美味

 他人の家に行くのなんて、いつぶりだろう。明らかに周囲の住宅よりも大きな三階建ての一軒家を見上げながら、私は溜息混じりに考えた。まさか平野が金持ちのお嬢様だったとは。いよいよ、弱点があるのか怪しくなってきたな。オートロックすらないマンションの一室に両親と三人で住んでいる私とは、文字通り住んでいる世界が違うのではなかろうか。

 躊躇していても仕方がないので、意を決してインターホンのボタンを押してみる。即座に平野が応答し、それから足音と共に扉の鍵を開ける音が聞こえてきた。

「いらっしゃい、間田さん。どうぞ、上がって」

「お邪魔します」

 形だけの挨拶をして、遠慮なく家に上がらせてもらう。玄関で靴を脱いでいると、どこからか漂ってきたアロマのような香りが鼻をくすぐった。他人の家、という感じだ。招かれた立場とはいえ、少し落ち着かない。

「洗面所はそこだから、手を洗ったら向こうのキッチンに来て。ああ、そうそう。トイレは洗面所の脇にあるそこの扉ね。慌てなくても良いから、手洗い消毒だけは入念に」

「……了解」

 外から見る以上に広い平野家に内心ビビりつつ、私は指示された通りに洗面所で手を洗い、キッチンへと向かう。流し場の周りには、既にケーキの材料らしき食材や調理道具が並んでいた。あまりお菓子作りの知識はないが、ケーキという料理は作るのに随分と手間がかかるのだと聞いた記憶がある。それだけ手間をかけるのだから、さぞかし美味しいのだろう。私には関係のない話だが。

「それじゃ、早速作りましょうか。と言っても、レアチーズケーキって意外に手軽なケーキだから、そこまで難しい作業はないし、気楽にやりましょう」

「気楽ねぇ……」

 平野に差し出されたエプロンを受け取り、身につける。学校の調理実習を除けば、滅多にしない格好だ。普段からエプロンを使っているのだろう平野はエプロン姿が様になっているが、どうも私は不格好な気がしてならない。とはいえ、気にしてもいられないだろう。私はしょせん補助だ。エプロンなど、汚れを防げさえすればそれで良い。……借り物のエプロンを汚すのも、それはそれで気が引けるな。

 そんなこんなで、平野のレアチーズケーキ作りは始まった。私に与えられた最初の指示は、ビスケット生地を文字通り袋叩きにすることである。なるほど、確かに難しくはない。粉々になるまで砕いてくれとの指示なので、袋に入れられたビスケットを貸してもらった麺棒で執拗なほど叩き続けた。菓子作りは、私が思っていたより暴力的な作業らしい。平野の方に目を向けると、あっちは何か白い固体混じりの液体を泡立て器でかき混ぜている。転がっている空き容器を見るに、チーズとヨーグルトだろうか。

「平野って、いつもこういうことしてるのか?」

「休みの日で、外出の予定がないときは、大体そうかな。別にお菓子ばっかり作ってるわけじゃないよ。こう見えて健康志向なの。筋トレも三日に一回やってるしね」

「へぇ……じゃあ、もしかして例の隠し味もそういうもの?」

「さて、どうでしょう。まあ、私の健康志向は確かに関係してるかな。おっと、ビスケットは細かくなった? じゃあ次はケーキ型、これにラップを使って押し込んで。平らにね」

 隠し味について質問したら、まくしたてるように指示された。しかし、逆らう理由もないので素直に従う。どうやら、砕いたビスケットはケーキの土台にするらしい。タルトのような感じだろうか。とことん食に関しては無頓着なので、実際に料理を作ってみると知らないことばかりだ。

