アルカニズム

夜明朝子

翠雨の魔術師

 魔女は殺せ、とそんな声が頭の中で反芻する。たらりと頬を伝う汗は、あのときの寒さを思い出させるようだった。

 勢いよく、カーテンを開けると、外は青空を見せるわけでも、水でぬらすわけでもない。グレーで塗られている。最悪の目覚めで、最悪の空模様だ。

「……ご飯、今用意するからもう少しだけ待ってて」

 火が消えて、灰だけが残る暖炉の前で丸まっていた狼は、一瞬目を覚ましてこちらを見たかと思うと、また眠りについてしまった。


 夢見心地のままに指を鳴らすと、家じゅうのランプが順番に火を灯していく。鈍い動作のまま寝台から起き上がり、近くから臙脂色の上着を取って身につけてキッチンへと向かった。

 かまどに火を灯すとそこには忘れたいような燃やしてしまいたいような記憶が浮かび上がってくる。

 今は天涯孤独の身であるが、かつて生きていた俺の母は、魔女だった。小さいころからカナリアのように透き通って美しい声で紡がれる魔術の数々を見て育った俺も、彼女の血筋であることは間違いないだろう。最後の魔女の子である俺は、最後の魔術師である。

 大きな力を持ち、其の気になれば世界征服など容易いものだったに違いない。しかしながら母はその才を人の不利益になることには決して使わなかった。自分にしかできないことを、といいながらその魔術は病気の治療のために使い続けた。

 村のはずれの、深い森の中にある小さなログハウスに住んでいた母の元に、ある時一人の男が来た。

 その男とは不治の病にかかってしまった、名もなき辺境の地にある小さな村の長、その三男であった。体に白い斑点が浮かびだし、毒として体をめぐる病だったらしい。母はそれを月晶病と名付けた。白い斑点は、まさに月の一部であるかのような石になり、死ぬ時には体全体が月と同じものになるからである。母と出会った当初の男は、高熱、気管支の炎症、激しい関節痛に見舞われ、人間として生きることすら許されないような状態だったらしい。

 村を追い出されたその男を母は救いかくまった。そしてその男は、後に俺の父となる人だった。母は、父を助けるうちに恋をし、父が亡くなるその日まで父のために己の知識と技術を最大限に使った。その症状を少しでも、少しでも軽くしようとし、治そうと死力を尽くしていたのである。

 父は、俺が生まれた後も病と闘いながら生き続け、俺がちょうど七歳の時にとうとう亡くなった。あの病にしては大層長生きだったが、母は助けられなかった自分が不甲斐ないとずっと泣いていた。

 母は、決しておとぎ話のような悪い魔女などではなかった。

 むしろ正しさを体現するような、美しく善き人であった。

 だが、小さき村は良くも、悪くも、人を見ている。監視しているのだ。

 父の死は、父が長の息子であったこともあってか瞬く間に広がった。しかしそれは、病死ではなく、毒殺として。自分たちが、病気の父を追いやったという罪を、母の罪としてすり替えようとしたのだ。

 忘れもしない十七年前のあの日、母と俺は、数多の楽しい思い出で埋め尽くされた我が家から無理矢理連れ出される。

 無常にも俺から母を引き離し、村の人々は母を広場へと連れ、その中心に建てられた頼りなさそうでしっかりとしている太い丸太に母を括り付ける。そして、「魔女は殺せ」とそう言い、そこに火をつけた。村の人々は、俺の目の前で、母を、殺した。

 火の海の中で、俺を見て目を細め、笑顔を見せた母の姿は、今でも鮮明に覚えている。そして、楽しそうに燃えてゆく魔女の姿を眺め、喝采をする人々の姿も。

 俺は、あの村を赦していないし、赦すつもりもない。

 今俺は、両親と過ごしたこの家で、母の使い魔であったヴィースタとともに暮らし、ひっそりと魔術の研究をしている。母が成し遂げようとしたその意思を成すためにあの病の治療法を探しているのだ。

 アルコールランプに火をつけ、鉱石をビーカーの蒸留水に落とす。沸騰石を入れるのは忘れずに、ゆっくりと水を温める。

 その傍らで獣の皮で覆われた大きな本の鍵を魔術でとき、あるページを求めて一枚一枚めくっていると、急にヴィースタが低いうなり声をあげて近づいた。

「どうしたの?」

 眉間にしわを寄せた彼は、こちらをじっと睨む。

 ヴィースタが俺に伝えたことは「誰かがこの家にきた」ということだった。元々彼が、魔術の使えるものとは自由に意思疎通ができることは知っている。しかし、彼と俺ははめったに会話をしない。俺に何らかの不利益がある時以外は、会話をしないのだ。それはすなわち……。

