時間の缶詰

くれは

時間の缶詰

 十年も前に渡されたその缶詰を、私は未だ開けられないでいる。

 平ったい円筒形で、ラベルも印字もない、何が入っているのかわからない缶詰。最近では珍しい、缶切りがないと開けられないタイプの。

 もう何度も、開けてしまおうかと思っては、それでもその缶詰は開かれることのないまま、こうして目の前にある。

 その缶詰の中身は、時間だ。




 誕生日プレゼントだった。私の誕生日は夏休み中だからと、夏休み前に突然それを渡された。

 放課後、帰り道。蝉は盛大に鳴いていたし、制服姿はうっとうしいほどに暑かった。自転車を押して坂道を登る間は、おしゃべりも止む。

 坂道を登りきって、汗ばむ首筋を手の甲で拭って、その先の交差点で私たちの帰り道は別れる。

 別れを惜しむように、木陰のベンチで自転車を止めて少しだけ涼む。木漏れ日ですら暑い。生温い風でも、心地よく感じられた。

 その缶詰を渡されたのはそんなときだった。

「旅行から帰ったら改めてちゃんとお祝いはするけどさ。でも、まあとりあえず、みたいな」

 手のひらに乗せられたそれは妙に軽く、振っても何か詰まっているような手応えはない。

 戸惑う私の顔を覗き込んで、彼女は悪戯を仕掛けるように笑った。

「中に、何が入ってると思う?」

 私はその缶詰を耳元に持っていって、もう一度振ってみる。やっぱり、なんの音もしないし、手応えもない。

 眉を寄せて彼女と視線を合わせた。

「何も入ってない、とか。空気の缶詰っていうのもあったよね」

 もったいぶったように笑っていた彼女は、私の手の中の缶詰に視線を落とした。ほんの一瞬、その眼差しが哀しそうに見えたような気がしているのは、きっと私の記憶の中にその先の私の心情を投影してしまっているせいだと思う。

「あのね、この中には時間が入ってるんだ」

 蝉の声の中、彼女は確かにそう言ったのだけれど、私にはその意味がわからなかった。それで、私は何も言えずに彼女を見ていた。彼女はぱっと顔を上げて、また私を見た。その顔はもう、さっきまでと同じ笑顔だった。

「時間の缶詰。今の時間がちょっとだけ閉じ込めてある。だから、十年後くらいに開けたらきっと楽しいと思うよ」

「ずいぶんと気の長い誕生日プレゼントだね」

「十年後に開けるまで、楽しみにしてられるでしょ。その時間もプレゼントってこと」

 なるほど、と私は缶詰を持ち上げて眺めた。時間の缶詰ってどういうことなのか、本当は何が入っているのか、それとも何も入っていないのか、そんなことを想像して開けるまでの間を楽しむものなのか、と彼女の言葉を理解した。

 そうやって、楽しみにする時間が続くのであれば、実際には何が入っているのかなんてたいした問題じゃないのかもしれない。

「ありがとう。十年後の誕生日に開けてみるよ、楽しみにしてる」

 そう言って彼女を見て笑った。

 彼女は木漏れ日を受けて笑っていて、でもその笑顔を思い出しては儚げだなんて思うのは、きっと私の余計な感傷だ。きっと私は、彼女との思い出を歪めて思い出している。

 だってこの時の彼女は、自分が死ぬだなんて知らなかったのだから。もちろん、私だって知らなかった。

 だから、いつもと同じ帰り道の何気ない会話だった。あの時は間違いなく、屈託のない楽しい時間だったはずだ。

 それが彼女との最後の思い出だったとしても。




 彼女が死んだのはそのすぐ後のこと。夏休みに入って、旅行にも行くことなく。交通事故で、顔も体もひどい状態だったらしく、最後に対面することもできなかった。遺影だけが笑っていた。

 誕生日の夜に、台所から出番の少ない少し錆の浮いた缶切りを探し出して部屋に持ち込んだ。彼女の葬儀からずっと、あの缶詰を開けてしまおうと考えていた。

 床の上に缶詰を置いて、缶切りを手にする。

 この缶詰を見るたびに私は彼女を思い出す。彼女の悪戯っぽい笑みを。あの木漏れ日と蝉の声を。そして、彼女がこの缶詰の中に込めた思いを考えずにはいられない。

 私はきっとこの先、それに耐えられないだろうと思ったのだ。十年後の誕生日に開けて、その中身に笑って、彼女に「十年前の缶詰なんだけどさ」なんて話したりは、もうできない。だというのに、これを見ているとどうしても、そんな失われてしまった時間を考えずにはいられない。

