ニルヴァーナ
森上サナオ
ニルヴァーナ
『ニルヴァーナ』
木漏れ日が落ちる小道を走る。木々の隙間から、森の終わりが見える。その先はなだらかな丘陵地帯が広がり、新緑の草原が穏やかな風に波打っている。
いつ見ても、美しい眺めだと思う。
森と草原の境界線に辿り着いた。目的地は、丘の上に一本だけ生えている桜の樹だ。
膝丈の草がさわさわと触れてくすぐったい。その中を駆け足で一本桜に向かう。首元を汗が伝った。
小さな丘を越えると、目的の桜の樹が見える。この桜の樹が花を咲かせているところを、僕は見たことがない。ここはいつも穏やかな気候で保たれているから。
桜の根元に、人影が見えた。しまった。出遅れた。こうなってしまうと、巻き返しはなかなか難しい。
桜の根元に伏せたその人と目が合った、気がした。僕は悔しげに唇を噛み、相手はきっと、安堵と緊張という相反する感情を静かに抑え込んでいるはずだ。
僕はとっさに横に跳ぶ。けれど遅かった。一瞬早く飛んできた7,62ミリの弾丸が僕の左肩を吹き飛ばして、僕はコマのようにくるりと回って地面にベシャリと転げた。
たぶん左腕はほとんど千切れていると思う。それを確認したところでどうすることもできないし、どうでもいいことなので傷口は見ない。猛烈な痛みがやって来るまでは、ほんの少しだけタイムラグがある。痛みがやって来ると手が付けられなくなるので、僕は今のうちにできる限り射線から逃れようと地面を転がって、丘の向こうを目指そうとした。
けど、相手は高い丘の上にいるので、僕の動きは丸っきりお見通しだった。伏射から膝射に切り替えて放たれた第二射が僕の後頭部を叩き、額から脳ミソを撒き散らしながら僕は死んだ。
僕は自分のベッドで仰向けに寝ていた。飛行機の格納庫のように高い天井に並ぶ照明の、牛乳瓶の底のような模様をぼんやりと見つめる。
スプリングを軋ませて身を起こすと、ほぼ同時に周りの人たちも起き始める。
「おはよう」
顔を見合わせると、皆口々に挨拶を交わす。重苦しく、それでいてどこかほっとした口調で。
「今回は誰?」
この質問に、「はい」と答えることはできないので、みんなはそれぞれの周囲を見渡す。
「たぶん、あの子」
そう答えた一人の近くを見ると、確かに空きベッドが増えている。あぁ、あの子か、とみんな口々に感想を述べる。今回は会わなかったな、とか、私は負けたよ、とか。
「一本桜の下に居たよ。.30口径持ってた」
僕の報告にみんなが、へぇ、という顔をする。最近なかなか出なかったのにね、とか、運が良かったんだね、とか。
「それじゃあ、お疲れ様でした」
一人がそう言って、それを合図にみんながぺちぺちと拍手する。一連の流れが終わると、みんなは気怠げに伸びをしたり、シャワーを浴びに行ったり、もう一度ベッドに横になったりと、思い思いに過ごし始める。
広大な格納庫に、カーキ色の毛布が掛けられたベッドが並んでいる。その内、毛布が乱れているベッドは二十四台。
はじめは百人いた面子も、ついに四分の一を切った。
◆ ◆ ◆
「皆さんには、殺し合いをしていただきます」
格納庫のベッドで目覚めた僕たちに向かって、その人は言った。グレーの背広を着て、上司に忠実な役人のような印象のその人は、僕たちを見回した。
「皆さんにはこの後、最後の一人になるまで殺し合いをしていただきます。武器は戦場のあちこちに落ちていますので、そちらをご利用ください。他者との協力などは自由ですが、最終的には一人になるまで戦っていただきます。戦場は時間経過と共に縮小していき、優勝者が決定するまで空間は狭まっていきます。生存者が複数人存在する状態が続きますと、圧縮される空間で最後まで生きていた人が優勝者扱いになります。あまり、おすすめしない決定方法ですが……」
そう言うと、背広姿はあまり重要でないことのように続けた。
「優勝者の方は、ここから脱出できます。では、サイレンが鳴りましたら始まりますので、しばらくお待ち下さい」
背広姿はくるりと振り返って、去って行ってしまった。
僕たちが顔を見合わせて、何か言おうと、何を言えば良いのか考えていると、天井にぶら下がったスピーカーがサイレンを鳴らし始めた。
サイレンが鳴り止むと、僕は知らない街の中の道の真ん中に立っていた。誰もいない、崩れかけたゴーストタウン。空は晴れていて、羊雲がのんびりと流れている。
