第25話

「そう。私の言うことが聞けないの。でもね」


 薊の瞳に奇妙な光が浮かぶ。二人はまだそれに気づかない。


「彰比古。お前にとって、その娘は道具の域を超えてしまっている。それ故に」


 弱点となる。


 ***


 彰比古が俊足で薊に迫り、その首に太刀を叩き込もうと構える。だが、その刹那、至近距離で有毒な邪気を放たれて、撤退を強いられる。


「私が!」


 多少の邪気なら耐えられる紅姫が、素早く口元を布で覆いながら肉迫する。最小限の動きで、確実に急所を斬りにかかった。

 薊が薄く微笑む。紅姫の得物は、彰比古のそれと異なり、間合いが狭い。つまり、より接近戦に向いている。そして、紅姫は薊の至近距離に近付かなければ、攻撃が出来ない。


 しゃらり。


 薊に迫った紅姫の耳に、鈴の音のような響きが木霊した。


「っ……? 待っ!」


 紅姫の身体が大きく震えた。二振りの脇差がその手から滑り落ちる。


「紅姫⁉」


 異変に彰比古が駆けつけようものなら、薊が瘴気を放って近づくことを許さない。

 瘴気の中心から、悍ましい呪言が聞こえてくる。


「ひと、ふた、み、よ、いつ、む、なな、や、ここの、たり」


 数え唄だ。数字が刻まれる度に、しゃらりと鈴の音が舞う。瘴気の奥で、怪しげな光が見えた。

 それを認めた彰比古は息を詰まらせる。これ以上、唱えさせてはならない。


風刃ふうじん!」


 風の鉾で紅姫と薊を隠す瘴気を叩き割る。しかし、遅かった。

 瘴気が払われ、二人の姿が露になる。


 紅姫は、囚われていた。


 薊が操る無数の勾玉が、彼女の四肢を宙で拘束し、更にはそれらを核として周囲に不穏な光の陣が形成されている。この陣が何をするためのものか、彰比古は一目で悟った。


「やめろッ!」


 太刀を抜く。

 儀式を止めさせねば。


「ふるべ、ゆらゆらと、ふるべ」


 薊の艶やかな声音が紡ぐ呪歌。その性質は、御霊振り。


「雷神――ッ」


 俊足で彰比古が陣に迫る。太刀の刀身に雷が走るも、薊は嘲るように笑う。


「もう遅い! ももち、よろず――!」


 薊が拍手を打った。勾玉が一際強く光を放つ。


「紅姫ッ――――!」


 紅い光が視界を覆う。紅姫の赤。愛しい色が、呪歌によって塗り替えられていく。

 光の向こうから、呻き声のような苦悶に満ちた叫びが聞こえてきた。己の全てを書き換えられる。霊的な凌辱を拒絶し、懸命に抗うも、強力な呪力に成す術もなく蹂躙されていく屈辱的な絶叫だ。

 彰比古は無我夢中で太刀を振り下ろした。爆風と電撃が大地に迸り、光と呪力を吹き飛ばす。


「さて。あまり、この娘は好かないけれど……少々、仕置きが必要だろう? 彰比古」


 薊の余裕綽々とした声。


「さあ……最後の仕事よ。紅姫」


 爆風によって巻き起こった土埃が収まると、薊の傍らに立つ紅姫が見えた。その瞳は、本来の深紅ではなく、どろりとした黒に染まっていた。奥の方に赤い光が見えるのは、彼女の名残だと言わんばかりに。


「彰比古を捕らえ、私の元に捧げなさい」


 紅姫は薊の命令に淡々と応じた。


「――――はい。主様」


 紅姫が地を蹴り、彰比古に肉迫する。


「ッ! やめろ、紅姫!」


 二振りの脇差が顔面に迫り、彰比古は咄嗟に太刀で弾く。

 眼前に迫った紅姫の瞳。いつも彰比古を慕う色を覗かせているそれは、虚ろで、それでもなお正気を保っていた。そう。紅姫は正気なのだ。


「私は主様の命に従うまで。諦めて下さい。彰比古」


 式神の本質は従属だ。

 己の主に揺らぐことのない忠誠心を捧げるものである。

 それが例え、術によって無理矢理捻じ曲げられた契約によるものだとしても。


「ッ――――」


 彰比古は紅姫の猛攻をいなしながら、打開策を模索した。紅姫を傷つけたくはない。だが、薊が行使した御霊振りは、強力な術である。対象の魂に干渉し、その霊的性質を意のままに操る。