 雨風を防ぐことが精いっぱいの心もとない扉を凝視する。数十秒後に、俺の心とは対極にあるような、軽快なコンコンという音が鳴る。

 端的に言えば、出たくない。けれど、どうせ鍵は開いている。出ないという選択をしてもどのみち入ってこられてしまうことは目に見えている。今朝の夢は暗示だったのか。俺は、生唾を飲んで恐る恐るドアに近づいた。

 年季を感じるドアノブをひねる音が焦りを増幅させた。俺は、その戸を開けてなお、平然としていられるだろうか。

 ゆっくりと扉を押していくと、徐々に鈍色の空が目に入ると同時に、多くの目が映される。

「こんにちは、アルバート。元気にしていたか?」

 みすぼらしい服装を身にまとった群れの先頭に立つ老父には見覚えがある。俺の祖父でありながら、俺の母を殺した人間だ。

「何か、御用でも」

「元気そうで何よりだよ……」

 そうして、堂々と家の中に入ってこようとしたその人を、身を持って塞ぐ。

「要件なら此処でどうぞ。ゆっくり話すような仲でもないだろ」

「……今日は、お前に謝罪をしにきたんだ」

 そう言って、老父は頭を下げる。

「お前の両親については本当に済まないことをしたと思っている。すまなかった、この通りだ」

 今更何をいうのか、と衝動的にそう口にしそうになる。十七年間だ、十七年間一度も顔を見せず、実の孫を心配することもなかったのに何を今さらいうかと思えば、謝罪だって? ふざけているとしか思えない。

 ああ、だめだ、決してこいつらの前で平静を崩してはならない。こぶしを強く握り、必死に取り繕う。

「世間話をしに来たのなら帰ってください」

「ちがう、違うんだ。今日はお前に頼みたいことがあってきたんだ。どうしてもお前の力が必要なんだ。あの魔女の子であるお前の力が」

 ふと、全身から力が抜けるのを感じる。はてしないほど深くなっていく虚無感は一体何によるものか。パリン、と後ろでガラスがはじけて割れる音が聞こえた。

「村で、あの病が広がっている。君の父がかかっていたあの病だ。治療しようとした医者までもがその病にかかった。だが、どうやっても治療することができない」

「そうよ! あの疫病神だって、あんなに長生きする方法をあの魔女はしっていたわ!」

「あの日のことはもうしわけねぇと思っとる。頼む、たすけてくれんか」

 騒がしく耳障りだ。耳に入る侮辱と懇願は、ただ俺を僅かなる血縁で道具として用いようとしているに違いない。脳内を埋め尽くすは、果てしない憎悪と復讐の意思だけだった。思わず出てしまいそうな空笑いを抑えて、前を向きゆっくりと笑って見せた。

 そんな安っぽい謝罪で、俺を使おうだなんて何とおこがましいことだろうか。いいさ、そちらがその気ならこちらにもそれ相応の対応がある。

「方法ならあります。ですから、安心してください。そうですね……一週間後。一週間後、そちらに伺いますよ」

 そういうと、人々はたいそう喜んだ。我々は救われるのだと。

「ああ…! アルバート、ありがとう! 是非私たちのことを救ってくれ!」


 割れたビーカーの破片を片すために箒に術を施す。どうしようもない無気力感が唐突に襲ってくる。もうあの人たちはいないというのに、まだあの不快感の余韻があるのだ。

「危ないからあまりこちらに近寄らないで」

 ヴィースタは俺のそんな言葉を無視して、ガラスに囲まれている俺の足元へとやってきた。

「大丈夫だよ、心配しないで」

 悲しそうに鳴くヴィースタに近づいて優しく抱きしめる。

「大丈夫、大丈夫だよ。母さんの仇は俺がやる。許してなんかなるものか。あの村を、滅ぼしてやる。父さんも母さんも殺したあの村に当然の報いを受けさせるんだ」

 一週間後、一週間後だ。一週間後に「いく」とだけ言った。別に治してやるだなんて言ってない。だから俺は、俺の両親を殺したあの村を、この無限の可能性を秘めたこの力を持って滅ぼす。

 不名誉な死を遂げた母も、きっと救われるはずだ。


 ……本当にそうなのか?

 そんなことして何になる?

