京ちゃんは可愛くなくて可愛い

位月 傘

「おねーさんって要領悪いよね」


 丸付けを終わらせた答案用紙を手渡すと、目の前の男の子は受け取ったものをまじまじと見ながらそんな言葉を吐いた。

 彼は机の上に用紙を乗せて、頬杖を突きながら問題の一つを指でコツコツと音を出して指す。


「ここ、わざと間違えたのに丸にしてる」

「一問くらい見逃してくれたりしない?」

「しない。僕が自分でやるからいいって言ってるのに、せっかく頼まれたからこのくらいはやりたいって言ったのはそっちでしょ」

「ごめんなさい……」


 この手厳しい少年は私の従弟であり、私は彼の母親から家庭教師を頼まれたのでこんな状況になっている。どう考えても舐められているように見えるが、これも彼直々のご指名の結果なのだ。

 それがたとえ、彼が知らないひとにいちいち自分の勉強に干渉されるのが面倒という理由からであったとしても、叔母さんお駄賃を受け取っている以上何もせずぼけーっとしているわけにもいかない。


 高校受験の勉強なんてどのくらい自分で勉強するかなんだから、理解できていない部分が特にあるわけでもないのに人を雇うなんて金の無駄、とは彼の談である。実際彼、京ちゃんは元々地頭が良いタイプな上に努力家であるので私が出る幕はほぼない。


「というかなんで私を試すような真似を……?」

「あんた、普段はこんなミスしないのに、僕が採点の最中に話しかけるとこういうミスが増える気がしたから確認しただけ。分かってれば僕は話しかけなくなってあんたは間違えない。効率化のためだよ」

「先に口で言ってくれないかなぁ!?」

「どうせあんたはマルチタスクが苦手だって頭で理解してても、話しかけられたらちゃんと聞こうとするから言ったって意味ないでしょ。それなら僕が出来る範囲を把握しておいた方が管理が楽」

「管理って……」


 中学生らしくない澄ました顔で次の問題にとりかかろうとする彼に、ついため息がこぼれてしまいそうだった。別に私は馬鹿なわけではないと思う。馬鹿ではないというか、中学レベルの授業なら教えられる。

 だから教職希望の私としては、叔母さんの提案は願ったり叶ったりであったのだけれど、現実はそう上手くはいかないようだ。


「今まで京ちゃんの家庭教師を辞めていった人たちの気持ちが分かった気がする」

「前の人たちが辞めていったのは辞めてほしくてそういう態度してただけだから。僕だって必要だったら愛想くらい振りまくよ」

「えぇ……じゃあ私は?」


 私に対しての態度は、とても辞めてほしくない人へのものとは思えないのだけれど。

 そう伝えれば京ちゃんは珍しく年相応のあどけない表情で、そんなこと言われると思いもしなかったという風にきょとんと大きく見開いた瞳を瞬かせた。

 いつものように可愛くなくて可愛い反撃がすぐに飛んでくると思っていたものだから、想定外の反応に驚いたのはこちらも同じだった。

 しかし私が何かを言いかける前に、すぐにいつもの大人びた表情に戻って問題に向き合いだしてしまったようで、声をかけるタイミングを失ってしまう。

 あまりにさっぱりとした切り替えの早さに、先ほどまでの表情は見間違えだったのだと言われたらそのまま信じてしまいそうだった。元々何を言おうとしたのか自分でも分からなかったので、もしかしたらその切り替えの早さに助られたのかもしれない。


「……別に僕はあんたに厳しくした記憶ないけど。この程度で泣き言言わないでよ、大人でしょ」

「うーん、やっぱりきびしい……」

「大体、今更変に気を使いだしてもお互い気持ち悪いでしょ。分かったらさっさとこっちの答え合わせしておいて」

「はぁい……」

 

 またしても舌戦で負けてしまった。いや、彼からすれば負かすつもりもなく、あくまで事実を述べたつもりなのだろうけれど、気持ちとして。敗退した私はすごすごと受け取った用紙と向き合うことにした。

 まぁ、確かに、今更猫被られたら少し寂しいかもしれないし、そこまで本気で悲しんでいるわけでもない。年下のちょっと生意気な物言いなんて可愛いものだ。それが幼いころからそこそこ可愛がっている相手であればなおさら。

 


 



 

 最近、なんだか京ちゃんがよそよそしい気がする。よそよそしいというか、口数が少ないというか、遠慮しているというか。

 もしかして知らず知らずのうちに気に障るようなことを言ってしまったのだろうか。だけどいつもの京ちゃんなら、嫌なことを言われたらその場で言い返して来るのだけれど、何か苦言を呈された記憶はない。うんうんと頭を悩ませていると京ちゃんが怪訝な顔で私を覗き込んできた。


「何、体調でも悪いの?」

「や、そういう訳じゃないんだけど」

「……ふーん」


 ほら、いつもだったら健康管理がなってないとか、そんな状態でそもそも受験生の部屋に来るなとか言い出しそうなものだけれど、それだけ言うと視線はすぐに机に戻ってしまった。

 やっぱり変だ。でも口で指摘したところで、隠そうとしているなら正直に言ってくれはしないだろう。黙って京ちゃんの動向を見つめて、渡した解答用紙を机の端に置いたのを確認してから声をかけた。


