美味しい話
桜居春香
不味
生まれてから十七年間、一度も食べ物を美味しいと感じたことなどなかった。両親が誕生日に買ってくれたケーキも、小学校で毎日食べていた給食も、友達が分けてくれた流行りのお菓子も、私は、何一つ美味しいと思えなかったのだ。
決して味覚が狂っているわけではない。それがどんな味かは分かっていた。しかしどれも美味しくない。アイスクリームは甘くて美味しくない。チョコレートは苦くて美味しくない。レモンは酸っぱくて美味しくない。味噌はしょっぱくて美味しくない。どれもこれも、あれもそれも、美味しくない。私の記憶には残っていないが、授乳の度に泣き喚いていたという母の話を聞く限り、きっと母乳でさえ美味しいとは感じていなかったのだろう。
そんな私にとって、食事はいつも憂鬱な時間である。今思えば、両親に心配をさせまいとしてずっと隠してきたのも間違いだったのだろう。二人を悲しませたくなくて、用意された「御馳走」を何度も「美味しい」と偽ってきた。その全てが嘘だった、と明かすことなど、私にはもう出来ない。きっと、これからもずっと、私は両親を騙し続ける。
他人が美味しいと感じるものを、私は美味しいと感じない。たったそれだけのことなのに、集団での食事は私に孤独を味わわせた。共感が出来ない、なのに外面を気にして話を合わせてしまう。そのせいでもっと自分の首を絞める。噓を吐かねば輪にも入れない、それを自覚することでより一層孤独を味わう。悪循環もここに極まれり。次第に私は、食事のときだけでなく、普段から他人との関わりを避けるようになっていた。
「間田さん」
不意に名前を呼ばれ、顔を上げる。春の陽気に耐えきれず昼寝をしていたせいで、視界がぼやけて相手の顔がよく見えない。目を凝らしてみるとようやく輪郭がはっきり見えるようになり、どうやら同級生の平野香澄が話しかけてきたのだと理解することが出来た。
「……何か?」
平野はいつも友人らに囲まれているタイプの、良く言えば人気者タイプの女子だ。進んで一人になりたがる私との接点はほとんどない。なんの用があるのか、私が訝しむのは当然の反応だった。
「昨日クッキーを作ったから、クラスの皆に配ってるんだけど、間田さんも一つどうぞ」
そう言って平野が差し出したのは、いかにも手作りっぽく包装された三枚の小さなクッキーだった。受け取って見てみると、形は綺麗に整っていて、言われなければ店売りの商品と見分けがつかない。
優等生で、運動も出来て、趣味のお菓子作りも優秀で、一匹狼気取りの同級生にさえ分け隔てなく接する人間性。これが人気者の人気者たる所以か、などと失礼なことを考えながら、私はこのクッキーをどうしたものかと悩んだ。平野は私がこの場で食べるのを期待しているようで、私が袋ごとクッキーを受け取っても立ち去る気配がない。要らないと突き返すのは、流石に心証を悪くするだろう。平野のように友人の多い相手から嫌われると、色々と面倒なことになる。今ここで食べるしかないのか、とんだ災難だ。そんなふうに思いながら、私はなるべく表情を変えないよう努めつつ、クッキーを一つ取り出して口に放り込んだ。
「どう? シュガークッキーに少し隠し味を入れただけの、シンプルなものなんだけれど」
「……美味しいと思う。分かりやすく甘いけど、くどくないし」
いま言ったことは噓じゃない。私は美味しいと感じないが、きっとこの味なら多くの人にとって美味しいクッキーなのだろう。そう思ったからそう言った。お世辞と言われればそれまでだが、私なりに正直な感想を述べたつもりである。
「そう、良かった! でもやっぱり、隠し味はちょっと隠れすぎちゃったかもね」
平野は私の感想を聞いて満足したのか、手に持ったポーチから新しいクッキーを取り出すと、別の同級生に駆け寄っていった。マメな奴だ、と思いながら、私はクッキーを咀嚼する。早く飲み込んでしまいたいのだが、思ったよりも生地が固く、破片が大きいまま喉に流す気にはならなかった。
甘い。甘い。少し苦い。やはり甘い。美味しくない。そんなふうに頭の中で愚痴のように呟きながら、クッキーを噛み砕く。昔、砂場で盛大に転んだときに、口の中を砂で満たしてしまったことを思い出した。味は違うが似たような食感だ。そして、どちらも美味しくない。平野が折角作ってくれたクッキーを砂利と同列に扱ってしまうのは申し訳ない気持ちだったが、そう思ってしまう自分を止めることは私にも出来なかった。
ようやくクッキーを飲み込み、唾液を数回喉へ送る。まだ舌の上にはクッキーの味が僅かに残っていたが、気になるほどではない。残った二つは家に持ち帰り、適当な理由をつけてママに食べてもらおう。そんなことを考えていると、ふとクッキーの後味に微かな違和感を覚えた。何か、砂糖ではない味がする。存在感が薄すぎてはっきりとは分からないが、過去に味わったことのある味だ。
不思議と、その味を不快には思わなかった。平野が言っていた隠し味というやつだろうか。砂糖の甘さが目立っていたせいで、口に含んでいる間には気づかなかったのが惜しい。何故だか無性にその味が忘れられず、気づくと私は、二枚目のクッキーを袋から取り出していた。
抗えない。何かが私を突き動かしている。私はクッキーを再び口に放り込み、今度は砂糖の陰に潜む隠し味に意識を向けた。居る。確かに存在している。これは、なんだ? 何の味がしているんだ? 私を惹き付けるこの味はなんだ? 美味しいとはっきり言えるほどではないものの、それは確実に、今まで味わってきた食べ物とは感じ方が違っていた。
執拗に咀嚼を繰り返し、味がなくなるほど何度もクッキーを噛み砕き、そうまでして考えても味の正体が掴めない。もどかしい。きっと、最後の一つを同じように食べても、答えは出ないだろう。確かに知っているはずなのに、それがどんな食べ物か予想もつかなかった。
平野の方へと目を向けると、彼女は同級生数人と談笑をしているところだった。どうやら彼女たちは、昼休みに弁当のおかずを交換したりしていたらしい。平野の料理を褒める言葉が何度も聞こえてくる。
あの隠し味がなんなのか、本人に聞いて確かめたい。初めて違う感じ方をした味の正体を知りたかった。もしそれがなんなのか分かれば、私は自分が美味しいと思える料理を作れるかもしれない。しかし、友人らと話している最中の平野に話しかける勇気はなかった。結局、昼休みが終わるまでの間に私が平野に話しかけるタイミングは訪れず、私は悶々とした気分のまま午後の授業に臨むことを強いられるのだった。
放課後、部活動もなく帰り支度をする平野に、私はほかの同級生が話しかけるよりも早く声をかけた。今日は金曜日だ。ここでタイミングを逃しては、来週までこのもやもやを引きずることになる。隠し味の正体を確かめる為には、今しかチャンスが残されていなかった。
「平野、聞きたいことがあるんだけど」
「なに? 間田さん」
にこやかに振り返り、平野は私に用件を尋ねる。いつもにこにこしていて、顔が疲れたりしないのだろうか。そんな余計なことを考えつつ、私は率直に疑問を投げかけた。
「さっき貰ったクッキーのことなんだけど」
「あ、もしかして気に入ってくれた? 次にまた作ったら、間田さんにもあげるね」
「いや、そうじゃなくて……平野が言ってた隠し味って、何?」
「隠し味は隠し味だよ。ほら、少しくらい秘密があった方が面白いでしょ?」
平野は質門に答えず、隠し味の正体を誤魔化した。しかし、それで引き下がる私ではない。
「……私、実は甘いもの苦手なんだ」
「え?」
「でも、平野に貰ったクッキーは何かが違う感じだった。多分、隠し味が理由なんだと思う」
「……そんなに知りたいの? クッキーの隠し味」
不意に、平野は私が見たことのない表情を顔に浮かべた。笑顔には違いないが、柔らかさを感じる普段の笑顔とは違い、どこか鋭さや冷たさに近い印象を抱く笑みである。
私は思わず後ずさりそうになったが、次の瞬間にはいつもの笑顔に戻っていた平野を見て、自分が勝手にそんなイメージを思い浮かべただけだと納得することにした。平野は私の返答を待っているようで、少し首を傾げながら、私の顔を覗き込んでいる。さっきの冷たい笑みとは打って変わり、同性の私から見ても愛らしい仕草だ。やはり、気のせいだったのだろう。平野があんな顔をするとは思えない。
「出来れば、教えてほしい」
平野の問いに私は答えを返す。どうして自分がそんなことにこれほどこだわっているのか、自分でもよく分からない。だが、知るチャンスがあるのならなんとしても知りたい、という衝動に近い欲求が、どうにも抑えることが出来なかった。
「じゃあ、交換条件」
私の返事を受けて、平野が言う。
「明日、今度は別のお菓子を作ろうと思うんだけど、それを手伝ってくれたら教えてあげる。もちろん、完成したら間田さんも一緒に食べてもらって構わないから。それでどう?」
「料理の手伝い? それって……平野の家で?」
「そう。ちなみに、明日作るお菓子はレアチーズケーキね」
「まあ、週末はいつも暇だし、別にお菓子作り手伝うくらいは構わないけど……」
特に仲良くもない私を家に招くなんて変だな、とは思ったが、平野にとってはそれが普通なのかもしれないと思い、私は交換条件を承諾した。お菓子作りの経験なんて当然皆無だが、まあ手伝いくらいならなんとかなるだろう。味見を頼まれたら流石に困るが、誤魔化しようはいくらでもある。
「そうだ、そういえば間田さんとは、まだ連絡先を交換してなかったよね? うちの住所を送っておくから、連絡先教えて」
「ああ、うん」
平野に要求されるままスマホを取り出し、メッセージアプリの友達登録を行う。友達一覧に『かすみ』というアカウントが追加され、すぐに何かのキャラクターと思わしきスタンプが送られてきた。
「あとで明日の予定とか送るね。集合は昼過ぎくらいでいいかな。それじゃ、また明日」
「……また明日」
ああいう人間が他人を惹き付けるのかと、まるで別の生き物と関わったかのような感覚を覚えながら平野の背中を見送る。妙なことになったな、と思ったものの、こうして同級生と休日に会う約束をしたことなど今までに無かったからか、私の気分は意外にも高揚していた。まるで普通の女子高校生みたいだ。そういえば女子高校生だった。高校生活三年間のうちに、一度くらいはこういうことがあって良いのかもしれない。
そんなふうに考えながら、まだ下校せずに駄弁っている同級生を尻目に帰り支度を進める。クッキーは一枚だけ持ち帰っても面倒だから、教室を出る前に食べ、クッキーの入っていた袋もゴミ箱へと投げ捨てた。やはり、口の中には不思議な味が滲み出ている。明日には正体が分かるのだ。私は、少し浮かれた足取りで帰路についた。
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