最終話
滝の落ちる轟音と木々のざわめきだけがそこにはあった。
「……」
彰比古は単衣姿で滝に打たれていた。決戦の折、曾祖母が地獄に堕ちぬよう、彼女が犯した数多の罪の一部を、彰比古は彼女の身を貫くと同時に引き受けていた。
今は重いそれを雪ぐため、一心不乱に滝に打たれているのだ。ちなみに、打たれ始めてもうぶっ通し一週間になろうとしている。並の人間ならとっくの昔に倒れているだろうが、彰比古はやり通している。
それを見守るのは三人。彼の従兄、彼の一族に仕える情報屋、そして。
「……」
紅妃は少し離れた岩盤の上に端座していた。そうして、滝に打たれる彰比古と同じ時間、待機している。
宗昌と時雨は時折顔を覗かせるため、不在の時間の方が長い。
「ずっと、ここに?」
いつの間にか隣に現れた時雨が足を放り出すようにして、紅妃の傍らに座り込む。
先の薊の一件について、紅妃は戦いを終えて屋敷に戻ってすぐ姿を見せた時雨に詰め寄ったが、時雨は意外なことに何も知らなかったそうだ。
政彦の祖母に育てられた時雨は、薊が嫁に来る前に屋敷を出て独り立ちしたため、彼女についてはあまり知らなかったという。しかし、彼女が政彦を身籠った際に顔を合わせたことはあったらしい。当時の当主と一緒の頃はとても優しい女だったという。だが、確かに夫に惚れ込み過ぎているきらいは当時からあったそうだ。政彦の父親は妖との戦いの末に亡くなっている。そのため、最愛の夫を喪ってから彼女は壊れていったのではないかと時雨は推測していた。時雨は政彦が天才術師だと噂になるまで、しばらく屋敷から離れていたため、肝心な部分を察知出来なかったのだ。
時雨は政彦の祖母に大層懐いていて、彼女が亡くなってからは、しばらく独りで過ごしていたことを政彦から聞かされていた紅妃は、あまり時雨を責めることは出来なかった。
それに、過ぎたこと、解決したことよりも、今は目の前の大事の方が紅妃にとっては重大であった。紅妃は彰比古に目を向けたまま、時雨の問いに応じた。
「――いつ倒れても、おかしくありませんから」
「でも、貴女はもう人なのよ? 式神の身と違って無理をしたら」
「霊力で保たせているので、まだ問題はありません」
「……」
時雨は献身的にも程がある新妻に小さく吐息をついた。
薊の一件で人間となった紅妃は彰比古の妻となった。ただ、求婚も何もかも戦いの中で為され、しかも戻ったらすぐ禊に入ってしまったため、祝言もまだ挙げられていない。
紅妃はただ待っていた。
夫が戻ってくる
「彰比古」
時雨が視線を逸らした刹那、紅妃が立ち上がって滝つぼに駆け寄っていく。時雨が驚いて視線を向ければ、滝つぼに立っていた彰比古の体躯がぐらりと傾いた。
駆け寄った紅妃が彰比古の身体を抱き留め、霊力で水気を吹き飛ばす。
「彰比古!」
紅妃の声に、彰比古は青白い顔で応じる。
「……心配かけた」
「いえ……無事に終えられて何よりです」
その時、ちょうど宗昌も姿を見せた。紅妃に支えられた彰比古を見て瞬きする。
「お前……終えたのか。禊」
「ああ」
「ったく今にも死にそうな顔して何言ってる。紅妃、重いだろう。それは俺が担いで行くから、紅妃と時雨殿は屋敷で床と湯の支度を」
「どさくさに紛れて人を荷物扱いするな」
彰比古の抗議を聞く者は生憎と誰もいない。何せ、自分の寿命を使って式神の受肉を行った直後に、衝撃のあまり即死してもおかしくはない量の邪気を体内に取り込んだのだ。このような無茶苦茶を相談なく実行するような人間の抗議が尊重される訳がない。
「わかっています」
「こんな時ですから、手伝いますわ」
女性二人が風を切るように先んじて下山していく。そして、満身創痍の彰比古を宗昌が担いでいくのだった。
***
冷え切った彰比古を湯殿に放り込み、出てきたところをそのままとっ捕まえて床に就かせると、彰比古は泥のように三日間眠った。その間も、紅妃は甲斐甲斐しく彰比古の世話を焼いていた。
爆睡四日目の朝、彰比古はようやく目を覚ました。
「……俺、どのくらい寝てた」
「三日です」
「そうか……」
枕元に端座する紅妃は普段の寝起きと変わらない彰比古の姿に溜息を吐く。そして、眦を吊り上げた。
「私に何か言うことは?」