「良いなぁ、ここまでする価値があるなんて」

 羨望か、それとも嫉妬か。私の口から漏れた呟きに、平野は気づいていないようだった。

 それからしばらく調理を続け、ようやくケーキらしい形が出来上がった頃。あとは冷やすだけだからと、平野は手伝いの完了を私に告げた。

「……隠し味、いま使ってた?」

「ううん、使ってないよ。隠し味が入ってるのは、ソースの方だからね」

「話が違うぞ。私は隠し味の正体を教えてくれるって言うからわざわざ……」

「別にレアチーズケーキで同じ隠し味を使うとは言ってなかったでしょ。大丈夫、手伝ってもらったんだからちゃんと教えるよ。あ、ちなみにケーキを冷やす時間は三時間ね」

「三時間!? 平野お前、完成したら一緒に食べようとか言ってたくせに、三時間かかる調理を手伝わせたのか……」

 まあ、私は別にケーキが欲しくて手伝ったわけではないのだが。それよりも今は隠し味だ。昨日もそればっかりが気になってなかなか眠れなかった。ほかとは違う、不思議な味。それさえ分かれば、私は「美味しい」という感覚を得ることが出来るかもしれないのだ。

「それで、クッキーの隠し味って結局……」

「間田さん、お腹空いてない?」

「へ?」

 発言を遮るようなタイミングで妙な質門をされ、思わず間抜けな声が漏れてしまう。

「一応、家出る前に昼食べたから、そんなに空腹じゃないけど」

「お昼って、いつものゼリー?」

「……よく見てるね。いちいちクラスメートの弁当なんて覚えてんの?」

「そりゃあ覚えるでしょう。間田さん、いつ見てもゼリーしか食べてないんだもん。いつか倒れるんじゃないかと思ってるんだけど、大丈夫なの?」

「普段から運動してるわけでもないし、大丈夫だよ。ま、健康志向の平野には信じられない食生活なんだろうけどな」

 食事が億劫で、親の目がない場所ではゼリーばっかり食べている。それは本当だ。しかしまさか、平野がそんなところまで見ていたとは。もしやこいつ、いつもクラス全体の様子を窺って生活しているのだろうか。よくそんなに周囲へ気が配れるものだ。

「で、私の空腹具合を聞いてどうするんだ?」

「実は昨日、新しいおかずに挑戦してね。良ければ、間田さんに食べてみてほしいんだけど」

 そう言って平野は冷蔵庫を開け、中から大皿を一つ取り出した。皿の上には、油っぽくて茶色いソースのかかった肉が十何切れか乗っている。平野は「新しいおかずに挑戦した」と言っていたが、焼いた肉にソースをかけただけにしか見えず、平野ほどの料理好きが改めて挑戦するような代物には思えなかった。

 食べてほしい、とは言われたものの、正直それは困った要望だ。美味しくないと分かっているものをわざわざ食べるのも単純に嫌だが、味の感想を求められても期待通りの返事など出来ないことは目に見えている。しかし平野は、私が断るよりも先に、大皿を電子レンジへ突っ込んでしまった。返事を聞く気はない、ということか。思ったより圧が強いな、この女。

「はい、どうぞ。きっと間田さんの口に合うと思う」

「…………」

 電子レンジが温め完了の通知音を鳴らすと、平野は皿を取り出してラップを剥がし、私の前に差し出した。私がそれを受け取ると、今度は有無を言わせぬまま箸とフォークを用意し「どっちが良い?」などと聞いてくる。どっちが良いもなにも、まず私は食べるとも答えていないのだが、もうここまできたら食べるしかないのだろう。私は「全部は要らないよ」と逃げ道を残しつつ、フォークを手に取って肉を一切れ口に運んだ。

「……っ!?」

「どう? 美味しい?」

 言葉が出なかった。味が、分からない。味がしないわけではない、分からないのだ。これは甘いのか? 違う、でも苦いわけじゃない。なんだこれは? 今までに味わってきたものとは違う。かと言って不愉快なわけでもない。信じられないことに、私はこの肉をもう一つ「食べたい」と考えていた。そんなことを思うような食べ物は、今までになかったのに。

「……これが、美味しいってこと?」

 普段の食事で癖がついていたのか、私はろくに味わうこともせずに肉を飲み込んでいた。駄目だ、我慢ができない。二切れ目の肉をフォークで突き刺し、再び口に運んでみる。

「……?」

 美味しくない。それに、さっき食べたものより少し柔らかい気がする。肉の種類が違うのだろうか。下手に期待していた分、不快感を堪えきれなかった。表情を上手く取り繕うことが出来ず、苦し紛れに咳払いをしてみたが、平野は私の反応を見逃したりしなかったようだ。