まるで夢の中に出てくるような街並みを、僕はぼんやりと散策した。誰もいない公園のブランコに座っていると、近くで悲鳴が聞こえた。
公園のすぐ隣の廃墟の中で、大柄な男が女の子に覆い被さっていた。僕は見てはいけないものを見た気がして、とっさに隠れてしまった。どうしたら良いのか解らず、壁越しに聞こえる床の軋みや、男の激しい息づかいや、女の子の苦しげな呻き声に、心臓が口から飛び出そうになっていた。
泳いでいた目が、自分の足下に落ちているそれを見つけた。.45口径の拳銃。手を伸ばして、ずっしりと重いそれを握る。
壁越しに女の子の声が途切れ途切れに聞こえる。ぶつ切れの単語の中に、「やめて」という拒絶が混ざっていた。
マガジンキャッチを押し込と、.45ACP弾が七発フルロードされた弾倉が吐き出される。弾倉を元に戻して重たいスライドを引いた。相変わらず僕の心臓は早鐘を打っているのに、一連の動作の最中は全く手が震えなかった。
割れた窓からそっと屋内を覗く。壁に女の子を押し付けた男の後頭部が、ほんの五メートルほど先でリズミカルに揺れている。
狙って、引き金を引いた。
男の右肩がばしん、と跳ねて、男が悲鳴を上げる。驚いた顔をこちらに向け、男が銃をこちらに向けた。男も銃を持っていたことに、その銃口がこちらを向いていることに、僕は銃を持っていることも忘れて恐ろしさのあまり目をつぶってしまっていた。
銃声がして、もの凄い衝撃が僕の胸を襲う。息が出来なくなって、それでも頑張って息を吸うと、プールで水を飲み込んでしまったように咽せ込んだ。結構な量の血を吐き出してしまい、まだ状況を呑み込めない僕は、恥ずかしいことをしてしまった、というズレた感想を真っ先に抱いていた。
窓枠にもたれて、僕は倒れ込む。妙に身体が重くて、そのまま頭から屋内にひっくり返ってしまった。頭から落っこちた僕を見て男は面白そうに笑うと、血が流れる腕もそのままに、また女の子にのしかかった。女の子の悲鳴が徐々に大きくなり、男の息づかいが激しくなる。血の滴る男の腕が女の子の首を締め上げるのが、半分黒くなった視界の中で見えた。
ふう、と溜息を吐いた男が、立ち上がってズボンを上げる。チャックを閉め、ベルトを締め、女の子の頭を銃で撃った。
床を転がってきた薬莢が、動けない僕の頬にぶつかって止まる。熱かった。
男は僕の方にやって来ると、僕の銃を取り上げて、廃墟から出ていった。
三十秒後、僕は失血性ショックで死んだ。
ベッドに仰向けになった状態で、僕は目を覚ました。格納庫のような場所、天井の照明、換気扇の回転音、そして、あちこちから呻き声が上がる。
見渡すと、周りのベッドの上で目覚めた他の人たちが、真っ青な顔で身体のどこかを確かめたり、恐怖や屈辱に歪んだ顔でマットレスを殴ったり、ベッドから転げ落ちて床に嘔吐していたりしていた。
その中に一つだけ、誰も寝ていないベッドがあった。
目覚めたのは九十九人。
その中に、女の子を嬲り殺して僕を撃った男の姿はなかった。
「はい。みなさんお疲れ様でした。あちらにシャワーなどもありますから、ご自由にお使い下さい」
いつの間にか現れた背広姿が、僕らに一礼した。
「次の殺し合いまでは時間がありますので、それまでゆっくりお休み下さい」
そう言ってまた立ち去ろうとする背広に、誰かが怒鳴り声を上げた。
「これは一体どういうことだ」
その問いはとても抽象的だったけれど、僕らの想いを忠実に平均化したものだった。
背広姿は僕らを振り返ると、ごく丁寧な口調で言った。
「みなさんには、環境の整備をお願いしております」
背広姿の言葉に、みんなが黙り込む。
「ここはまだオープン前の、調整中の区画なのです。みなさんにご協力いただいているのは、たとえるならグランドオープン前のデバッグ作業です」
僕らの表情は皆一様に曇っていた。背広姿の言葉が、聞き取れるけれど理解出来ない。
そんな僕らに向かって、背広姿は付け加えた。
「ここはですね、天国の辺境──解りやすく言いますと、地獄です」
◆ ◆ ◆
背広姿の説明を聞いて、こう考えた人が一定数いた。
「優勝したら、こんな面白い場所から追い出されてしまうのか」
