堕天

鹽夜亮

堕天

『本当に、彼は天使にみたいな子です。お母様、どうしたらこんなに優しい子が育つんですか?』

 笑み。柔らかな。校舎の窓から差し込む日に照らされながら、私の目に映るのは、二つの笑み。

『特別なことなんて何もしていませんよ。お褒めいただきありがとうございます。先生』

 ああ、あたたかい。それは誰かの腕の温もりだろうか。それとも、太陽の光の恵みだろうか。優しい微笑みが、柔らかな声が、ただ漂っている。私は…。


 目を覚ます。気だるい体を起こして、スマートフォンを眺める。正午は過ぎていた。本格的に夏を主張する、嫌がらせのような暑さが、覚醒しない脳を無理やり突き動かしていく。

「おはよ」

「おはよう。お昼は?」

 部屋を出て、居間へ降りる。本を読んでいた母がいつも通りに私を迎える。

「あー…いいや」

「夏バテ?最近食べてないじゃない」

「たぶんね。元々胃腸弱いし」

 受け答えをしながら、アイスコーヒーをコップに注ぐ。胃が空腹を訴える気配はない。煙草と灰皿と、コーヒーを持って玄関を出る。

 茹だるような暑さ、とはよく言ったものだ。今年は猛暑になるだろうか。度々最高気温の話題でニュースを騒がせる我が県は、今年も人間を快適に過ごさせる気はないらしい。煙草に火をつける。メンソールの刺激を含んだ煙が、肺へ滑り落ち、出て行く。

「うぐっ…おえっ…」

 いつからだろうか。煙草の本数が減ってきていることには気づいていた。減煙する気など毛頭ない私だが、その理由は単純だった。体が拒否している。胃が、肺が、煙を受け付けなくなってきている。だが今でも脳と心は、猛毒の煙を欲して止まない。反射的な吐き気をアイスコーヒーで飲み下す。……


「ねぇ!!!ねぇ!動かない!動かないの!!!」

 

 家の中から聞こえた声に、背筋を悪寒が走り抜ける。煙草を殴りつけるように消して、玄関の扉を開けた。

 目の前には座り込んだ母がいた。腕の中には、愛猫がいた。

「え…?」

「動かないの!!暑いから心配で、見に行ったら、ねぇ!動かないの!心臓止まってるの!!!嘘でしょ!!!ねぇ!」

 錯乱した声に従って見慣れた愛猫の体を見る。ピクリともしない。胸が、動いていない。

「…え…昨日、普通に…え…」

「ご飯も食べてた!階段だって元気に登ってた!!なんで!ねぇ!なんで!!!もうお昼だよ、起きてよ!ご飯だよ!!」

「………ぁ…」

 死んだ。死んだ。天使が、死んだ。ああ、天使が。私の、唯一、愛したものが。肉になった。…………


「ここに埋めてやろう。…俺が掘るから、お前はそばに居てやれ」

 茹だるような暑さの中。祖父がスコップを手に、私に言葉を話している。うん、とうなづいた。

 畑から家に戻る。居間では、母が愛猫を抱いている。

「少しね…柔らかくなったよ。寝てるみたい、だよ。抱いてあげて」

 掠れるような母の声を聞いた。私は導かれるように、愛猫の体を抱く。温かい。手足は、少し硬い。心臓は止まっている。涙が落ちていた。私のだった。表情が、動かない。ただ、涙だけが落ちていく。悲しいとは思わなかった。否、何も、思わなかった。ただ一つ、私より先に自由になったのだと、頭の隅で誰かが、話していた。ツン、と鼻に酸のような匂いがした。これが死臭か、と思った。

 …ただ、死臭か、と。


 愛猫の顔に、土を被せた。暑さは加速している。背中越しに母の泣く声が聞こえる。祖父は、母のいる前では決して涙を見せなかった。ただ、私が一緒に愛猫の墓を手入れする時だけ、少し目が赤かった。

 墓の前でぼうっとしている間も愛猫の匂いが鼻から離れなかった。それは日向ぼっこや後のお日様の匂いではなかった。好物の鰹節の匂いでもなかった。小魚の匂いでもなかった。酸味を帯びた、死臭だった。


 天使。天使。私は天使と呼ばれたことがあった。小さい頃、小学生の頃、担任の先生が私を『天使』だと称した。何故こんなに優しい子なのか、と先生は母に訊いた。私は、そんな二人の会話を無邪気に聞いていた。