彰比古はむくりと起き上がり、怒った紅妃の顔を見つめ、徐に手を伸ばした。紅妃は抱き寄せられても抵抗しなかった。されるがままに彰比古の腕の中に収まる。
「祝言を挙げよう」
彰比古がそう言った途端、紅妃は目の前の胸板に思い切り拳を叩き込んだ。彰比古が思い切り噎せるも、紅妃の怒りは収まらない。ついに、声を荒げて彰比古を詰り始めた。
「そうじゃないでしょう! 輪廻に到底戻すことの出来ない罪を肩代わりして! 無理な禊して死にかけて! 私を娶ると言っておきながら、あんなっ……あんな……!」
「紅妃」
腕の中で暴れる紅妃を彰比古は咳き込みながら、よしよしとあやす。
「言っただろう。お前と共に生きることが俺の生きる理由だと。お前が人間になって生きているというのに、置いて逝く訳がない。そんなに信用できないか、俺のこと」
「出来ません! 貴方も、政彦様も突拍子もないことを平気でするのです! どれだけ私が寿命の縮む思いをしてきたことか!」
「…………嬉しいな」
「はい⁉」
頓珍漢な台詞が返って来て、紅妃が顔を上げれば、彰比古は説教されている状態とは思えないほどに穏やかに笑っていた。
「お前がそうやって人と同じように感情を持って俺を案じてくれる。ずっと希ってきたことが、やっと現実になった」
そうやって心から嬉しそうに言うものだから、紅妃も怒りを収めざるを得なかった。
紅妃の様子が落ち着くと、彰比古は紅妃の額に自らのそれをくっつけて改めて告げる。
「祝言を挙げよう、紅妃」
言いたいことは山ほどある。
しかし、紅妃は悟る。これが惚れた弱みというやつなのだ。
彰比古の言葉に紅妃はとうとう折れ、説教を止めて同意するのだった。
***
祝言は盛大に執り行われた。一族に名を連ねる者はもちろんのこと、村人達まで呼んで大宴会となった。ただ、当の主役は主な儀式が終わると、ふらりと姿を消してしまった。紅妃は来客を放置する訳にはいかず、一先ずは相手をしていたが、流石に戻りが遅いと思い、その場を宗昌や使用人達に任せて彰比古を探しに出た。
美しい月夜だった。
どこから探そうかと考えながら正門をくぐると、夫は呆気なく見つかった。
のどかな道の真ん中に佇んで、月を見上げている。
「彰比古、一体何をしているのですか。主役の私達が揃っていなければ宴の意味が」
「なあ、紅妃」
紅妃が彰比古の隣に来ると、彰比古が口を開いた。
「ここからだからな」
「え?」
紅妃が発言の趣旨を捉えかねていると、彰比古が紅妃の方を見た。
「俺達はこれから始まるんだ。これを終わりだと思われては困る」
無機質な式神に求愛し続け、手段を選ばずその傍らに在り続け、そして自らの式神としてからは際限なく愛情を示した。激戦の中で式神を人間にし、今ようやく夫婦となった。
壮絶な結婚までの過程であったが、結婚は目的地ではない。むしろ、彰比古が願い続けてきた日々は今夜から始まるのである。
紅妃はきょとんとしていたが、ふっと微笑んで彰比古の腕に触れる。
「無論、承知しております。これからだということは」
彰比古に寄り添い、紅妃も同じように月夜を見上げた。そういえば、以前このような月夜の下、妖の血に塗れていたことがあった。穢れを全身に染み込ませて武闘を舞う紅姫を、彰比古はただ眺めていた。
あの頃は、いつもの執着だと一蹴していたが、今ではわかる。
あの時、彰比古は。
「美しかったよ。無数の妖を屠って舞う紅妃は」
「っ……何故」
紅妃の考えていることが分かったのか。
驚いて彰比古を見上げれば、彰比古は唇に弧を描いていた。月の光がその顔を半分だけ照らしている。そして、彰比古は飄々と言ってのけた。
「愛する妻の考えることくらい読める。……ただな」
戦うお前も美しいが、これからはもっと。
「平穏な日々の中で、愛でたいものだな」
多少の荒事は職業柄仕方ないこととして。
これから、もっと、ずっと。
「一緒にいよう。どんな時も」
彰比古が紅妃の髪を梳き、その手を下ろして肩に触れ、抱き寄せる。紅妃は目を伏せてそれを受け容れ、頷いた。
「はい。彰比古」
人の命は短く、儚い。
その、限られた
共に、歩んでいこう。
紅の殺戮人形と若様 土御門 響 @hibiku1017_scarlet
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