 いいや、迷うな、迷ったらだめだ。

 迷うな、迷うな、迷うな、やるんだ。

 父と母を殺したあの村を赦すな。

 そこに慈悲など必要ない。そんなものは捨てればいい。


 開け放たれたままのドア、その先に広がる草原に、その葉に、ぽたりと雫が落ちる様な音が聞こえたような気がした。


 ***


「大嵐の夜だね……」

 窓ガラスが、ガタガタと震えている。その先は乱れ狂う木々の葉と散乱する雨粒が見える。先ほどから暖炉の前に居るヴィースタは、ラグマットの上で丸まったまま動かない。

「……寒くない? 火、つけようか」

 読んでいた本を、サイドテーブルにおいて一人がけのソファから立ち上がる。

 作業台においてある、使われる予定のない薬瓶はランプの明かりによって鮮やかに照らされている。ああ、そうだ。明後日には、約束の一週間後を迎える。もう、計画の準備は整っている。そう思うと、無意識のうちに上がる口角を制御できないでいた。

 暖炉に火をつけ、ヴィースタに毛布を掛ける。すると、くあ、とあくびをしてヴィースタは目を閉じた。

「寒かったなら、言ってくれればよかったのに」

 呆然と、火花を散らしてゆらゆらと揺らめく炎を眺めていると、またも鍵を閉め忘れたことを思い出した。そうして扉の方に向かうと、なぜか雨音にかき消されそうなほど弱弱しいノックが聞こえてくる。

「誰かいるの?」

 扉に向かい、少し大きな声で呼びかけると、震える優しい声で「たすけて!」という言葉が返ってきた。

 ただごとではないと、そうして扉を開けた先に立っていたのは、雨具を身に着けず、綺麗なブロンドの髪を雨ざらしにして顔に張り付けながら、翡翠のような美しい眼を潤ませている少女であった。

 小さな体で身に余るほど嗚咽する彼女は、俺を見上げて言った。

「まほうつかいさん! おねがい、わたしのお母さんをたすけて! お金はたくさんあるの! だから、お母さんをたすけて!」

 背景曲として響く雨音の中を掻い潜っている声に気圧されて暫く何も言えないままでいたが、目の前の少女の姿を改めて目に留めて、はっとした。

「……このままだと、風邪をひいちゃうね。中にお入り。ホットミルクでも作るよ」

 勢いよく三回ほど彼女が頷いたのを確認して、俺は彼女を家に招いた。鼻をすすりながら、激しく目をこするものだから、思わずその手を止めてしまう。

「目は擦ったらだめだ、痛くなっちゃうよ」

 そういうと、また目にいっぱいの水を浮かべ泣きだしてしまった。

 こんな夜更けにしかも一人でこの嵐の森を歩いてきたのだろう。泣いてしまうのも無理はないと思う。先ほどまで丸まったままだったヴィースタが、自分にかかっていた毛布を口にくわえて引きずりながら持ってくる。

「くれるの……?」

 目を赤く腫らしながらそう尋ねた少女に、ヴィースタは一度頷いて差し出した。

「ありがとう、オオカミさん」

「髪を乾かさないと、それにとても寒いよね。暖炉の前で温まっているといいよ。そうだ、君の名前は?」

「……ミッシェル」

「そう、ミッシェル。俺はアルバートだよ。こっちはヴィースタ。よろしくね」

「うん……アルさん、よろしく」

 暖炉の前に椅子を用意して、そこにミッシェルを座らせる。ヴィースタは彼女のことがたいそう気に入ったようで、彼女の座る椅子の周りを二、三周したあと、彼女の足元に座り込んだ。


 砂糖とバターをたくさん使って作ったホットミルクを彼女に差し出すと、嬉しそうに目を輝かせる。

「……おいしいね。アルさん、ありがとう」

「どういたしまして」

 ミッシェルとヴィースタを横目に、俺は作業台の近くの椅子に腰を掛けた。

「あったかいねぇ。アルさんも、オオカミさんも。お母さんみたいだなーっておもう」

 すると、ミッシェルはまた眉を下げた。知らない人、しかも未知の術を使う大人の元に一人で来たんだ。どれだけ怖いことだったかなんて計り知れない。でも、それほどまでに彼女にとっての母親は、大切な存在だということだ。

