反面教室

QUILL

 

 私のたんにんの先生は、どこかおかしいです。うまく言うことが私にはできないのですが、とにかく私にだけはいつも変にやさしいんです。正直、とても怖いです。



 学年主任である私の机に置かれた一枚の手紙。差出人は三組の南由利香。

早朝の職員室に同僚は一人もおらず、小鳥のさえずりも聞こえるくらいに閑静だ。昨日は午前授業だったので私の帰った後にこの手紙を置きに来たのだろうと、生徒の顔を思い浮かべる。


彼女の両親は共に超一流企業の社員だったが、父親と母親は幼い頃に離婚したらしく、それからは母親が女手一つで彼女の面倒を見ているという。母親が勤めているというその企業の名前を聞くだけでも、給料が平行線の教師という職業に嫌気が差してしまうが、今はこの手紙の内容に学年主任として何かしらのアンサーを出さなければならない。時計が六時を指したと同時に菜津奈なづな先生の机に目を遣った。






 人によって契約された賃貸住宅で目を覚ますと、今日も気怠い一日が始まるのだなと布団から抜け出してカーテンを開けた。腰まで伸びた長い髪を手入れするだけでも時間が掛かる。朝からぼんやりしていたせいで黒焦げのトーストを食べなきゃいけなくなったが、文句を言っている暇もなく七時二十分に家を出た。教員の朝礼は七時半からで、学校までの時間は約十五分。急げばギリギリというところだった。


ガラクタのようにボロボロの自転車を目一杯漕いでいると、突然風を切ることができなくなった。長すぎる髪が道のフェンスに絡まっていたのだ。最悪な朝だ。三十分以上かけて手入れしてきていた髪を丁寧に解くと、厄を祓うように念仏を唱えながら自転車を再び漕ぎ出した。


五分遅れで学校に着くと、校門付近の職員用駐輪場に自転車を乗り捨て、職員室に飛び込んだ。自分の机に荷物を置きに行く時に陰口が聞こえた。

学年主任の教師が「菜津奈先生ギリギリでしたね! 今始めようとしていたんです!」と笑顔で言うので、いつも通り睨みつけると、「今日も宜しくお願いします!」と高らかに声が上がった。






 一階の職員室を出て、二階にある教室へと向かう。その道中の階段で、「行きたくない」とごねる少年と厳しくそれを叱り突き放す母親が目に入る。この年頃ならまだこういう光景を目にするのも不自然ではないが、流石に毎日この光景を朝から目にするのは気が滅入る。そんな親子をするりと横切って教室のドアを開けると、楽しげにどうしようもない冗談を話すランドセルの後ろ姿が目に入る。


「さあ座りなさい」


着席を促すと、自分を見るなり生徒の顔がにやけるのが分かった。「今日の先生、山姥みたいじゃね?」と笑う生徒たちには殺意こそ湧いたものの自分が教員の立場であることを思い出しなんとか飲み込んだ。そんなこんなでいつも通り朝の会が始まる。今日の日直は直斗くんと由利香ちゃんの二人だった。それにしても、ぶっきらぼうな直斗くんの横で天使のような笑顔を浮かべる由利香ちゃんが可愛い。できるものなら攫ってしまいたいが、そんなことは立場上無理なので諦める。今日も憂鬱な一日が始まろうとしている。






 菜津奈先生が私を見る目はいつも優しい。けれど、私にはそれが気味悪く感じる。先生が他の子に向ける顔はあくまで生徒と先生という空気の壁が見えるが、私にだけはそれが見えない。


私は怖くて、つい昨日、学年主任の先生にそのことを相談した。私が登校した八時過ぎには、机の中に返事の手紙が入っていた。内容は、それについて詳しく調べてもらえることと先生も秘密にするから由利香ちゃんにも口外しないでほしいということだった。そして手紙の最後には「こまったときにはいつでもたよってきてね」と言葉が添えられていて、心の底から安心できた。


今この瞬間も、母親以上に慈しみに満ちた目で朝の会の司会進行を見つめられているが、やっぱりこのままいけばこの先危ない目に合う気がして仕方がない。私は菜津奈先生と少し距離を取ってみることにした。






