第26話

 腹を括った彰比古は、もう薊を見ていなかった。この者の対処は、後だ。

 真っ直ぐに、紅姫の元へ向かう。


「しかし、邪魔をされては敵わないからな」


 紅姫の細い腰を捉えると、紅姫も薊の「彰比古を捕らえろ」という命に従うべく、脇差を手にしたまま彰比古の腰に腕を回す。

 柔らかな肢体でありながら、造り物に過ぎない華奢な身体。彰比古が欲しいと希い続けた愛しい娘。


「紅姫」


 彰比古は笑っていた。


「やっと、お前を手に入れられる」


 紅姫の虚無に満ちた瞳が微かに揺れた。瞳の奥にある紅い光が僅かに強くなったようにすら見える。

 そうだ。紅姫も俺を望んでいる。

 彰比古は薊に上書きされてしまった契約の奥に眠る本来の紅姫が待っていると確信した。

 そして、彰比古は瞼を落とし、紅姫の後頭部に手を回して自らに引き寄せた。紅姫は意外にも抵抗しなかった。

 互いの唇が重なった刹那、彰比古の脳裏に激しい閃光が爆ぜて、紅姫の意識に自我を同調させ始めた。


 ***


 紅姫は花畑に佇んでいた。

 名もなき野花が咲き乱れる丘。白や薄桃色の可愛らしい花々が風に揺れている。足元が少しくすぐったい。何故か、裸足になっていた。


「ここは――――」


 思考が霞がかっている。纏まらない。しかし、前方に現れた男女に、紅姫は釘付けになった。

 若い男女だった。仲睦まじい様子から、恋仲か夫婦であろう。寄り添い合うようにして、原っぱをゆったりと歩いている。

 男は女の肩を抱き、女は嬉しそうに微笑んでいた。右手を腹の辺りに添えている。

 声が聞こえないくらいの距離があるはずであるが、何故か紅姫には男女の会話がはっきりと聞こえてきた。


「身体は大丈夫か?」

「はい。今は落ち着いております。ですから、そのような顔をなさらないで下さいませ」


 男は酷く不安そうであった。女は微笑んでいるものの、その顔色は芳しくない。青白い顔で、無理に笑っているようにも見えなくはない。


「私を安心させようと無理はするなよ。また寝込みでもしたら」

「旦那様。女が我が子を腹で育てるということは、常に命を削り、その力を子に分け与えているのです。……私は生まれつき虚弱です。他の女よりも身重に応えてしまって、旦那様にそのような顔をさせてしまっている。誠に、申し訳ございません」


 酷い悪阻で数ヶ月寝込んでいた女は、久し振りに外の空気を吸っていた。


「謝るな。私はお前以外の女を娶る気は更々ない。だから、そのように自分を責めるな。それに、責められるべきはお前を孕ませた私であろう」

「なんてことを。私は貴方の子を宿し、この上なく幸せでございます。責める必要なんて」

「では、今後はお互いそういうことは言いっこなしだな」

「……そうですね」


 男女は微笑み合う。腹の子を愛しみ、慈しむ父母の眼差しで。


「早く、会いたいな」

「そうですね」


 紅姫は途中から気付いていた。男女の正体を。


「……政彦様」


 愛する妻が存命であった頃の、昔日の光景。


「あの女性にょしょうが」


 自分の核となっている御方なのだ。

 複雑な感情が胸中を支配する。

 分かっていたし、重々承知していた。つもりだった。


「ですが……」


 紅姫は応えていた。

 子を産んで逝った愛妻を求め、寂しさと哀しみに耐え切れず、その愛しい容姿と性状を映した精巧な式神を生成した創造主。この目で見ることはないはずであったその実情を突き付けられ、紅姫の胸は酷く痛んだ。


「私は、やはり政彦様にとっては代わりだったのですね」


 奥方様の代わり。

 どれだけ紅姫を慈しみ、愛し、大切にしていると心から口にしていても、根本的なところは変えられない。

 妻を喪わなければ、政彦は紅姫を造ることはなかったのだ。

 紅姫の眦から涙が伝い、地に落ちた。すると、場面が切り替わった。

 今度はよく知った屋敷の中だった。今は紅姫の部屋とされているが、その床には政彦の奥方が横たわっている。その顔は蒼白で、呼吸も乱れていた。

 若き日の政彦がその腕に赤子を抱いている。生まれて数日程度の小さな子であった。生まれたばかりの雪乃である。

 そんな三人の様子を紅姫は部屋の隅から見ることになった。


「――」


 妻の名を政彦が呼ぶ。まるで、自分が呼ばれたかような特別な響きの言霊に、紅姫の胸は酷く痛んだ。自分が造り物であり、偽物であり、代替品に過ぎないことを突き付けられる。


「旦那、様」


 奥方が目を細める。

 彼女は数日前出産した。しかし、陣痛から出産まで丸二日もかかった。一日半は徐々に強くなっていく激痛をひたすら耐え、半日は僅かに残った体力を振り絞って無事に腹から我が子を出そうといきみ続けた。結果、彼女は出血多量に陥った。顔中の毛細血管が切れて顔面はむくみ、酷く傷ついた子宮が未だに酷い鈍痛を引き起こす。産婆の手を借りてどうにか後産を出し終えても膣からの出血が止まらなかったため、彼女は間もなく自分の命が尽きることを悟っていた。股から血が出るごとに、自分に残された時間も一緒に流れ出ていくのを彼女は感じていた。


「雪乃を、頼みます」


 逝くな。

 何度目か分からぬその言葉に、彼女は苦笑した。


「貴方に出会って、この子を孕んで」


 夫の腕の中で驚くほど大人しくしている物分かりの良い娘に指で触れる。


「嬉しかった……」


 死に迎えられるまで終わることのない苦痛に苛まれながらも、彼女は幸せそうだった。


「――!」


 また、政彦が奥方を呼ぶ。

 それを傍から眺めることになる紅姫は、ついにしゃがみ込んだ。


「私は、なに」


 見たくなかった。知りたくなかった。

 自分の存在意義。生まれた理由。造られた原因。

 夫婦の最期のやり取りを耳にしながら、紅姫は泣いた。


「私は――――!」


 紅姫の細い肩に、そっと手が置かれた。よく知ったその感触に、紅姫はパッと振り返る。


「政彦さ――」


 背後にいたのは、自分を造り、大切にしてくれた政彦ではなかった。


「すまない。辛い思いをさせた」


 その、孫であった。

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