「ごめん、そこの採点間違えてたかも」

「あ、そ。次から気を付けてよ」


 特に話しかけられたわけでもなく間違えたのだから、今までの彼なら何かきつい言葉で疑問の一つでも投げかけてきそうなものだが、そんなそぶり一つ見せずに机に向かい合い続けている。


「ごめんね京ちゃん」

「別に良いよそのくらい」

「そうじゃなくて、そこわざと間違えたの」

「……え?」


 まさか自分が騙されると思っていなかったのか、それとも相手が私だったからなのか、悲しみや怒りよりも純粋な疑問が表情に浮かんでいた。次第に瞳には後悔に似た深い色が浮かんで、耐えられなくなったように首をこてんと傾げた。


「なんで?まさかこの間の仕返し?」

「違う違う、そうじゃなくて、最近ちょっと様子が変だったから、私の勘違いじゃないか確認したくて」

 

 京ちゃんは何かを言おうとして口を開いたが、音もなく金魚のように小さくぱくぱくと繰り返したあと、やっぱり何も言わずに口を閉ざしてしまった。

 小さく首を傾げている上にある顔は、眉根をきゅっと寄せて顎に手を置き、怒っているとも集中しているとも見える表情で考え込んでしまったようだ。


「お、怒ってる……?」

「……怒ってない。僕からやっておいて、あんたの方からやられることを全く考えてなかった自分に呆れてるだけ」

「う……ごめん」

「だからいいって。それとも何、僕にも謝ってほしいの?」


 慌てて首を左右に振る。想定していたよりもずっと考え込ませてしまったことに、つい不安に駆られる。改めて考えると、これは少なからず信用してくれていた彼に対する裏切りだったんじゃないかとか、もっと他に良いやり方があったんじゃないかという気がしてくる。

 私はきっと彼より馬鹿だから、誰かの模倣しかできない。だけれどそれは非常に安易で無責任な行動だったのではないだろうか。


「はぁ?僕が気にしてないって言ってるのに、何でそんな変な顔になってるの」

「うぅ……ごめんね京ちゃん」


 困らせている自覚はあった。それでも、はいじゃあ気にしてないならそういうことで、とは流石に終わらせられないだろう。

 すっかり小さくなってしまった私は、おずおずと顔色を窺う。京ちゃんは自分の腕を数度擦ったあと、そっぽを向いていつもより小さく口を開いた。


「僕も騙してごめんなさい……。はい、これでこの話は終わり、いい?」

 

 開いた口に相応しい小さい声の謝罪は、普段の自信に満ちたそれではなく、不安や後悔といったものが滲んでいた。もしかしたらほんの少しの羞恥もあったのかもしれない。

 最後は念押しのように張った照れ隠しにも似た挑戦的な声は、私に否と言わせないためのものだった。


「京ちゃん、やっぱり最近へんだよ」

「はぁ!?あんた言うに事欠いてそれなの?……ひとりで気にしてた僕が馬鹿みたいじゃん」


 京ちゃんが謝罪をしているところを初めて見たものだから、他の考えなんて全部吹き飛んで、考えるよりも先に言葉が出てしまった。そういえば肝心のどうして様子が変だったのか聞けていなかった。


「気にしてたって、何を?」

「……おねーさんが、家庭教師辞めるって言うから」

「……そんなこと言ったっけ、え!?言ってないよね!?」

「文脈的に言ってた。だから僕、あんたが嫌になったのかと思ってあんまり喋らないように気をつけてたのに……まぁ、全部勘違いだったみたいだけど」

「優しくするじゃなくて、喋らないようにしてたの?」

「そんなことしたらあからさま過ぎるでしょ。それに今更あんたに気を使って話すなんて、僕の方も変な感じだし、変な感じになるって、分かってたのに、変に気を使って、変な態度ってすぐバレてるし」


 いつになく饒舌な彼の姿に目を丸くする。言い訳のような不満のような、あるいは私に対しての文句のような言葉に、ようやくいつもの態度が戻ってきたことを感じて思わず安堵の息がこぼれた。


「はぁ、もう……あんたと居ると、自分が馬鹿になった気分になる」


 京ちゃんはそこまで言って脱力したのか、珍しくだらしなく机に突っ伏して、重々しいため息を吐いた。

 思い出してみると、確かに自分の言葉はその態度のままじゃ自分もいつか辞めるぞ、という意味に取られても仕方なかったかもしれない。そこまで思い至って、ふと疑問と期待がよぎる。


「ねぇ京ちゃん」

「なに?勘違いして空回ってた僕に言いたいことでもあるの?」

「そんなに私に家庭教師やめてほしくなかったの?」


 数秒の沈黙。京ちゃんは何か言おうとして、細い吐息だけこぼした。伏せたままの顔から覗く頬は薄っすらと赤く色づいている。

 一方の私と言えば、この反応を見れば問の答えは一目瞭然で、浮かぶ笑みを抑えられなかった。これならばどんな皮肉やら悪口やらの鋭いナイフが飛んできたところで、それらは今の私にとっては然した威力にならないだろう。

 京ちゃんは顔を上げて頬杖をつく。目の前の相手がにやついていることにいら立ちを覚えているのか、それとも勘違いしていたことへの羞恥からか、予想通りのちょっと不機嫌そうな顔で、拗ねたような声音で、しかし予想外に彼の言葉に激しさは無かった。


「そうだよ。だから、最後までちゃんと面倒見てね、おねーさん」 

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