「……ねえ、どうしてお母さんを助けてほしいの?」

「アルさんなら、お母さんのビョーキをなおせるって、みんながいってたから」

「確かに、そうだけど」

 ドクリ、と心臓が波打った。

「で、でもな。俺、明後日に村に行く約束をしてて。なのに、どうして今日のこんな嵐の夜に来たのかな」

「それじゃあ、お母さん、しんじゃうんだ」

 そういうと、マグカップを思いきり傾けてホットミルクを一気に流し込んだ。口の周りに付いたミルクを舌で綺麗になめとり、その後、椅子からゆっくりと降りて、俺の方に歩いてきた。

「あのね、アルさんにね、きいてほしいの。お母さんのビョーキのこと」

「いいよ、いってごらん?」

「お母さんのビョーキは、ビョーキになってからちょうど二十八日後にしんじゃうビョーキなんだって。そうおいしゃさんがいってたの。みんな、みんなビョーキの人は二十八日後にしんじゃった」

「にじゅう、はちにち?」

「……それでね、あしたでお母さんがビョーキになってから二十八日になっちゃうの。あさってじゃまにあわないの」

 父は、病気になってから少なくとも七年以上は生きている。ああ、本当に情けないな。こんなことで、母の偉大さを実感するなんて。

「アルさん……?」

「ううん、何でもないよ」

 俺は、どうすればいい?

 彼女の願いを叶えれば、俺の計画は破綻する。少なくとも全員を殺すということは不可能になる。だからといって、目の前にいる少女を蔑ろには、できない。

 あの日の俺と同じくらいに小さい少女。あの時には生まれてすらいないほどの幼い子供。

 頭の中がぐるぐると回転する。もう、どうすればいいのかわからない。

「……ねえ、ミッシェル。お母さんの病気が治ったら、何がしたい?」

「えっとね、たくさんおはなしして、いっしょに木のみをとったりして、おりょうりしたり、おでかけしたり、いっぱいたのしいことがしたいな」

「それは、とても楽しそうだね」

「ねえ、アルさん。……できる、かなあ」

 ミッシェルは胸元で指を組みながら、またその翡翠の眼に涙を浮かべる。優しさで満ち、純真無垢な彼女を見ていると、だんだんと胸元にあり続けていた靄が無くなっていくのを感じる。


「できるよ、きっとできる」


 自分でも驚くほど迷いのない穏やかな声が口から飛び出した。

「絶対助けるよ。約束する」

 まだ少し湿っている彼女の頭を優しく撫でる。くすぐったそうに身をよじる姿がとても可愛らしい。正直に言って、本当は治る保証がない。なぜならば、この薬は理論上完成していたとしても、誰かに使い実際に治療したわけではないからだ。

 だとしても、必ず助けたいのだという思いがこみ上げてくる。

「ミッシェル、少しだけ待っていてね」

「うん……!」

 未だ作業台で様々に並んでいる薬瓶のうち、濁りのない、透き通った瓶を手に取り、その他の作業道具と共に乱雑に大きな肩掛け鞄の中に入れる。これさえあれば、たぶん大丈夫だ。ヴィースタもゆっくりとこちらに近づいたかと思えば、扉の前に居座る。

「オオカミさんも、来てくれるの?」

「……君を守ってくれるってさ」

 そういうと、ミッシェルは太陽のように輝かしい笑顔を見せた。

「アルさんは、オオカミさんとおはなしできるんだね!」

 無邪気な彼女を見ていると、同時に自分が惨めになっていく。でも、今はただ誰かのために何かを成せるということがうれしくて仕方がない。

「それじゃあいこうか、君のお母さんのところに」

「うん!」

 彼女に手を差し伸べると、ミッシェルはか弱いその手で握り返してくれた。

「君にいいものを見せてあげる」

「ほんと! なにを見せてくれるの?」

「少し静かにしててね」

 繋がれていない方の手でそっと彼女に手をかざす。


 ──×××××。


「わあ……! とってもきれい!」

 彼女を包む淡い光は、奇跡ではなく、歴史によって積み重ねられた知恵の産物だ。これは、あくまでも魔術だから。

「かみのけもぬれてないね!」

「どう? たのしい?」

「うん! ミッシェルね、こういうのはじめて!」

「それだけじゃないよ、ほら、外に出てみようか」

 そう言って彼女の手を引き、古い木製の扉を開き、外に出る。

「すごい……! かぜも雨も、ミッシェルをよけてる!」

「さあ、君のお母さんの元に行こう。早く直さないとね」

「うん! 早くいこう! アルさん!」


 彼女に案内されて辿りついた村は、あの頃と何も変わっていなかった。家々に灯る明かりもなく、皆この夜は暗く静かに暮らしているようだった。もしかすると、住んでいる人間がいないせいかもしれないが。