 そう思っていたけれど、いざ缶切りを手に取ってみれば、缶詰を開けるのは怖かった。開けてしまえば、何かが失われてしまうような気がした。中身を見てしまえば、もう戻れない。それが怖かった。

 結局、私は缶詰を開けることができなかった。缶切りは元の場所に戻して、缶詰は机の引き出しに入れた。




 彼女の時間は失くなってしまったけれど、私には時間が遺されてしまった。

 中学を卒業して、高校も卒業して、大学に入学した。あれから五年経ってもまだ、私は彼女からもらった缶詰を開けられずにいた。

 いつもはしまっているのだけど、時々それを取り出して眺める。眺めればやっぱり、彼女のことを思い出す。思い出す彼女はいつまでも、中学生の姿のままだ。今の自分とのちぐはぐさを思うと、どうして良いかわからなくなる。

 それでも、それ以上に、時間の流れは忙しなかった。高校でも大学でも、様々な出会いがあったし様々な出来事もあった。私は新しい時間の流れに着いていくのに必死だった。

 時が止まってしまった彼女との思い出は、いつの間にか儚く綺麗なものになっていた。目の前に立ち現れる生々しさで汚れてしまうのが嫌で、私は彼女との思い出を深くしまいこんでいた。そしてそのまま、現実の生々しさに、私は呑まれてしまっていたと思う。




 ある時ふと、明け方に目を覚まして、缶詰を取り出して眺めていた。ベッドには恋人が寝ていたままだったので小さな灯りだけつけて、恋人との甘やかな時間の名残が残る肌に一枚だけ羽織って、私は床に座り込んでそれを眺めていた。

 確かにその時には、もしかしたら今なら開けてしまえるだろうかと、そんな気持ちもあった。

 いつの間にか起き出した恋人が、私の隣に座った。恋人は私の手元を覗き込んで、これは何かとか、何が入っているのかとか、そんな短い遣り取りをした。

 話の流れだったのだと思う。その手が無遠慮に伸びてきて、私の手から缶詰を取り上げた。その時に恋人が言った言葉はもう正確には思い出せないけれど、「今から開けてみよう」という意味の言葉だった。

 私は恋人のその言葉を聞いて、一瞬のうちに冷めてしまった。こんなに好きだと思っていたのに。素敵な人だと思っていたのに。全てが色褪せてしまった気がした。それとも、好きだと思ったことも、何かの気の迷いだったのかもしれないとすら思った。

 今まで甘やかだと思っていた時間を、薄ら寒く感じてしまった。そして、浮かれていた自分を思い返して、恥ずかしくなった。

「返して」

 恋人の手から、私は缶詰を奪い返した。勢いのあまり、恋人の手の甲に爪が当たって、うっすらとした傷ができてしまった。それを申し訳ないと思いつつも、頭のどこかで当然の報いだと思ってもいた。

「ごめん。出ていって。一人にして」

 私の言葉に恋人は納得いかない様子で何か言っていたけれど、私の耳にはもう言葉として聞こえていなかった。首を振って、一人にしてほしいと繰り返すしかできなくなっていた。それでしばらくして、きっと腹を立てたのだと思う、恋人は身支度をして部屋を出ていった。

 後から考えれば、あの時に缶詰を開けてしまえば良かったのかもしれない。自分一人では開けることができなかったのだから。どんなきっかけでも、誰かと一緒に開けて、中身を見て笑って、そしてその後、彼女との思い出を語ってしまえば良かったのかもしれない。悲しいけれど、綺麗な思い出として。

 けれど、私にはできなかった。

 私は恋人のことを今まで通りに素敵だと思えなくなり、恋人も私を扱いにくいと感じていたようだった。お互いになんとなく顔を合わせにくくなって、そのまま別れるに至った。

 缶詰は開けられないままだった。




 本当に、何度開けようと思っただろう。十年、もう十年も開けられずにいる。

 開けることができないその度に、私は缶詰の中身を想像する。この缶詰の中に閉じ込められた彼女の気持ちは、開けない限りはここにあり続けるのだと。

 あるいは、玉手箱を開けてしまった浦島太郎を思い出すこともある。この缶詰の中には、失われたはずの彼女の時間が閉じ込められている。開けずにいる限り、彼女はあの時のままどこかで生きているのだ。けれど、開けてしまえば、彼女はたちまちに死んでしまう。

 この缶詰が開かれない限り、彼女の時間はここに在り続ける。




 もうじき、十年目の夏がくる。彼女は言った、十年後に、と。私も答えた、十年後の誕生日に、と。

 けれど私は、開けることができるだろうか。


 この缶詰の中身は、確かに時間だ。

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