふっ……そんなに深い溜め息をついて、何を憂いてらっしゃるの?」



 御簾を上げてそう言いながら入ってきたのは、伊予介と前の北の方の娘



軒端荻のきばのおぎ……、何も憂いてなどいないわ。

 ほんの少し頭が痛いだけ……。」



 少し視線を逸らせながら答えた。


 軒端荻に溜め息の本当の理由なんて、言えない……。




「まぁ、今日は少し蒸し暑いから熱気にあてられたのかもしれないわね。大丈夫?」




 気遣って私の顔を覗き込むように窺う軒端荻は、私より若いだけあってどこかあどけない。



「えぇ……大丈夫よ。また碁を打ちにきたの?」



「そっ!でも、頭が痛いなら……」



「ほんの少しだから平気よ。」



「ほんと?嬉しい!この前負けたから、今度は私が勝つわよ~!」



 黒目がちな瞳を子どものように輝かせてはしゃぐのを見るとこちらも自然と口元が緩む。


 私は軒端荻のこういう屈託のなさにいつも救われているのよね……。


 暑さから着物の胸元をはだけて扇いだりしながら碁の勝負に熱中する仕草は少しがさつに見えるけれど、軒端荻は美しい顔立ちをしていて、通いたがる殿方も多い。


「ん~っと、そっちにきたらここ!」



 パチンと碁石の音が響く。



「……あら……?手詰まりだわ。参りました。」



「やったあっ!私の勝~ちっ!」




 軒端荻が飛び上がらんばかりに喜ぶ頃。辺りは夕暮れ時を迎えていた。


 二人で夕餉を済ませると、私の部屋で眠りたがるので一緒に休むことにした。


 はしゃぎ疲れたのか直ぐに眠りについた軒端荻の横顔を眺める。


 反対に私の目は冴えてしまっていた。


 月が……昇っていく……。


 心の内に澱んだ思いが滲む。



 源氏の君が私の身体を絡め取ったあの夜からずっと、天頂に月が届く時間になると身体が疼くようになってしまっていた……。



 自分の指先で身体を慰めるのは簡単だけど、そうはしなかった。



 思い出さないようにしても、自分で自分の体に触れないようにしても、あの悦楽の波は夜毎私の身体の中心に押し寄せて痺れさせる。



 ぶるぶるっと腰から背中、首筋までぬける痺れに身を震わせながら両肩をつかみしめて耐える。




 何もしていないのに息があがる。欲情しきった身体の奥から触れもしないのに蜜が溢れていた。



 この身体は壊れてしまったのよ……あの方のせいで……――。


 私はこの先も一生伊予介の妻


 いくらたぎる劣情に苛まれてもそれは変えられない。


 身分の低い私はあの方にいくら望まれたとしても側に上がることすら似つかわしくない。

 伊予介には今まで大切にしてくれた恩もある。


 私には何も……できない。


 つかみしめている肩に爪がめり込むほどに力を入れて耐えながら思いを巡らしていると



 カタン―――




 庭のどこからか閂の外れるような音が響く。


 かすかに衣擦れの音がして、蒸し暑い部屋の中に風が通る。


 戸惑う私の鼻孔をくすぐるのは、燃やした文と同じ薫りだった。



 ――──此処にいてはいけない……っ




 この場から去ろうとしたとき、着ている衣の裾が眠っている軒端荻の下になっているのに気づいた。


 衣擦れの音が近づいてくる。


 とっさに衣を脱ぎ捨てて、薄衣のまま木戸一枚隔てた次の間に身を隠した。



 衣擦れの音がすぐ近くで止まる。



 ――……っ軒端荻!




 さらさらと続けて響く衣擦れの音が眠っている軒端萩をそれと知らずまさぐる様子を物語っていた。



「……ん…………だれ…っ?――えっ!うそっ……源氏のっ……!!」



 目を覚まして驚く軒端荻を見て、源氏の君も驚いて息をのんだのがわかった。




「―――っ!…………罪な…ひとだ……。」




 その言葉は私に向けて呟いたものに違いなかった。



「……ずっと、貴女への思いを募らせていたのですよ。

 夕暮れ時に碁を楽しんでいるのを垣間見て、想いは一層強くなった……。」


 木戸の向こうから源氏の君は続ける。


 私にとも、軒端荻にともとれるような甘い言葉を紡ぐ。


「大きな声を上げて追い払いますか……?