 小さなミッシェルの歩幅に合わせてゆっくりとあるいていると、妙に感傷的な気持ちになっていく。

「ここがね、ミッシェルたちのおうち」

「……お邪魔するね」

 促されるがまま、ヴィースタと共に彼女たちの家に入ると、ものが散らばり、とても人が住んでいるような家には感じられなかった。汚れた皿はテーブルの上に雑に重ねられ、衣服はそこら中に広がっている。

 この光景も、至極当然のことだろう。小さな女の子が一人で家事などできるはずがない。俺だって、一人取り残された時には、何もできなくて大変な思いをした。こんな状態であるのだ。彼女の母親はきっとほとんど寝たきりで、起きるのもままならない状態だろう。

 薄い布切れ一枚に覆われる寝台に、呼吸を荒くしながら寝ている女性が、おそらくミッシェルの母親だ。見える肌のいたるところに白い斑点が出来ており、この病の末期症状であることが見て取れる。

「お母さん、お母さん。アルさんがね、来てくれたの。お母さんのビョーキ、なおしてくれるんだ」

 彼女の声に呼応して、女性は薄っすらと目を開ける。

「ミ、シェル」

「お母さん! お母さん!」

 ミッシェルは必死に呼びかけるが、女性はもう返事する元気すらないようだった。

「ミッシェル、そこの水がめからコップ一杯の水を汲んできてくれないかな」

「うん。すぐにもってくるよ!」

 少し不安そうな足取りで、パタパタと走っていく。その間に俺も、準備をしよう。

 鞄から薬瓶とピペットを取り出して、薬瓶の蓋をあけ、薬液を少量吸い上げる。ターコイズブルーの液体が、ガラスの中を伝っていった。

「アルさん、お水、どうぞ」

「ありがとう」

 コップを彼女から受け取り、揺らめく水面を見つめる。

 大丈夫だ、大丈夫。ミッシェルの母も、ミッシェルも助けられる。俺なら、俺だけが、俺が、助けるしかない。

 そう強く念じて、俺はコップの水に薬液を一滴だけ垂らした。

 うっすらとその色が広がっていったのが確認できた。時間が進むたびに緊張が広がる。左手にコップを持ったまま、右手で鞄より薬匙を探した。指先の震えを感じながらも慎重に探して取り出した。

 ゆっくりとその水を匙でかき混ぜると、うっすらと水色の液体が出来上がった。

「……少し、体を起こさせてもらいますね」

 女性の背に手を伸ばし、肩を抱いてゆっくりと体を起こす。

「お母さん……」

 かなり病状が悪化していて、辛いだろうに、ミッシェルの声に反応しては、目を開け、閉じてを繰り返した。

「どうか、この薬を飲んでいただけませんか」

「お母さん、おくすりのんで……」

 意識が遠いまま、女性は少しだけ口を開けた。そして、ゆっくりと少量ずつその薬を流し込む。


 すべて飲ませて、女性を寝かせると、ミッシェルは母の手をとり、不安そうに口をギュッと噤んだ。

「ミッシェル、君も少し休んだ方がいいよ」

 きっと疲れているだろうし。そう思ったのだが、髪を左右に揺らして、いい、といった。

「お母さんを見まもるの」

「そ、っか」

 彼女の言葉に嘘はないだろうが、夜に一人であんな村はずれの森の家にやってきたのだ。疲れていないわけがない。強い語調とは裏腹に瞼はゆっくりと落ちかかっていた。

 ヴィースタは、また彼女に寄り添い、ともに眠っていた。

 その光景が、楽しかった昔の思い出のようで、涙が出てしまいそうになった。


 彼女たちの代わりに家の片づけをしながら、色々なことを考えた。これからどうしようか、薬は効くだろうか、彼女を助けてあげられるだろうか、母はどうして父を愛していたのか、死ぬ間際に母は俺に何をつたえようとしていたのか。

 でも、どうやってもまとまらなくて、考えるのをやめてしまった。しかしながら、ただ一つだけ確かな意思がそこにはあった。その意思を頼りにして、鞄から羊皮紙とインク、ペンを取り出し、片したテーブルに向かった。


