第27話

「主様……」


 いつの間にか、二人で暗闇の中にいた。


「なあ、紅姫」


 呆気にとられる紅姫の傍に、彼女と同じようにしゃがむ。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった美人の顔を自らの袖で拭いながら、彰比古は問うた。


「自分が何者か言ってみろ」


 紅姫は当然の問いに困惑したが、素直に応じる。


「式神に御座います」


 彰比古は紅姫の顔を拭き終えると、わざとらしく首を傾けた。


「そうか?」

「え……」


 紅姫の湿った頬に右手を添えて、彰比古は言ってのける。


「俺の知るは、こんなにではないが?」


 紅姫は目を見開いた。そして、彰比古は不敵に笑ってみせる。

 式神は物だ。生命のように動き、話すものの、生き物ではない。どこまでいっても造り物である。

 紅姫も最初はそうだった。機械的な人形であり、自我が目覚めたのは最近になってから。なんなら、このような心の動揺に合わせて肉体が苦痛に苛まれることは経験がない。

 このようなこと、式神では有り得ない。なら、自分は何だ。何になってしまったのだ。


「自覚したな」


 彰比古が紅姫を抱き寄せる。


「主様、何を」

「お前を受肉させる」

「今ですか!?」


 突拍子もないことをサラリと言われ、紅姫は動じた。しかし、彰比古は至極真面目であった。


「今やらねばお前は曾祖母の手に堕ち、終いには壊される。そんなのは御免だ。俺がどれだけ苦労して、お前の心を落とし、今こうして深層意識に潜り込んでいると思っている」


 式神の深層意識に潜るなんぞ、普通の術師がやれば自我が崩壊して即死ものの無茶だな。

 彰比古はどこか誇らしげに笑う。


「お前に惚れ、愛し、娶り、共に生きる。これが俺が決めた生き方であり、生きる理由だ。絶対に、喪ってなるものか」


 紅姫は何も言えなかった。これまでなら取り付く島もなく一蹴していた口説き文句。しかし、もう紅姫は落ちていた。彰比古という主であり、男に。

 紅姫は何も言わなかったが、その表情が雄弁に語っていた。


「お前の同意は得たな」


 彰比古が静かに霊力を爆発させる。激しい力の奔流が二人を覆い、一つにしていく。


「お前の胸に鼓動を生む。この瞬間を、どれだけ待ち望んできたことか」


 彰比古の苛烈な霊力の渦に包まれた紅姫は、その存在を大きく書き換えられていった。


 ***


 長いようで、一瞬のことであった。

 薊は己の傀儡が呪縛から逃れたことを察知し、触手を伸ばす。抱き合う二人を絡め取ろうと襲い掛かるも、二人から膨大な霊力が爆発して溢れ、触手が全て消滅させられる。


「この霊気! まさか」


 世の理を書き換える。並の術師では成しえないそれを平気で、平然とやってのける。我が子と同じ、大胆不敵で堂々たる様。曾孫の術師としての才覚が、目の前で発揮される。式神を人に。それは、霊力を分け与え、命を注ぐことで成せる理の改変であった。

 そして、最後に執行者が対象に人の名を与えれば、儀式は完遂となる。


紅妃あき!」

「はい! 彰比古!」


 霊力の中から、二人が飛び出してくる。

 見た目はそのままに。ただ、その在り方は先程までとは異なる。

 薊に飛びかかる二人は、その手に太刀を握っていた。彰比古は真剣。紅妃は霊力で生成した幻の剣。

 終わらせる。

 強い意志が、二本の刀身に輝きを生む。


「っ、屈してなるものか」


 薊は瘴気と触手の猛攻で二人が近づくことを阻む。だが、途轍もない勢いでそれらは打ち祓われていく。


「人は式神よりも能力が劣る! 何故これほどの」


 紅妃は太刀で瘴気を一掃しながら叫ぶ。


「彰比古に与えられた人としての命! 今燃やさずに、いつ燃やしましょうか!」


 人は式神に劣る。けれど、愛に燃える人の心に勝る式神は存在しない。


「今です、彰比古!」


 障害物を祓い、薊に続く道を造った紅妃が振り返ると、彰比古が突っ込んでいく。


「還って下さい、ひいおばあ様! 貴女の在るべき、人の彼岸へ!」


 その太刀筋を読んだ薊は瘴気を放って避けようとした。したが、出来なかった。

 自身に迫る曾孫の顔。それが、遠い昔の我が子のそれに重なる。


(――――政彦)


 刹那、彰比古の太刀が薊の胸を貫いた。


 ***


 ――――すべては。


 ――――――そう。


 ――――――――愛。


 我が子を想う母心。


 嗚呼。



 あの子に、会いたい。




「母上」



「っ……」


 気付けば、そこは川辺だった。


 背後から掛けられた言葉。

 振り返りたい。しかし。


「母上」


「……駄目」


 私は、もうお前と話せる身ではない。

 外道に堕ち、罪を犯した。息子の声に振り返るなんて、許されるはずがない。


「良いのです。母上」

「そうですよ。御義母様」


 我が孫が貴女の罪を肩代わりしました故。


「ならば、私は尚更向ける顔がない――!」

「母上」


 焦れたのか政彦が目の前に回ってきた。青年の姿をした長身な息子が、いささか怒った顔で見下ろしてくる。


「何も、無条件で許すとは言っておりません。彰比古が背負った罪だけでは、貴女は本来地獄に堕ちていました。輪廻に戻るためには、まだまだ贖罪が足りていません。手始めに、これからで、一族による説教です」


 そう一方的に告げると、政彦は薊の手を取って歩き始める。妻と一族のいる、彼岸の園へと。


「政彦……」

「私の母は貴女だけですから」


 薊は政彦に釣られて足を動かし始めながら、目を見開く。そして俯き、嗚咽と共に絞り出した。


「ありがとう……」

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