方法は簡単で、ある程度まで人を殺し回ったら、優勝する前に自殺すればいいのだ。最後の一人にさえならなければ、ずっと地獄に残れる。本物のデスゲームを、何度でも楽しめる。
一方僕ら──つまり、どう足掻いたって優勝候補に残れるような実力がない人たち──は、残虐行為を煮詰めて楽しむような連中を盛り上げるための駒にならなければならない。
僕らは考えた。殺し合いを楽しむ人たちは、出来る限りこの地獄に残りたい。そのためには、「彼ら」は優勝者になってはならない。「彼ら」がデスゲームを楽しむためには、毎回「僕ら」の誰かが優勝者になればいい。そうすれば、「僕ら」は先にこの地獄から脱出できる。
でも、僕らの中からどうやってその回の優勝者を選ぶのか。
結局、僕らは僕らの中で殺し合いを始めていた。何回も殺して、殺された。もう少しというところで射殺され、刺殺され、溺死させられた。その度にベッドの上に戻り、僕らの表情を曇らせていった。
それは、僕らの三分の一ほどが「優勝」したころだった。
殺し合いを楽しんでいた人たちが突然消えた。急にベッドの空きが増えて、混乱する僕たちの前に、背広姿が現れてこう言った。
「目的外の用途にこの戦場を利用した方達には、退出していただきました。みなさんは安心して殺し合いを続けて下さい」
困惑する僕らに、背広姿はこう付け加える。
「今後、戦場の不正使用が認められた場合、まことに遺憾ではありますがペナルティを科させていただきます。今回退出していただ方達は既にペナルティ対象となっております」
「不正使用って?」
誰かが問う。背広姿は答える。
「戦場を本来の目的のために利用しないことを指します。一例ですが、自殺などで戦闘を避ける行為も、これに含まれます」
「ペナルティを受けるとどうなる?」
「次回の戦場をご覧になればお解りになるかと」
背広姿は姿を消した。
サイレンが鳴る。
それは、人体を幾つもつなぎ合わせた肉の塊だった。
その回の戦場で、僕は早くに武器を手にすることができて──回が増す毎に、出現する武器は徐々に少なく、かつ貧弱になっていった──、誰か近くに戦える人がいないか探していた。
小高い丘の上から、僕は周囲を索敵した。すると、廃墟が数軒並んでいる中に、人影を見つけた。その人は屋上のベンチに腰掛けて、本を読んでいた。廃墟の中にはそういったものが散乱していて、格納庫までは持ち帰れなかったけれど、戦場では手に取ることが出来た。
のんびりとしたその姿を見たとき、僕は気付かされた。もう、僕らは焦って殺し合う必要なんてない。この静かで穏やかな地獄に銃声を響かせようとしている自分が、とても恥ずかしく思えた。
次の瞬間、本を読んでいた人は巨大な肉の塊に握りつぶされ殺された。その死体を呑み込むと、肉塊は地面に溶け込んで姿を消した。
その回が終わると、格納庫からその人の姿は消えていた。
背広姿の言う不正使用が、「戦闘に消極的な行動を取ること」であることを僕らは理解した。そして、あの肉の塊に呑み込まれた人が決して優勝者扱いにはされないということも、あの肉塊がもともと何であったのかも。
殺し合いを好む人たちが消えて、やっと自分たちのペースで事が運べるという僕らの期待は露と消えた。
僕らはルールを決めた。戦場に飛ばされたら、まず相手を探す。この頃になると、みんな頭の中に戦場の地形がしっかりと入っていたので、幾つかの合流ポイントを決めておけば、自然とそこで落ち合うことができた。ペアができたら、相手と殺し合う。勝った方が、次の合流ポイントへ。そうして戦闘を持続させ、最終的に優勝者を決める。
僕らが積極的に戦闘をこなしている限り、あの肉塊は現れなかった。
僕らは戦いたくなかった。殺したくなかった。殺されたくもなかった。それでも、あの肉塊に取り込まれるのは恐ろしくて、なによりここから出て行きたくて、僕らは機械的に殺し合いを続けた。
僕はベッドで目を覚ます。辺り一面は綺麗にシーツが整えられたベッドが並んでいる。
遠く離れた場所で、一人の女の子がベッドに腰掛けていた。
初めての戦場で、僕が助けようとして失敗したあの子だった。
「おはよう」
僕が挨拶をすると、彼女は静かに僕を見て、「おはよう」と返す。
「次の合流ポイント、どこにする?」
彼女は僕をじっと見つめ、ちいさく息を吐いた。