 カレンダーをぼんやり見てみると、びっしりのシフトに狂気を覚えた。久々に取れた休日は、何をしようということもなくただ過ぎていく。ソファに身を委ねていると、暮れゆく街に五時の鐘が鳴った。「そろそろ由利香が帰ってくるわ」と、ゆっくりソファから立ち上がる。


日当たりを重視して構えた一戸建てはいつも温かみがあると思っていたが、私一人になってからは夜に帰ることも多くなった。窓硝子から見えるシルエットは知らぬ間に背が伸びていて、寂しながらも逞しさが出てきたように見えた。


今日は久々に由利香とお菓子を食べよう。そう思って棚を覗いてはみたが、もはや最近は買ってきてもいなかった。今から買いに行くか、娘を待っていようかと迷っているとドアが開いた。由利香が帰ってきたのだ。「あれ、お母さんいるの珍しいねー」と娘は目を丸くした。お菓子を買いに行こうとしていたことを伝えると、娘は久々に笑った。断る理由もないというような感じで快諾してくれたので、一緒に家を出た。


駅前のスーパーマーケットまでは徒歩五分ちょいといった感じで、そこまでの道を二人手を繋いで歩いた。仕事をしている時、何のために働いているのか思い出せなくなる夜がある。そんな時に娘が居たらいいのだけれど、決まって私一人がオフィスの隅で涙を流している。今はせっかく隣に娘がいるのに、ふとそんなことを思い出してしまう。思い出してしまった嫌なことを振り払うように頭を横に振ると、突然、娘が一歩後ずさりをした。


「どうしたの?」


「あそこに担任の先生がいるの」


娘が声を潜めて言った。


「挨拶でもしたらいいじゃないの?」


そう言うと、娘は大きく首を横に振った。


「どうして?」


怯えるような顔をした娘に合わせて私も声を潜めて聞いた。


「あの先生、私にだけは変に優しいの」


「変って? それ良いことじゃない? 気に入られてるってことでしょ?」


疑問符を重ねると、娘は声を大きくした。


「私を狙ってるの!」


私ですらほぼ聞いたことのなかった娘の大声に、道行く人のほぼ全員が驚いた顔でこっちを見ていたので、一度頭を下げると、数秒後には何も無かったように再び時間が流れ始めた。けれど、その声はもちろん数メートル先の担任にも聞こえてしまったようだった。


花屋の軒先に立っていたその女は、黒いコートに紫色のスカーフを巻いていた。髪は腰まで伸びていて白みだらけだったし、ひどく傷んでいるように見えた。コートも皺だらけで、全体的に不潔な女という印象だった。年齢は六十代くらいの老けた印象で、定年間近といったところだろう。それでいて厚化粧だから素顔が分からず、花を持っているのもあってか不気味に見える。


嫌悪感を持ちながら一瞥すると、その女はなぜかこちらにやってきた。


「由利香ちゃんのお母さんですか? 私、担任の歌方菜津奈と申します。娘さん、優しくて可愛くてとても良い子ですよ。」


饒舌に話す女に違和感を覚え、「そんなこと知ってますよ」と冷たく返すと、「ああそうですか、ではごきげんよう」と捨て台詞を吐いて花屋の方へ再び戻っていった。


「気持ち悪い先生だね」


娘に少し同情するように女のことを批判すると、さっきまでずっと俯いていた娘が顔を上げた。

「ねぇ、私に何があっても守ってくれるよね?」

何かを予期しているみたいな言葉に「当たり前じゃない」と返すと、久々に娘のことを思い切り抱擁してやった。遠くの空に稲妻が光ったのが見えた。






 さっきは商店街で南親子に会ったが、母親が思ったよりも母親らしくて苛立った。私は花屋で買った自分と同じ名前の花を、南由利香に渡しそびれてしまった。花を一度、家に置いていくと、今度は商店街とは反対側を目指した。反対側には住宅街があり、その中に目当ての場所があった。