 現在の紅姫は、薊の術によって、契約主が改変されてしまっている状態であった。無論、紅姫が万全の状態ならば、ここまであっさりと御霊振りに歪められることはなかったであろう。

 しかし、紅姫は既に何度も薊の瘴気を浴びていた。式神が人間に比べて頑丈に出来ていたとしても、瘴気が無害という訳ではない。これまでの接近において、薊は紅姫に少しずつ瘴気を吸わせ、魂および彰比古との契約を乗っ取りやすく汚染していたのだ。

 そして、彰比古が薊の意に従わないようなら、彰比古から紅姫を奪い取り、薊に従うしか道はないと脅す。


「我がひいおばあ様ながら、外道な――ッ」


 彰比古はどうにか紅姫とやり合いながら、悠々と戦いを眺めている薊を睨みつける。

 薊はそんな曾孫に、愛らしい仕草で首を傾げた。妙齢の女性のなりをしているため、そのような振る舞いに違和感はない。


「おや。政彦から習ったろう? 清濁併せ吞むが術師の在りよう。どのような汚い手も、正当な手段として躊躇いなく実行する。私は、我が一族のやり方に則っているだけよ」

「違う! こんなものは、術師のやり方ではない! ましてや、人ですらない!」


 渾身の力で紅姫の身体を一度遠くに吹き飛ばし、彰比古は薊に霊符を投擲する。

 だが、それを察知した紅姫が薊の前に躍り出て、脇差を以て符を斬り捨てた。


「紅姫!」

「主様を傷つける者は、彰比古であろうと容赦しない」


 紅姫の淡々とした口調。


 彰比古は不意に、幼い頃の光景を思い出した。

 女中達が屋敷を行き交う足音。祖父が書を捲る音。その中で、唯一音もなく屋敷内を移動する紅姫。そんな紅姫の後を懸命に追いかけては、構って欲しいと強請った幼い自分。

 祖父に従う紅姫の後を追いかけて、幼いながらに好きだと求愛しては、子供扱いされて、袖にされてきた日々。だが、決して彼女に嫌われていた訳ではなく、主の孫として大切にしてもらっていた日常。

 祖父が依頼の帰りに市で買って来てくれた菓子を、紅姫と三人、縁側に並んで口にした午後。口の周りに餡を付けながら頬張っていると、紅姫が細い指で拭って、茶の入った湯呑を差し出してくれた。非番の時の紅姫は、母や姉を彷彿とさせる優しい笑みを浮かべてこちらを見ていた。

 家族への情を向けられていても、彰比古は焦がれた。どうしようもなく。祖父に至高の忠誠を捧げながらも、自分を愛してくれる紅姫のことを、ずっとずっと欲しかった。


 嗚呼、そうだ。

 この揺るぎない忠誠心。

 曲がることのない、主を想う性情。

 そして、彼女元来の優しさ。


 この式神の在りように、自分はずっと惹かれてきたのだ。


 そう思った刹那、彰比古の脳裏に閃光が走った。


「ッ……」


 途方もない。

 思い浮かんだ方法は、成功する可能性が著しく低い。

 だが、これはいつか自分の手でなそうと思ってきたこと。


 真に、紅姫を手に入れるためには、いつかは必ず踏まねばならぬ工程。


「今、なすべきか」


 失敗すれば、恐らく紅姫を永久に喪う。

 その危険性を背負い、行動するか。


「答えは応、だな」


 彰比古は太刀の構えを解いた。そして、刀身を鞘に納める。


「おや」


 薊が面白そうに笑った。

 紅姫は無言で、彰比古を見つめる。


「いいだろう。説教は、後でいくらでも聞くからな」


 彰比古は腹を括った。

 不敵な笑みを浮かべた術師は、愛しい式神を取り返すべく、再び地面を蹴った。

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