第7話 外伝~葵の上


 冬の凍える朝、誰も見向きもしない濁った池に分厚く氷が張っている。


 暁の光を受けている時間は驚くほど煌めくが、それも僅かなものだった。




 私にはあんな僅かな間の煌めきすら無いのだから濁った池以下ね。


 眺めながら自嘲した。


 私は自分が嫌い。


 大して美しい容姿でもなければ周囲に振りまく愛嬌もない。


 素直にものをみることができない。




 どんなにまぶしい笑顔を向けられても、きっとお愛想だと思ってしまう。


 心の内は早鐘を打つように浮き立っていても、目を背けてつまらない顔をして見せてしまう。



 あのひとに初めて逢った日も、そうだった。





 雪に閉ざされた屋敷の空気が、私に降ってわいた縁談話で急に色めき立った。


 左大臣家の娘に生まれていなければきっとなかった縁談なのだと思う。


 幼いころから手習いや箏の琴、薫き物に歌詠みなど一通りの教養は身につけてきた。



 父上はおなごの私に何か期待をする事はない。

 ただ、

『身分ある家の娘として恥ずかしくない立ち居振舞いを』

 と話される。

 笑顔を私にむけたことは一度もない。



 そんな厳格な父上の言葉はある種の呪縛になっていたのかもしれない。持ちかけられた縁談を断るという考えは欠片も起きなかった。



 相手は桐壺帝のご次男、血筋に問題は全くない。



 ただ……四つも、年下。



 源氏の君―――

 見目麗しく、好色だとの評判で貴賤を問わぬいろいろな女君との話は女房たちの注目の的。噂は嫌でも耳に入ってきた。



「私のような女はきっと好まれないに決まっているわ……。」









 庭にあるお気に入りの桜がやっと三分咲きになるころ源氏の君との婚礼の日になった。



 現れた源氏の君の美貌に列席者が皆息をのむのがわかった。




 なんて……綺麗なひと……



 澄んだ黒い瞳は大きく切れ長な双眸、鼻筋の通ったお顔、形よく結ばれた唇。




 光るように美しいあの方が……私の……




 思わず見とれていたら、目があった。



 にっこりと歯を見せて笑う源氏の君。


 思わず、目を背けた。

 なんて笑顔を向けるの!


鼓動が早い。顔が……熱い。

 赤くなるところなんてみられたくない……。





 そこからは婚礼の儀が終わるまで目を合わせないようにしていた。


 その夜、二人きりになってもまだ顔をみることが出来ずにいた。




「やっと婚儀が終わった……少し疲れたね 。」




「……そうですね。」


 そっぽを向いたままよそよそしく返事をする。




「固くならないで……ね……。これからずっと一緒に暮らそうというのだから。」




 肩に触れた両手は大きくて、四つも年下だということを忘れてしまいそうだった。




 後ろから近づき腰に手を回しながらそっと髪を撫でて、うなじに唇で触れてくる。




 こちらの心の準備も整わないうちに慣れた様子で触れるその手に、噂にあったたくさんの女君の影を感じて眉根をよせる。




 くるりと向き合わされ正面から顔を見つめられる。

 その艶めいた瞳に吸い込まれそうになる。



 源氏の君は私を抱きしめ耳元で名前を呼ぶ。


あおいうえ……。」




 吐息混じりの声に身体が震える。耳から血が全身に巡り、体温が上がる。




「顔が紅色に染まって……可愛いね……。」





 ―――可愛い……?ですって……!?


 四つも年下の男君に囁かれて頬を染めているなんて……っ!


 ……………あぁっ………嫌!