 熱い想いを堪えきれずに此処まで来てしまった私を……。

 それとも」


 二人の衣の擦れあう音がする。



「………あっ」



「この滑らかな柔肌で受けとめてくれますか……?」



 聞こえるのも吐息から喘ぎ声、矯声へと変わる。


 ――──これはまるであの日の私。



 身体の中から溢れてくる蜜は太腿を伝って板の上に滴り落ちる。



 打ちつける弾けるような音が響きだすと、私は源氏の君の動きが自分の身体の中にあるように感じはじめていた。



「あぁっ……あっ……!んっ……っ」



「…………甘い痺れに、迷わず酔えばいいっ……貴女も」




 その声に絆され、掴みしめた両肩解放し、を禁じていた指先での慰めをゆるゆると自分の体に施すと

 隣で響く水の弾ける音と相まって奥から溢れる液は止めどなく、軒端荻の矯声にかき消されながらもかすかに声を響かせ果ててしまった。

 源氏の君も自分の熱を迸らせて息を切らしていた。




「っ……ぁ……源氏の君……っ……。」



「……すまない。汚してしまったね…。」


「……大丈夫ですわ……。」



「……貴女の答えもよく聞かぬうちに触れてしまった……私は堪え性のない男だ……私との関係が明るみに出ることを貴女は望んでいないのでしょう?」





 隠したいに決まっているでしょう!?



 軒端荻に話していることなのに私に言われているように思えてならなかった。



「……ぇえ……それはそうですわ……。」



「……では……今宵のことは二人だけの秘密にしましょう。いいですね……?」



 そう低く囁きながら部屋を後にする源氏の君は、私が身を隠す木戸の前で足を止め軒端荻には聞こえないように囁いた。




「……抜け殻だけ残して……私の心ごとどこにかにいってしまったのでしょうね……。空蝉うつせみは。」




 ―――まさか、気づいて……?!




 衣擦れの音が完全に聞こえなくなってから木戸から出ると、激しい情交の疲れからまたしっかりと寝息を立てはじめた軒端荻がいた。


 傍らにあるはずの私の衣が消え失せていた。


 『抜け殻だけ残して……私の心ごと何処かへ行ってしまったのでしょうね……。空蝉は。』




 源氏の君はそう言っていた……。





 あの方の心が何分の一でも私の元にある……。

 ただいたずらに情欲の矛先を向けていたのではなかったの……ね。



 軒端萩の満ち足りたような寝顔を見ると 自分の身替わりをさせてしまった事への罪悪感も少し薄れた。



 私の抜け殻だと言って衣を持って行ってしまった源氏の君は今何を思っているだろう……。


 そう考える余裕も出てくるほどに私は源氏の君から与えられたあの目眩く夜をやっと過去のことにすることができた。



 木戸の前で囁かれた僅かな言葉で私は源氏の君を許せるようになっている。

 淫らな行為に没頭してしまった自分のことも……。




『……空蝉』




 私をそう呼んだ魅力溢れるあの方との逢瀬を望むことはもうないけれど――――……。



 あの夜の出来事はこの上なく甘美で美しいあの方との過ち。



 この現世から儚くなるまで胸にしまっていよう。


 頭の中で繰り返し源氏の君の囁きを思い出しながら眠りにつく。




 目覚めれば私はもとの私……。


 きっと伊予介とも笑顔で向き合える。





 朝日がまぶしく部屋を照らすと、すっきりと目が覚めた。


 隣で眠っていた軒端荻は私の小さな罪悪感すらかき消す勢いではしゃいでいた。



「あのね!あのね!昨夜私っ……源氏の君と濃厚な……っ!」




 そこまで騒いで何が秘密……?



 と思ったところで本人も気づいたようだった。



「―――っ夜を……~過ごした夢!そう、夢を見たの……!!」




「ふふっ……そう……。素敵な夢ね。でも、あんまり言いふらすと欲求不満の娘だと思われるから秘密にしておいた方が良いわよ?」



 やんわりと釘を刺すと素直に納得して軒端荻は頷いた。




 庭の薄桃色の紫陽花が朝露に濡れ、どこか哀しげに咲いている。


 澄んだ空の蒼さが夏の訪れを知らせてくれた。















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