 私は天使ではない。天使ではなくなってしまった。いつからだろうか。不登校になった日かもしれない。会社で鬱を患い、退職した日かもしれない。愛猫の亡骸を抱えながら、悲しみを感じなかった、今日かもしれない。…。

 死のうと思った。私の天使が家に来たのは、私が不登校になってすぐのことだった。それまでの私は、紛れもない天使だった。誰にも誇れる、そんな天使だった。そんな私が、崩壊し始めた時、本物の天使はやってきた。それからはずっと一緒だった。私は特段、常に愛猫と遊んでいたわけではない。世話だって母の方が余程していた。愛猫と遊ぶのは祖父が多かった。私はただ、同じ家に、愛猫が居るだけで良かった。それだけだった。それだけで、私は、誰よりも何よりも、ただ愛していた。

 私が天使を辞めて、地獄へ堕ちた後、愛猫はずっと一緒にいてくれた。ただそれだけだった。私は、こいつが死んだら死のうと、何度も思った。その時までは何とか生きてやろうと、何度も思った。その日が来ることを知りながら。ずっと、無邪気に。

 旧母家にある錆びた脇差が脳裏から離れなかった。目を瞑るたびに、愛猫の墓に寄り添いながら首に脇差を突き刺す自分の映像が浮かんだ。あれはまだ、人の首を刺し貫けるだろうか。そればかり考えていた。鼻腔では、愛猫の死臭が、一瞬として離れずに漂っていた。…

 カタン…。

 深夜。旧母家に私はいた。棚の奥に隠した桐箱を取り出した。スマートフォンのライトを当てて、中身を取り出す。血錆のようにも見える禍々しい錆に塗れた脇差が、私の手の上で厳かに待っている。しっかりとした重さが、私に安心感を与えた。庭の木にそれを振るう。簡単に、枝は断たれた。これなら大丈夫だろう、そう思った。

 煙草に一本火をつけて、愛猫の墓の前に胡座をかいた。夜はいくばくか涼しい。切れ味を考えると、頸動脈を掻き切るには心許なかった。正面から首へ突き刺せば何とかなるだろうか。それに、その方が死体も綺麗だろう。煙草が燃え尽きる。庭に咲いた桔梗の花を二つ、墓に添えた。ああ、やっと土に還れる。そう思った。しかも、唯一愛するものの隣へ。感情がなかった。悲しみも、絶望も希望も、喜びも。何もなかった。ただ、しっかり死なねばならないと思った。

 喉仏に触れる。骨は避けなければ貫通しないだろう。少し下のあたり、柔らかい場所を見つけ、そこに決めた。

 脇差を首へ突きつけ、顎を上げる。日本刀ではなくて良かった。脇差の方が、このやり方では死にやすい。………

 顎を上げると、自然に視線の先に月が見えた。朧げに光っている。美しいと思った。耳には虫の声が聞こえる。自然は、いつだって美しい。天使はおろか、人間にすらなれなかった私にも、いつだって優しく、美しい。

 躊躇はなかった。脇差は確かに私の狙い通りを捉えた。力を込めた。はずだった。

「…ぁ?」

 刺さらない。皮膚を貫かない。当たった場所に触れても、ただ少量の血が滲むだけだった。

「……ぐっ」

 何度目か。刺さらない。枝は落とせたはずなのに。先は尖っているはずなのに。力も込めているはずなのに。躊躇など、恐怖など、思い残すことなど、愛するものなどもうこの世にないはずなのに。

 手が、震えている。

「………ぅ…ぁ…う…くっ…そ…」

 手から脇差が落ちた。土の上、音も立てずに。自然と漏れた言葉に、涙が滲んでいることに気づいたのは後からだった。


 悲しい。寂しい。もっと一緒に。もっと、撫でてあげれば。美味しいご飯を。また一緒に寝て。大好き。愛している。死に際に寄り添っていたかった。まだ一緒にいたかった。煙草を吸い過ぎたらいつものように不満げに鳴いてほしかった。日向ぼっこした後のお日様の匂いを嗅いで、眠るのを邪魔するなと邪険にされたかった。眠れない夜にそっと部屋に入ってきて欲しかった。ゲームをする私の背をわがままで引っ掻いてほしかった。生きていてほしかった。生きていてほしかった。一緒に。


 にゃあ。………………。


 




 月は沈んだ。

 愛するもののいない、新しい朝がまたやって来る。

 桔梗は、今日もまた一つ、墓にふえた。

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堕天 鹽夜亮 @yuu1201

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