 身体の火照りとは裏腹に、源氏の君の胸を強く突き離した。





 驚いている源氏の君に言い放つ。



「っ……確かに婚儀は疲れましたわ……!私もう、休ませていただきます!」



 そのまま、呆気にとられたような顔をしていた源氏の君に背を向けて眠った風を装った。




 本当はさっき抱きしめられた時に感じたぬくもりのせいで、すぐ寝つけるわけもないのに……。



 でもなにより可愛いと言われたことが恥ずかしくて、いたたまれなかった。






 源氏の君は私が背を向けて眠ったのをみると溜め息をついて、そこからは触れてこようとはしなかった。







 翌朝も言葉を一つ二つ交わした程度だった。


 冷たく見送ってからも心中は後悔と意地が入り乱れたようになっていた。



 あのまま成り行きに任せてしまえば夫婦になれたかもしれないのに……。



 素直になれない自分が本当に無様だわ。



 実際、殿方に甘い吐息で囁かれるのも抱きしめられるのも、初めてだった。





 源氏の君はしばらく私のもとに訪れる様子は無かった。







 桜の花が今日の陽気でまた花開いて八分咲きになりそうだった。


 この桜の花のように暖かさに触れたら自然と開ける心だったらよかったのに――。


 便りの無いまま月の終わりを幾つ見送ったか。



 源氏の君は、たまに顔をみせるようになったけれど、夕方にそそくさとどこかに出掛けてしまうことも多い。



 きっと私のところへは源氏の君の友人でもある兄、頭の中将に嫌みを言われるから来ているに違いないわ……。



 そう思えてならなかった。







 顔を合わせれば、ぽつりぽつりと話す程度の仮初めの夫婦。


 婚儀から何年もそんなよそよそしいやりとりばかりが続いた。







 ある日、源氏の君が珍しく夕方に姿をみせた。


 何処かに行ってしまう様子もなく屋敷に留まっていることがただ嬉しかった。

 とはいえそれを口に出して言ったのでは嫌味になってしまう。


 筝の琴で優しい音色を奏でていれば落ち着いた心持ちで過ごしてくださるかしら。



 そう想いながら琴を弾いていると源氏の君は私の方を眺めながらゆったりとくつろいでいる。

 自然と音色が弾み、この穏やかで優しい時間を心地良いと思う。

 薄く微笑みをたたえて源氏の君は瞼を閉じていた。



 ふ、と気づいて琴を弾く手を止めた。




「……香を変えられましたの?

 ずっと使っていらしたのに……。」




 源氏の君は驚いた顔をして言った。




「かなり久しぶりに来たのに、前の私の香を覚えていたのか……。」



「よい薫りで……お似合いでしたもの。」



「あの香はね……亡き母上の愛用のものだったらしい。

 いつまでも母上を恋しがっているようで恥ずかしいからね。」


「そうでしたの……。

 私は、亡き母上さまを偲ぶことは少しも恥ずかしいこととはおもいません。

 元のに戻されてはいかが……?


 何よりあなたというひとにぴたりと合った薫りでしたわ。」



 不思議と今日は沢山話せる……。





「葵の上……。君がそんな風に話してくれたのは初めてだね……。

 私は君にずっと嫌われていると思っていたよ。」


 ―――それは……私が思っていたこと――



「美しくもなくて愛嬌もない私など……きっと嫌いに違いないと思っていましたの……。


 私からあなたを嫌うなんて……!」




 そんなこと、あるわけがないでしょう!




 言い終わらぬうちに強く抱きしめられた。


 素直になれなかったあの日から、待ち焦がれたぬくもり。


 左耳に源氏の君の唇がかすかに触れて、声を響かせた。



「嬉しいよ……葵の上……。」



 声の響きにあわせて背筋から快感の波が広がっていくように思わず吐息がもれる。



 快感に身を捩らせたのに気づいたのか、そのまま源氏の君が手際よく衣を脱がせていく。


 あの時は他の女君にもこうしているんだと知って嫌だった。それは嫉妬だったと今では理解できる。


 もう拒む理由も、張るような意地もない。



 じわりじわりと広がっては打ち寄せる快感にすっかり身を預けた。



「っ……葵の上……。」



 源氏の君の私の名を呼ぶ声がさらに艶っぽく響く。



 それだけで心の隙間が暖かい何かで埋められていく気がして、嬉しくて涙が滲んでくる。



 自分の夫にただ愛される……その幸せを、なぜ拒んでしまっていたのかしら……。



 部屋に黄昏時の優しく眩い光がさしこみ、二人分の吐息が輝く霧のように見える。


 触られる前から快感に打ち震え溢れさせていた。



「…綺麗だよ……葵の上……。

 私を待っていてくれたんだね。」


 覆い被さる体温が、触れる手の動きひとつひとつが優しくて 心地よくて 嬉しい。


 自然と目尻から涙が滲んで珠になる。

 