「やっぱり、口に合わないか。でも、一つ目の方は気に入ってくれたみたいだね。何か違いが分かったのかな、間田さんは」

「……どういうこと?」

「ずっとね、そうなんじゃないかと思ってたんだ。あの隠し味に気づいたならほぼ確実だと思ってたけど、これでようやくはっきりした。嬉しいなぁ、私たちは運命のパートナーなんだよ、間田さん」

「な、何を言ってるの? 全然、話が見えないんだけど……」

 平野の目つきが変わった。きらきらと輝いているのに、深い井戸でも覗き込んでいるような感覚に陥る、そんな目だ。発言の内容も相まって、身の危険を感じずにいられない。何が運命のパートナーだ、口説き文句なら相手を選べ。

「間田さん。間田さんにとって、食事って何?」

 恐らく私は露骨な嫌悪の表情を浮かべているのだろうが、平野はお構いなしに話し続けた。食事が何だって? 今この状況で何の話をしようとしているんだ、こいつは。

「食事の前には、頂きます、と言うでしょう? 肉を食べるということは、動物を殺して、その命を頂くということ。野菜を食べるということは、植物を殺して、その命を頂くということ。だけど、人間は食べてばかりで食べられることはない。それって不公平だと思うの」

「は?」

 私は、ちらりとキッチンの上に目を向ける。ケーキ作りの工程には一切不要なはずなのに、何故か最初から用意されていた包丁に視線が吸われた。平野は、なんの為にあいつを手元に置いている? 嫌な予感しかしない。キッチンを飛び出して逃げようにも、部屋の扉へ辿り着くには平野を押しのける必要があり、平野の手元には包丁がある。逃げ場は無いも同然だ。

「間田さん、私はね……」

 平野が、包丁を手に取って私を見る。またあの目だ。表面だけ輝いて、奥底に闇を抱えたあの目が私を見ている。

 殺される。そう確信し、悲鳴を上げそうになった。だが、続く平野の言葉は、私の予想とは大きく違うものだった。

「私は、誰かの血肉になりたいの」

「……は?」

「分かるかな。食べ物がなければ人は生きていけない。人を生かしているのは食べ物なの。血となり、肉となり、その人の体を構成する一部になるのが食べ物。それって素晴らしいと思わない? 私の血肉を食べた人は、私の血肉によって生かされるの。誰かの人生に、私という存在が永遠に入り込む。組み込まれる。糧となり、貢献する。凄いでしょう? なってみたいでしょう? だから私はそうしてきたの。皆の血肉になりたくて」

「いや、お前、一体なにを言って……皆? 皆って、誰のことだ。誰の血肉になるだって?」

「誰って……皆だよ、クラスの。そうじゃなきゃ、お菓子を配ったりお弁当のおかずを分け与えたりしないもん」

 そこまで聞いて、私はようやく理解した。あのクッキーに感じた、過去に味わったことのある気がするあの味。あれは鉄だ。鉄の味だ。しかし、鉄そのものじゃない。鉄と同じ味がする別のものだ。それは、どう考えても……。

「間田さん、ちゃんと私のお肉と鶏肉の区別がついてたよね。思った通りで良かった。そうだと思ってたんだ、私。今まで、私のお肉より美味しいものを食べたこと、ないんじゃない? 可愛かったよ、間田さんの顔。そうだよね、分かる。美味しいものを食べると、つい笑っちゃうものね」

「平野の肉……? いや、待て、おかしいぞ。さっき食べた肉は、一口で食べるのが苦しいくらいの大きさがあったんだ。平野の体からそんなに肉を取ったら、普通は立ってられない」

「そりゃあ私、ちょっと普通じゃないから。でもそれは、間田さんも似たようなものでしょ。人肉以外は美味しいと感じられない、人食い鬼。間田さん、知ってる? 鬼っていう種族は存在しないの。実際は、人が鬼になるからね。ねえ、やっぱり私たち運命のパートナーだと思わない? 食べられたい私と、食べたい間田さん。こんなに利害が一致した人間関係って、私たちのほかに存在しな──」