「ただいま」


年中、簾で覆われた引き違い戸を開けると、鏡を覗き込んで自分の顔を凝視する女がいた。


「おかえりなさい。今日もそこそこ上手にできてたわよ」


女は口紅をひたすら塗り込みながら、茶封筒を私に差し出す。


「これ今日の分ね」


「ねぇ、もうやめた方が良いんじゃ……


「うるさい! さっさと自分の家帰って!」


言いかけた言葉を遮るように、女はヒステリックな声を上げた。驚くほど暗い家を出て、私は家を目指した。






 お菓子を二人で選ぶ時間は夢のようだった。もはや最近は激務を重ねすぎて、夢を見ることさえなくなっていたけれど。


空が暗くなり始めた帰り道、娘に担任の先生のことを軽く聞き出してみた。


「ねぇあの先生の名前って本名なの?」


娘は駅前の交番を見ながら答えた。


「わからない」


話をしたがらない娘にこれ以上深入りするのも良くないと思い、そこまで聞いて切り上げることにした。その後は、娘の恋愛相談に乗ったり学校の珍エピソードを聞いたりと、ごく自然な親子の会話をしていた。一緒に手を洗ってポッキーを食べたり知育菓子を作ったりして、醒めない夢ならいいななんて思った。けれど、サイダーみたいに弾ける時間はあっという間に夜になった。






 見上げるほどに重なったマットに咳込む。よりによってこんな場所を選ぶんじゃなかったと後悔する。今日は三組の南由利香から担任がどうおかしいのかを少し聞き出すことになっている。呼び出したのは体育館の奥の方にある今は使われていない倉庫。なぜそこなのかと言うと、もちろん担任の菜津奈先生に勘付かれるとまずいことになるからだ。しかし、それにしても、こんな湿っぽい場所を選ぶべきじゃ無かった。


五分ほど待っていると、入り口付近に張り巡らされた蜘蛛の巣の奥から南由利香が姿を現した。


「菜津奈先生の件ですよね」


「そうよ。先生は具体的に何がおかしいの?」


彼女は少し考えていたが、部屋の隅に張られた蜘蛛の巣とそれに食われた害虫を見て言葉が纏まったように言った。


「私をきっとさらおうとしてるんです」


「根拠はあるの?」


そう聞くと、彼女は目を泳がせながら言った。


「前の担任もきっとさらわれたんです」


「あらそうなの? 実は私、菜津奈先生より後に越してきたから前の担任のことあまり知らないのよ」


「とにかくあの先生を遠ざけてもらえると安心です」


「わかったわ」


担任を怖がる純粋な少女を見て、私はほくそ笑んだ。






 昼休みになると、クラスのレク係が声を上げた。


「今日は鬼ごっこをやりまーす」


私は教室の片隅で本を読んでいたい気分だったのだが、レク係が全員参加だとわーわー喚くので仕方なく教室を出た。グラウンドに上がると、なぜか先生が立っていた。


「あら、由利香ちゃん珍しいじゃな〜い」


はめられたと思い、レク係を睨みつけたが、気付かないふりをしているようだった。


立候補制で鬼を決め、グラウンドに散らばった。嫌になるような晴天の下、カウントはゼロに近づくにつれて高鳴りを帯びてゆく。ゼロになった瞬間、先生は物凄い勢いでこちらに向かって駆けてきた。遊具の陰に身を隠す私は一気に鼓動が速くなったが、必死で息を潜めた。


ドク、ドク、ドクドクドク、あっ……!


鼓動を数えている間に私は菜津奈先生に捕まっていた。まるで私の居場所を知っていたみたいに。


「ねぇ、話があるんだけど」


菜津奈先生が私の首筋をそっと舐めた。艶かしい音がする遊具の陰、全身が粟立った。


「やめてくださいよ……!」


半狂乱になりながら校舎に向けて走り出すと、先生は私を狩るような目で追ってきた。「あんたが私の首をねるの!」と意味不明なことも叫んでいた。


「知らない! 教育委員会に今のこと言っちゃうから!」


私がそう返すと、先生の足は止まった。陽炎の中でよく見えなかったが、先生は私に首を刎ねるような仕草を見せているようだった。






 残業が終わり、深夜の職員室でマッチングアプリを開く。誰かとマッチングできているだろうか?そう思って通知を見ると、圭介という男性と私はマッチングしたようだった。メールで「今夜会えたりしますか?」と聞くと、「いいよいいよ!」と五分も経たないうちに返信が返ってきた。待ち合わせ場所には駅前を指定されたのでそこへ向かった。私はさっと会える人としか付き合えないので近場で絞って彼氏を探していたのだ。


メールでは銅像の横に立っていると送られてきたので、言葉通りの場所に立っているガタイの良いサラリーマンを見た。


「こんばんは、河村恵子さんですか?」


私の視線に気付いた彼は、私の元に寄ってきてくれていた。


「あ、今夜はよろしくお願いします」


まるで捨て猫のような上目遣いをすると、一瞬彼は欲情したように見えた。雨の降る駅前を二人、傘を差して歩き出した。


「どこに行きますか?」


分かっているのに訊ねると、彼は私に右手を差し出した。


「一晩、雨が凌げる場所だよ」


これで私の今日の頑張りは報われるんだなと思い、右手をぎゅっと握り返した。雨が強まってくると、私たちはあっという間にホテルの前にいた。私はあなたの言う通りにしますと言うように傘を閉じると、彼は私のことをそっとエスコートしてくれた。部屋に入ってから、行為に移るまでは早かった。雨が窓を打つ音もほぼ聞こえなかったと思う。


一回目が終わると、二人で長いキスをした。私の濃い赤色の口紅が彼の唇にも移った。


「私、結婚を前提に正式にお付き合いしたいです」


服一枚も纏わぬままそんなことを言うと、彼は私を抱き寄せて耳元でそっと囁いた。


「じゃあ生でも良い?」


私は頷いたと同時にベッドに押し倒された。ぐちゃっと汚い音がしたけど、それも全部ひっくるめて気持ち良いと思った。ずっと続いて欲しい夜だった。






 朝の日差しに汗を止められず、鬱陶しさを感じていると朝の会が終わっていた。私は担任をする教室を出て、図工室の鍵を開けに行った。今日はのこぎりを使う授業だったので、図工科準備室に入る。窓ガラスに映った自分を眺め、のこぎりに長い髪が巻き込まれるのを少し危惧したが、そんなに危険な授業をするつもりはなかったので大丈夫だろうと考えた。


のこぎりのたくさん入った木箱を移動し終えると、止まったはずだった汗が再び滲んできた。息つく間もなく授業が始まると、私はスイッチを入れた。


「気を付け、礼、お願いします」


最初に単元の説明をして、早速木の板をのこぎりで切ってみさせることにした。木の板はホームセンターに行けばすぐに手に入れられそうな比較的安価なものではあったが、ダンボールくらいしか工作に使ったことのない小学生にはとても扱いが難しいものだった。授業のテーマはそこまで決まってはいなかったが、のこぎりを用いて一番芸術的かつ技巧的な作品を創り上げた者は市の展覧会に展示することになっている。生徒たちは配られた木の板と鋭利なのこぎりを見つめながら唸っていたが、芸術センスが高そうな眼鏡の少年が一番に手を動かし始めた。それに触発されるように周りの生徒たちも手を動かし始めた。


クラスの半分程度が作業に入ると、私の大好きな由利香ちゃんも手を動かし始めた。木の板を円形に切ろうとしていたが、のこぎりでは小回りが利かないので苦戦していて怪我をしそうだった。流石に危ないので「手伝ってあげるわ」と肩に手を置くと、「触らないでください!」とまたもや拒絶するように言われた。私は頭にきて「そうかい、じゃあやってみなさいよ!」と強めに言うと、しゃがんでのこぎりを覗き込むような姿勢を取った。彼女はのこぎりを前後に動かした。


「痛い!」


彼女の動かしたのこぎりは私の首の皮膚を削いだ。全部計算通りだった。鮮血が飛び散ると、意図したように彼女の板にだけべったりと付着した。


「うーわ由利香怖ぇ……。菜津奈先生の首切っちゃってんじゃん……」


男子生徒が叫ぶと、皆が振り返り悲鳴をあげ、私に同情してくれた。


翌日から彼女の周りには誰も寄りつかなくなり、彼女は殺人犯呼ばわりを受けていた。これで私以外に彼女に近付く者はいなくなる。首の傷なんてちっとも痛くはなかった。






 産婦人科も入った総合病院の待合室は、日曜日なだけあって物凄く混雑していた。呼び出しのモニターにはディズニーランドの様な待ち時間が表示されている。不動産屋に勤務する圭介は、いつも横で私を安心させてくれる。今この瞬間も。私が今日、産婦人科に来た理由は、妊娠をいつまでも出来ないからだ。初めて出会ったあの夜から抱き抱かれ、どれだけ身体を重ねても子供を身籠ることは出来ていない。そうこうしているうちに私はまた一つ歳を重ね、居ても立っても居られなくなり、圭介に相談したのだ。


朝早くから来たのに昼過ぎまで待たされているので、空腹は限界に達し、病院をひとまず出た。病院の面する表参道の大通りには高級ブランドが軒を連ねており、食欲は物欲に負けて吸い込まれてゆく。シャネルを見た後、ヴィトンを見ていると、圭介からもっと節約しなよと言われたが、女性は常に着飾っていたい生き物なのだと耳を貸さずに散財した。その後、食事はそこらへんの小洒落たカフェで済ませ、病院に戻った。


モニターに目を遣ると、もうあと五組くらいのところまで診察は進んでいた。病院の真っ白な壁を見て不安そうな顔を浮かべる圭介に、「きっとなんとかなるわよ」と声を掛けた。そのうち自分の順番が来て、治るに違いないと信じて疑わないまま席を立った。


「私は子供を無事に授かれるんですよね?」


扉を開けた直後に医師に向けて問うと、医師は表情を曇らせた。


「ひとまずお掛け下さい」


荷物置きにさっき買ったエルメスのバーキンを置き、椅子に腰掛けると、医師が口を開いた。


「あなたの症状はあなたが思われているように不妊症という病気です。もちろん不妊症という病気には治療法があるので、治療されるかどうかはあなた自身が選んで構いません。しかし、統計的に見まして、三十五歳を超えるとそもそも妊娠しづらくなるんです。それなりにお金もかかりますから、不妊治療は医師の立場からしてあまりお勧めできません」


まるで舞台俳優の主役が最後の長台詞を言い終えたみたいに、医師は一瞬安心した顔を見せた。


「もちろん治療しますよ!」


私がカッとなって叫ぶと、医師は一瞬怯んだ。


「分かりました。では治療の手続きを進めてまいりましょう」


治療はきっとうまくいく。そう思って病室を出た。






 結局、不妊治療はいつまで続けてもお金だけが飛んでいくばかりで、子供を授かることは出来なかった。コウノトリは人を選ぶんだろう。そんなことを思いながら涙に暮れる日々が、もう嫌になった。ある日の夜、圭介の部屋で「もう不妊治療やめにしようか」と呟くと、圭介は静かに頷いて「今までお疲れ様」と後ろから抱きしめてくれた。そのまま子供を授かるためではない夜の愛を交わした。コトが終わると、私は「そこで私に考えがあるんだけど」と乱れたベッドの上で囁いた。


「考えって何?」






 黒くどんよりとした雨雲は、私の行く手を阻むように帰り道を進むにつれて濃くなった。こんな日に背負うランドセルはいつもの数倍重く感じる。屋根のある商店街を抜けると、見計らったように雨が降り始めた。傘を叩く雨粒が強くなるのを感じ始めると、もう家の目の前まで来ていた。


「あれ?」


よく見ると、庭へ繋がる窓が開いていて、中のカーテンがびしょびしょになっていた。そこから中に入ってもよかったのだが、嫌な気配を感じ、私は身を隠しつつ開いた窓の隙間から部屋の中を覗き込んだ。