 気持ち良すぎて上擦っててしまっている私の声。

 優しく深くゆっくりと、愛しい人に穿たれるのを待ち望んでいた。



 痛みがともなったその感覚すら愛おしく、次第に甘く中心で沸き立つ快感にただひたすらしがみついた。



 足の爪先まで痺れるような快楽と幸福感。


 抱き上げるように貫かれ、体の一番奥で夫のほとばしりを感じながら果てた。





 この幸せを得たことで初めての子を授かった。



 授かってからなにやら夢見が悪くなったりするようになったけれど、悪阻つわりの酷いのを気遣って愛しいあのひとが来てくれるようになったことが嬉しかった。




 悪阻も落ち着いてきたころ気晴らしに賀茂祭に見物に出ることになった。




 牛車の場所の取りあいでこちら側が相手方の牛車を壊してしまったようで、胸が傷んだ。



 けれど、お腹の子のことを思うと反対に壊されなくてよかったとも思ってしまった。



 そのころから体調が優れない日が多くなり夢でうなされるようになった。



 目覚めると、いつもお腹を庇いながら滝のような汗をかいていている。



 あれはなんなのかしら………?



 白い顔に黒い髪が蛇のようにうねって朱い目がこちらを睨みつける夢……


 気味が悪いわ……。



 日ごとに夢は鮮明になる。



 夢の中で朱い目の誰かに追いかけられ、白く細い腕で首を締め上げられた。豊かな黒髪は一本一本がやはり蛇のように意思をもち白い腕と同じく私の首に巻きついて締め上げてくる。

 あまりの息苦しさに目を覚ました。




 汗をかいているのに自分の指先が凍りついたように冷えているのがわかる。



 まだ……首が痛いわ……。


 鏡を見て、息を呑んだ。


 首筋に赤黒い指の跡がくっきりと残っていた。





 




 お腹が激しくぎゅうっと締めつけられたような痛みが走る。




 陣痛―――!




 血の気の引いた指先を握りしめて声を振り絞った。




「……っだれかぁっ!───だれかきてぇ

 ぇ!!」




 そのまま三日三晩、緩んでは襲ってくる激しい痛みと戦った。





 最後の息みのすぐあとで元気な産声が聞こえた。

 


 私は意識を手放していた。





 目覚めると気遣わしげに覗きこむ

 夫の顔があった。



「あなた……来てくださったのね……。」



「ありがとう葵の上……。元気な男の子だよ……。」



 腕に抱かれた愛くるしい我が子、小さな頬に指先で触れる。


「ああ……あなたに似ているわ……可愛い子。名はもう決めているのよ……。」



 我が子の名前を告げようとした


 その瞬間―――



 途端に息子が泣き出した。



 抱いている夫の後ろから黒い墨が滲み出てくるような影が見えた。




 ―――夢に出てきたあの朱い目――!!



「葵の上……?どうした、顔色が真っ青だ」




 っ………息が…………っできない!!




「っ!……っ!―――」




 意識が遠のいたとき、苦しむ私を気遣って声をかける夫に朱い目のだれかが悲しい顔で語りかけるのが聞こえた。






『……の君……待っていたのに………こないなんて……。』






 朱い目の物の怪のような影が涙を流す。

 すると美しい女君の姿が重なって見えた。






「葵の上!しっかり!気を確かにもつんだ!」






 ……あぁ……美しいあなたも、待ち続けていたの……。




 私を必死に呼んでくれているこのひとに愛されたくて




 重苦しいほどの悲しみの感情が私を支配した。


 と同時に悲しい思い出が流れ込んでくる。



 賀茂祭見物の時にこちらが壊してしまった牛車の持ち主だったんだわ……。




『……ゆるせない……っ……この女だけは……っ!』




 また朱い目の物の怪の姿になって襲いかかってきた。






 ……わかったわ……あなたに私の命を差し上げます……。



 そのかわりに源氏の君と、この子にはもう何の怨みも向けないで……。






 最後の力を振り絞って目を開いた。



「ああ!葵の上!」


「あなた……私、っ……しあわせ……でした。

 この子を……夕霧ゆうぎりを……っおねがい……。」



 手を強く握りながら涙を流す源氏の君、泣いていた夕霧は少しずつ穏やかな寝息を立てはじめた。






 さようなら……。






 一筋の涙とともに目を閉じた。








 私の好きな桜の木になってあなたと夕霧を見守っているわ……。





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