「ふざけんな狂人!」

 一刻も早くここから逃げ出す為、余所見をした瞬間を見計らって平野を突き飛ばす。私の行動を読めなかったらしい平野は、包丁を振り回すような余裕もなくよろめくと、そのまま足を滑らせて後ろ向きに倒れた。後頭部が戸棚の角に激突し、大きな音が響く。逃げようと踏み出した足を思わず止めてしまうくらい激しいその音に、私はさっきまでとは違う恐怖を覚えた。

「……まさか、そんな。噓でしょ? 私、そこまで強く押してな……ひっ」

 仰向けに倒れた平野の頭から、血が流れていた。痛がる様子もなく、ぴくりとも動かない平野の姿に、全身から血の気が引いていく。私のせいか? 私が悪いのか? 相手は刃物を持ってたんだ、こうするしかなかった。でも私は、実のところ傷の一つもつけられていない。この状況では、正当防衛にはならないんじゃないか?

「違う……そんなつもりじゃなかった。違う、私は悪くない……っ」

 頭が上手く働かず、どうすれば良いのか分からなくなった私は、倒れている平野をその場に放置して玄関へと走った。手が震えて、上手く鍵が回せない。ようやく回せたと思ったら、今度はもう一つの鍵とチェーンが邪魔をする。最初から私を逃さないつもりだったのか? 執拗なほど入念に施錠されている。やはり手が上手く動かない。チェーンが中々外せない。

 ──ガチャン。

 私がチェーンを外すのと同時に、背後で金属的な音が響いた。それなりの高さから、硬い床に金属製の何かを落としたような音。調理器具か何かがさっきのごたごたで転がり落ちたのか、なんてことを考えてはみるものの、音は明らかに私のすぐ近くから聞こえていた。

「言ったでしょ、私って、普通じゃないんだってば」

 振り向けないまま固まった私の首に、誰かが腕を回して抱きついた。耳元で呼吸音がする。平野だ。手には包丁を持っていないけれど、濃い血の匂いがする。

「ご、ごめん、許して……そんなふうにするつもりじゃ……」

「気にしてないよ、このくらいなら怪我のうちに入らないもん。私ね、生まれつきこうなの。今まで一晩以上傷が残ったことは一度もない。ま、人より少しお腹が空くのは難点だけどね」

「そ、そんなこと、ありえるの……? それじゃ、まるで」

「鬼みたい? そうかもね。人じゃないのかも。でも言ったでしょ? 鬼なんて種族は存在しないの。私も、貴女も、両親は普通の人間でしょう? だけど私たちとは違う。私たちが特別。食べる鬼と、食べられる鬼。ねえ間田さん。やっぱり私たち、仲良く出来ると思うの。本当は、あまり話したことがないから不安だったのだけれど、あんなに楽しく二人で料理が出来たのだもの。なにも心配ないでしょう?」

 平野の手が顔に触れる。生温かい液体がこべりつく。鉄の匂いが鼻をくすぐる。……口の中に、唾液が滲み出す。

「それに、もう間田さんは「人の味」を覚えたから、きっともう我慢できないんじゃない? この先、死ぬまでずっと、美味しくない食事に耐え続けるの? そんなこと出来る? 私は、自分の体を美味しくする為に健康的な生活を心がけているの。ほかにそんな努力をしている人間なんか居ない。私だけが、間田さんを満足させられる。お互いにとって良い話でしょ?」

「わ、私は……」

 血に塗れた平野の指が、唇を押し広げて入ってくる。舌に触れると、血の味が口いっぱいに広がっていく。本当なら不快に感じるべきなのに、そんな気持ちが湧いてこない。平野の言葉を否定したいのに、私は、その味がもっと欲しくてたまらなかった。

「さあ、召し上がれ。おかわりだって、好きなだけ用意してあげるから、ね」

 人を食べるわけにはいかない。誰かを傷つけたりなんか、したくない。だけど、抗えない。覚えてしまった「人の味」を、私は絶えず求めてしまう。耐えられるわけがない。もう既に、私が選べる選択肢など一つしか残されていない。

「……頂きます」

 私は、鬼に屈した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

美味しい話 桜居春香 @HarukaKJSH

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