しゃぼん玉にキス

しゃぼん玉にキス

あのときキスをしたら、私たちは恋人だっただろうか。

「わかってる。だって絶対、ここにはしてくれないもん」

布団の中でそう言って、彼女は自分の唇を触った。

いじわるな目で私を見上げて。茶化した声を、少し震わせて。

彼女を初めて見たのは18歳の春、大学寮の新歓行事だった。

その時のことは本当によく覚えている。はじめましての人たちの中で、白いコットンワンピースをひらひらさせて、人から人へ、人から人へ。彼女が舞うように人の輪に加わると、その輪はたちまち笑いに溢れた。

……妖精みたい。

本当にそう思った。これが男と女の間なら、迷わず一目惚れと呼ぶんだと思う。

偶然にも私たちの部屋は２つ隣で、学校では同じ学科だった。だから自然と一緒にいるようになった。

けれど、思えばあれはきっと、自然の流れなんかじゃなかった。私が、彼女と一緒に居られるように、細い糸を集めて手繰り寄せたんだ。「学校、一緒に行かない？」とか。「授業どれ受ける？」とか。そんな小さな糸口を必死に探して、私の方から彼女の糸を引いてたんだって、今ならわかる。

朝はドアを叩いて彼女を起こし、並んで自転車を漕いで学校へ向かう。授業が終わると帰り道のスーパーで具材を買って、どちらかの部屋で鍋を囲んだ。そして、膝を抱えて一晩中お互いの話をする。初恋はパン屋の息子だった話、飼っていた猫が木から落ちた話、父からもらったシンガポール土産の話、妹ってずるいよねって話。

それまでの17年間を埋めるみたいに、私たちは毎日毎日一緒にいた。彼女と私は、晴れて友達になった。私は、そう思うことを疑わなかった。はじめて彼女を見た時の、あの衝撃はまだ残っていたけれど、彼女と私はちゃんと友達で、2人の形はすっかり出来上がってしまって、これからもこのまま続いていくんだと、私の一目惚れは「友情」で上書きすることに成功したんだと、そう思い込んでいた。

２回生になる年、私は履修していた授業が物足りなくなってしまって、やりたいことが学べる学科に転入試験を受けた。

「すごいなあ、行動力」

彼女は拗ねたように口をとがらせて言った。

「私も、授業つまんない」

一緒に転入する？と聞いたけど、彼女はそんな勇気ないよ、と呟いた。

「そういうとこ、すごいと思う！頑張ってね」と笑って言ってくれたから、本当に頑張れる気がした。その時の私は、新しいことを学べる希望に意気込んでいたし、この学生生活を充実させようと積極的だった。

新学期から学科を転入した私は学校の授業が忙しくなり、彼女と会える時間は短くなった。でも、私は彼女と一緒に過ごす生活を変えるつもりは全くなかった。私と彼女は「友達」で、一緒に過ごすことは当たり前なのだから。

でも、彼女は違った。

学校で会っても目を逸らす。ご飯に誘っても断られるようになった。そのうち連絡もあまりとらなくなり、部屋の行き来もしなくなった。

私はなにかしてしまったんだろうか。想像以上に、不安で仕方がなかった。彼女を失うのが怖い。彼女といた時間が、なかったことになってしまうんじゃないか。

自分でも自分が滑稽なくらい、必死になって彼女のことを考えていた。本当はもう、ずっと気づいていたんだ。彼女は私にとって、ただの友達なんかじゃない。もっとずっと、近くて、薄くて、脆い。

手放されて宙ぶらりんの私は、彼女の何が変わったのか、私の何が変わったのか知れずにただ日々を過ごした。彼女以外の「友達」と、それは友達らしい日々を過ごした。その度に、彼女は私にとって、決して「友達」でなんかないことを思い知る。もつれた糸を直す方法がわからないまま、時が過ぎた。

そうして銀杏がまぶしいほど黄色くなった頃、食堂の前の広場で、私たちは二人きり、ばったり鉢合った。

「……ご飯食べた？」

彼女の方から話しかけられて、戸惑う。どんな顔をすればいい？どうして今まで避けてたの？なにかを試していたの？聴けない疑問が次から次と湧いてきたけど、目の前で彼女が確かに笑ってるから、もうそれで良かった。あぁ、少し、髪が伸びたな。

それから2人で、それまでの気まずさなんて嘘みたいに、スーパーで具材を買い揃えた。そんなに食べるはずもないのに、いつもより沢山の、いつもなら食べないような惣菜やお菓子を大量にかごに詰め込んだ。

帰り道、パンパンになったスーパー袋を「重いから持つよ」と引き受けたら、彼女は

「ほんと、そういうとこがだめなんだよ」と言った。

私は、うん、と言って、横断歩道の白いところだけを踏んではしゃぐ彼女の後ろをずんずん歩いた。

私のそういうとこがだめなんだ。彼女は気づいていたんだな、と悟った。

そして彼女にとっても、私はただの友達じゃだめだったんだ。

その晩はどちらともなく、一緒に布団に入った。

彼女は私より一回り小さくて、自然と私が彼女の背中に腕を回す形になる。

私の腕の中で、彼女はぽつぽつ話した。私が離れていく気がしたこと。自分だけが特別に想っているんだと不安になったこと。同じところにいると思っていたのに、ひとりで行っちゃったと感じたこと。新しい学科で友達ができるから、邪魔しちゃいけないと思った、って、子どもみたいに泣きながら話すから、馬鹿だねほんとに、って背中を撫でた。

彼女は腕の中から顔を上げて、私のあごにキスした。

私は、彼女の髪にそっとキスを返した。

わからない。このキスが、正解なのか、もしかしたら、幻想なのか。

不思議なくらいに動揺していた。これ以上彼女に踏み込むのは果てしなく遠く、恐ろしくて、きっと、ちょっとでも触れたら割れる。この気持ちも、私たちの関係も、今の彼女も、これからの私も、この時間も。

私の顔にも、首にも、手にもたくさんのキスをして、腕の中で彼女の体が温かくなっていく。間に少し息をあげて私の顔を見上げる。

私はやっぱり彼女の髪と、求めるようにあごを上げる彼女のおでこをそっと撫でることで精一杯だった。

ふわふわと輪郭のない気持ち。シャボン玉みたいに脆くて、切なくて、愛しくて、所在ない。追いかけすぎて、壊してしまうのが怖い。

恋人と呼ぶには曖昧で、友達と呼ぶにはお互い好きになりすぎた2人は、いったいどこまで飛んでいくんだろう。

「いいよ。このままで」

私の迷いを悟ったみたいに彼女が言った。

「わかってる。だって絶対、ここにはしてくれないもん」

彼女は自分の唇を触った。

いじわるな、全部わかったような目で私を見上げて。

茶化した声は、少しだけ震えていた。

そして彼女は最後に、私の頬にひらりと小さなキスをした。