「どうかしてる。あなたも、他のみんなも。どうしてそんな平気そうな顔をしているの? どうして慣れることができるの?」
僕は問いを返す。
「きみは、誰も殺さなかったの?」
彼女は黙ったままだった。
「すごいね、それでよく今までアレに捕まらなかったね」
「みんなが殺すことに必死なら、殺されることに必死な人は楽ができるの」
「それって、本当に楽だったの?」
彼女はまた黙り込む。
サイレンが、格納庫に鳴り響いた。
辺り一面は青々とした草原で、微かな風が波のように草を揺らしている。
武器はどこにもなかった。
「殺しなさいよ」
彼女が言った。
「殺し慣れているあなたなら、武器がなくてもできるでしょ」
「殺され慣れてるなら、それを真似ることだってできるんじゃない?」
僕が言うと、彼女は目を細める。
「あなた、優勝したくないの?」
僕は、
「僕は……殺し合いは、はっきり言ってもう二度としたくない。殺すのも、殺されるのもこりごりだ。でも、それよりも……」
彼女が眉を寄せる。
「あのとき助けられなくて、ごめん」
彼女は一瞬黙り込んで、それから僕の胸ぐらを掴んだ。
「同情しているの? わたしが最後の一人になるのが、申し訳ないとでも思っているの?」
「単純に僕の自己満足。あの時君を救えなかったことが、僕にとって心残りだった。君がどこかで優勝すれば、それで良かったんだけど、君は最後まで残ってしまったから」
「わたしのために、わたしに人殺しをしろって言うの……」
「そうだよ。だから、これは僕の自己満足。君の苦痛なんて、これっぽっちも考えてない」
「ふざけないでよ」
僕は彼女の手を取って、僕の首に巻き付ける。
「絞殺されたことは、あるよね」
あの時、廃墟で男に首を絞められたように、今度は僕の首を絞めればいい。
ゆっくりと、彼女の手に力がこもっていく。指先に感じる脈動を、汗の滲む手が押し潰す。ものの数秒で、意識が遠のく。このあとは、彼女の好きなようにすれば良い。このまま絞め続けてもいいし、頭を潰したっていい。
……
…………
………………なんてことしたんだ。
もう、後戻りはできない。これで最後だ。もう生き返ることはできない。死んだら死にっぱなし。暗闇の中で、自分が消えていくのを感じながら、僕は後悔と憎悪が津波のように押し寄せてくるのを感じ、
ごき、と首の骨が外れる音で、僕の意識は途切れた。
◆ ◆ ◆
ベッドの上で、僕は目覚めた。誰もいない、九十九の綺麗に整えられたベッドに取り囲まれて、僕は一人天井を見上げる。換気扇が、メトロノームのように光と影を交互に吐き出している。
「お疲れ様でした」
「最後の一人なのに、ペナルティはないんですか」
背広姿は首を振った。
「ございません。むしろ、あなたはペナルティからもっとも縁遠い存在です」
賞状を授与する役人のような顔で、背広姿は誇らしげに言った。
「あなたはこの戦場にもっとも貢献してくださいました。あなたは他者の命を奪うことに順化すると同時に、死を積み重ねることで深く苦しんでもいらっしゃいます。それはここの環境整備にとってとても大切なことなのです。後悔や嫌悪のない、残虐性だけでは駄目なのです。ここは人のための地獄、人の地獄には、人の苦しみが必要です。殺したくない、しかし生き残りたい。しかし誰かのためには自分を犠牲にもする、そしてその裏では激しい後悔や嫉妬に身を焼かれている。あなたは今、最もこの場に最適化された存在なのです」
ぱちぱちと背広姿が拍手する。広い空間に拍手の音は乱反射し、万雷の喝采のように鳴り響く。
「おめでとうございます。あなたこそ、これからの地獄を担うに相応しい」
「僕はもう、人ではないのですか……」
「いいえ。人過ぎると言っても良いくらいです。だからこそ、命の輪を外れ、人のため、天国のために尽くすことが出来るのです。苦しみを理解した。苦しみその物であるあなただからこそ、成せる職務なのです」
背広姿が初めて表情を変えた。天使のような、悪魔のような微笑みだった。
「改めてお祝い申し上げ、また切に願います。あなたが人々の苦しみを象徴する、良き地獄の管理者たらんことを」
ニルヴァーナ 森上サナオ @morikamisanao
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます