開戦前夜

森上サナオ

開戦前夜


 トトンガリ共和国の西端、デリド砂漠。

 ラクダ二十頭からなる隊列を組んで、イシュルズゥーラ博士はその発掘現場を訪れた。

 出迎えるのは発掘隊の隊長、ストトンポリ博士。ビヤ樽のような体つきに、豊かな顎髭。探鉱夫のような出で立ちだが、共和国首都の大学に籍を持つ学者であった。

 対するイシュルズゥーラ博士は、糸杉のような細く高い体つき。目は糸のように細く、髭は剃り、黒い髪は油で撫でつけている。ラクダの背に揺られて、顔を青白くさせていた。氏は大国スクィーラ魔導帝国の魔術師にして高名な魔術言語学者である。

 スクィーラ、トトンガリは長年緊張関係にある。しかし、手を握り合う両博士の顔には研究者としての誇りと尊敬の眼差しがあった。

 通訳を交えながらの歓迎会、初めて飲むラクダの乳酒の酸味にイシュルズゥーラが皺を寄せながら、ストトンポリに訊ねる。

「しかし、本当ですかな、博士」

「ええ、ええ。イシュルズゥーラ博士。私には確信がある」

 ストトンポリは胸を張って答える。

「この遺跡こそ、バベルの都なのです」


 太古の昔、人の国はバベルただ一つ。そしてバベルの都では、ただひとつの言葉を話していた。

 しかし、天に届く塔を作ろうとしたがため神の怒りに触れ、塔は破壊され、言葉は分け隔てられた。

 言葉の通じぬ人びとは互いに争い、それが現在まで続く国家の誕生である。

 この世で知らぬ者はいない神話。

 ロマンはありますな。イシュルズゥーラはどこか醒めた態度で言った。

 だがストトンポリの熱意は冷めない。イシュルズゥーラに膝を寄せ、ならばどうしてここへ来たのかと訊ねる。

 あなたもどこかで思っているのではないか、バベルは実在したのかもしれない、と。

 そう言われると、イシュルズゥーラは頬を掻いて杯を傾けるのだった。

 