 朝日が差し込んできたころには、もう雨はやんでいて、昨日までの嵐が嘘のような空模様だった。

 結局一睡もできないままの体を強引に動かして、寝台に向かうと、女性は毒気が完全に抜けたのか白い斑点が無くなり、未だ青白くはあるがまっさらな肌になっていた。

「よかった……」

 そう、これでよかった。よかったはずなんだ、間違ってなんかいない。

「……ねえ、ヴィースタ。帰ろっか。せっかくだし二人にしてあげよう」

 ヴィースタは、ゆっくりと起き上がり、のっそりとこちらにやってきた。心配そうにミッシェルを見つめている。

「……どうかお元気で」

 まぶしい東の光を浴びながら、俺は外に出た。そしてその家を離れ、森へ帰ろうとしたとき、「まって!」と呼び止められた。

「アルさん! これ、ちりょうひなの。あげる」

 そう言って彼女が俺に差し出してきたのは、結構な額の金貨の袋であった。金の価値を俺はあまり理解できていないが、これがあれば、たぶん三か月は平気で暮らせるほどの財産だ。

「いらないよ。これは、君がお母さんとたくさん楽しいことをするのにつかうんだ」

「でも……!」

「いいから、ね? その代わりに君にお願いしたいことがあるんだけど、いいかな」

 そういうと、ミッシェルは少し悩む素振りを見せたが、すぐに力強く頷いてくれた。

 俺は、鞄からあの羊皮紙と月の石の入ったターコイズブルーの薬液を彼女に差し出した。

「これはね、病気を治す薬とその薬について書かれた紙なんだ。だから、これをね、この村の村長さんに渡してほしい。くれぐれも、大切にってね」

「うん! ちゃんとわたしてつたえるよ!」

 彼女は金貨の袋を服のポケットにはみ出した状態でしまい、薬瓶と紙を手に取った。

「もう一つ、お願いがあるから、よく聞いて欲しい」

 彼女の視線に合うようにその場にしゃがむと、少し驚いたように目を見開いて瞬きをしている。

「なあに?」

「村のみんなに二度とあの森に近づかないように言ってほしいんだ。……もちろん、ミッシェルももう来ちゃだめだよ」

「えっ……!」

 彼女はか細い声でそうつぶやく。ごめんね、でもまだ忘れられないでいるんだよ。

 ミッシェルは、少しうつむいて考えこんでいたようだったが、ゆっくり首を縦に振って宝石のような瞳で見つめてきた。

「うん……ヤクソクするよ!」

 その意思を示すかのように、満面の笑みを彼女は浮かべた。それならもう、大丈夫だ。

「それじゃあね。さようなら、ミッシェル」

「うん! アルさん、オオカミさん、ほんとうにありがとう! おげんきで!」

 彼女に手を振りながらこの村から遠ざかっていく。ふと振り返ると、小さな体を使って大きく手を振っていてくれた。

「どうか君の人生に幸がありますように……」

 密かにそう祈って、俺は、草地へと足を踏み出した。


 ***

 

 家に着くなり、「お前は、それでよかったのか」とヴィースタがそう聞いた。

「今でも許すつもりはないよ。でもさ、人殺しはあの人たちと同じだし、ましてや無実の子どもを傷つけるなんて、とてもじゃないけどできないよ」

 結局何もできない自分に嫌気が差す。思わず自嘲してしまうほどに俺は滑稽だ。

「……なに、どうしたの」

 足元に座り込んで俺を見上げるその狼は、「お前の母が、最後にお前に言った言葉を覚えているか」と聞く。いいや、覚えてないよ。思い出せるのは、火の海で優しく目を細めてじっとこちらを見ていた母の姿だけだ。

「……ちがう、本当は覚えている」

 どうして忘れていたのか、どうしてその記憶に蓋をしてしまっていたのか。

「〝お前の正義を果たしなさい〟っていったんだ」

 ずっとそういわれて育ってきた。生まれ持った強さは、自分のためではなく誰かのために使えと、自分の思う正義に従って使えとそう言われてきた。

 ヴィースタは、満足そうに眼を伏せて、「何があっても支えてやる」とそう言ってくれた。

「ありがとう」


 この世界で最後の魔術師として、自分の正義を果たすために、やらなければならないことはきっと山のようにたくさんある。でも、自分の力にある無限の可能性を誰かのために使えたのならそれ以上に幸福なことはきっとない。

「ねえ、ヴィースタ。この家を捨てて旅に出よう。同じ病気で困っている人が世界にはいるかもしれないからさ」

 そのころにはもう、俺は、自分が死んだその時に胸を張って両親にあえるような生き方をしたい、とそう思えるようになっていた。


 窓の外では、昨日降り注いだ雨粒に濡れる葉が露を滴らせながら静かにそよぐばかりである。

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アルカニズム 夜明朝子 @yoake-1201

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