 それからイシュルズゥーラの砂漠での生活が始まった。

 黒髪を油で撫でつけるのは辞め、ターバンを巻いた。ラクダの乳酒を飲み、羊の肉を食べ、毎夜の如くストトンポリと語り明かした。

「しかし、きみのテントはどうしてこうも書物が多いのかね」

 あるとき、ストトンポリは訊ねた。

 イシュルズゥーラのテントには大きな毛織物の絨毯が敷かれ、その上に彼が持ち込んだ膨大な書物が山をなしている。

「ここが帝国内であれば、これほど大荷物を運ぶ必要はないのですが」

「というのは、魔術かね?」

「ええ。指を一振りすれば、どんな書物も私の手の中に現れるでしょう」

「では、どうして? これではまるで書物商だ」

「我々魔術師は、自国を出ると一切術が使えぬのですよストトンポリ」

「ほう、その話は本当だったのかね」

「魔術師は母語でしか呪文を唱えられない。そしてその呪文は、唱えられた言語が使われている土地でしか効果を発揮しないのです」

「外国語を習得しても駄目かね」

「ええ。呪文で使えるのは母国語のみ」

「なるほど魔術師というのは言葉に縛られる生き物なのですな」

「その通り。しかし、もしバベルが実在したのであれば……」

 イシュルズゥーラはそこで言葉を切り、葉巻を燻らせた。灰の奥では煙草の火が、火竜の口のように赤く燃えていた。


 それから半年が過ぎた。

 陽が沈み、ストトンポリはいつものように乳酒の入った革袋を手にイシュルズゥーラのテントを訪ねた。

 そのときイシュルズゥーラはストトンポリに背を向け、テーブルに覆い被さるようにして、広げた書物を見下ろしていた。

 冬の糸杉が雪の重みでたわんでいるような、今にも折れるか跳ね上がるかしそうな、張り詰めた気配がその背中から発せられていた。

 半年で日に焼けたイシュルズゥーラの額は、砂で洗った鉄鍋のような光沢を放っている。

 その額を、小さな灯りが照らし出していた。灯りを見つめるイシュルズゥーラの額に玉のような汗が湧き出し、皺に入り込んだ砂埃を洗い流し頬を伝っていく。

 ストトンポリの入室に気づき、イシュルズゥーラが右手を小さく振る。すると灯りは音もなく消えた。

「なにか、大きな発見をしたようだね」

 この半年の間に身につけたスクィーラ帝国語で、ストトンポリが問いかけた。

「ええ、ええ。これはもう本当に大発見ですぞ」

 イシュルズゥーラも身につけたトトンガリ語で返す。

「ご覧なさい」

 イシュルズゥーラが手元の粘土板を指さす。広げた布の上に安置された粘土板は広げた手の平ほどの大きさで、記号のような印が規則正しく並んでいた。

「この粘土板に記されていたのは、楽譜だったのです。これを元に、古代語の音と文字を対応させることに成功しました。その結果、実に興味深いことがわかりました」

「というと?」

「この古代語は、世界中の言語の特徴を備えているのです。北方民族が使うスキリン語の語尾変化、南方島嶼地方で話されるポンジュヤック語の特殊な人称変化……」

 糸のように細い目の奥で興奮を滾らせるイシュルズゥーラに、ストトンポリは両手を挙げる。

「すまないが、専門用語はからきしでね。解りやすく教えてくれるかね?」

 イシュルズゥーラは言葉を母語に戻して、簡潔に言った。

「これは始祖言語(オリジン)ですぞ。ストトンポリ」

「オリジン?」

「全ての言語の元になった原初の言葉。言語が無数に分岐する前の、たったひとつの姿……」

 その言葉は、ストトンポリにあの伝説を思い浮かばせた。

「『バベルの都では、だれもがただひとつの言葉を話していた』……」

 ストトンポリの瞳が輝く。

「では……」

「ええ。人びとがただ一つの言葉で語らったバベルの都が、ここにあったのです」

 飛び上がりそうになる興奮を押しとどめ、ストトンポリはあえて批判的な意見をぶつける。

「しかし、果たして本当かね。証拠は不足してはいないかね」

「これに関しては、一目瞭然の証拠があるのですよ。ひとつ実験を見せましょう」

 そう言ってイシュルズゥーラは、書き写した始祖言語を吟じるように発話してみせた。

 すると見る見るうちにイシュルズゥーラの胸元に赤い火の玉が現れ、穏やかな熱を放ち始めた。

 ストトンポリは息を呑んだ。イシュルズゥーラが、魔術を使っている! 

「きみは、魔術師のくびきから逃れたのだな!」

「外国人である私が魔術を使えている。それはこれが全世界の言葉の始祖である証拠。バベルの都は実在したのです」

 ストトンポリは目の前の美しい炎を見つめる。

「素晴らしい! イシュルズゥーラ博士。始祖言語は、あらゆる国々を繋げる架け橋となりましょう。国の違い、肌の色の違いで憎しみ合う時代が、終わりを告げるのですぞ!」

「まさに「始祖言語による平和」ですな。そしてその平和を為し得るのは、我が祖国、スクィーラ魔導帝国こそ相応しい」

 歓喜を孕んだイシュルズゥーラの声に、ストトンポリはふと顔を上げる。

「これまで魔術師は、国に閉じこもる存在でした。それが、始祖言語を用いれば、国土を広げる存在へと生まれ変わる……。魔術師ひとりで蛮族を殲滅し敵国を蹂躙できるのですからな」

 穏やかな火の玉が、一瞬にして太陽のように輝き出した。

 ストトンポリの豊かな顎髭が燃え上がる。声も上げる間もなく、ストトンポリは消し炭となって崩れ落ちた。

 燃えよ、燃えよ。

 イシュルズゥーラが始祖言語で唱える。発掘隊のテントが次々と燃え上がり、寝静まっていた隊員たちは何が起きたのかも解らぬままに灰となった。

 異国の砂漠に、帝国の魔術師は糸杉のように佇む。

 灰が山と積まれたバベルの遺跡をぐるり見渡し、満足げに頷く。

「感謝しますよ、ストトンポリ」

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開戦前夜 森上サナオ @morikamisanao

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