見ると、仏壇の横にある金庫を物色している赤いコートの後ろ姿が見えた。腰まで伸びた髪はびしょ濡れで、綺麗だったフローリングを水浸しにしていた。


「先生……?」


思わず声を出してしまうと、女はこちらに振り向いた。


タタタタタタタタと、女は一目散に玄関へ駆け出した。刃物を持った右手に怯えて、私は庭へと逃げた。女はうちを飛び出して、向かいに止めてあった黒いバンに乗り込んだ。


あれ、今日ってお母さん休みのはずじゃ……。


お母さんがもしかしたら連れ去られているかもしれないという危機に気づいて黒いバンを追うが、追いつけないまま遠くの方に消えてしまった。






 一通りお母さんの行きそうな商店街や近くの百貨店などを覗いたが、やはりお母さんは見つからなかった。雨が止み、この心とは裏腹に虹のかかった空を見ながら交番に来た。


「お巡りさん、私、お母さんがいなくなっちゃったんです」


「はぐれちゃったってことかな?」


鈍感な警察官に苛立って、「さらわれたかもしれないんです!」と叫ぶと、警察官は首を傾げた。


「犯人はちなみに見たのかい?」


「思い当たる人がいるんです」


歌方菜津奈の名前を出すと、奥の方からもう一人の警察官が顔を出してきた。


「何? 誘拐事件か何か?」


「どうやらそのようですね」


夜になると、大捜索が始まった。






 交番の奥の四畳半ほどの小さな部屋で、指示が出されるのを待っている。お母さんがいなくなってから五時間ほどが経っているが、未だお母さんが見つかる気配はなさそうだ。お母さんの捜索には、県警からも警察官が動員されているらしく大掛かりなものだった。それにしても見つからないということは、本当にお母さんはあの時さらわれたのかもしれない。私は危険が潜んでいるという理由で今夜は家に帰れないらしい。交番の用心棒に残された一人の警察官は、私が今日寝泊まりする場所を必死に探してくれているようで、ずっと忙しなく電話を掛けていた。


「由利香ちゃん、今夜は直斗君の家に泊まれるみたいだよ」


警察官の言葉を聞くと、私は重い腰を上げた。






 そこらへんのホテルよりも上質なサービスを受け、直斗の家から学校へ向かっている。直斗と二人きりの道中はどこか気恥ずかしくて、お互いにそっぽを向きながら歩いていた。一人っ子の私は、この雰囲気を兄妹みたいだと思ったが、直斗にそんなことを言ったら絶対的に嫌がられる気がしたのでやめておいた。


昨晩、交番で用心棒をしてくれていた警察官曰く、お母さんが本当に見つからなかった場合は親権者を探さなければいけないらしい。


いつもより早く学校に着き、教室に入ると、私の席に菜津奈先生が座っていた。蛍光灯の灯っていない教室で、一点を見つめて動かない先生は凄く不気味だった。まだ警察の手は伸びていないのだろうか。秒針が刻む時間の音だけが響く空間で直斗と私が立ち尽くしていると、沈黙を破るように先生が口を開いた。


「由利香ちゃん、今日から私の家に来なさい。お母さん亡くなっちゃったんでしょう? 私が引き取ってあげるわよ」


十秒くらい、彼女の言っていることが理解できなかった。お母さんを誘拐した犯人はお前じゃないのか……?お母さんが亡くなった?そんなことがあってたまるか。というかそんな話をどこで聞いたんだ。心の中で目の前の女に対して嫌悪や侮蔑というような黒い感情が沸いてきた。


「はぁ? あなたが犯人でしょう?」


怒りを全て吐き出すように言うと、先生は顔色を変え、私の方にずかずかと進んできた。


「あなたは私のことを避けたのよ! そして私を殺そうともしたじゃない! ほら見てこの首の傷! あなたがつけたのよ! あなたは私に逆らえない!」


そう叫ぶと、先生はポケットからナイフを取り出した。昨日、犯人が持っていたものと全く同じものを。


直斗が反射的に私の手を引き、駆け出した。追いかけてくる先生を振り返ることもせず下駄箱まで行くと、上履きを履いたまま学校を飛び出した。のろのろと学校へ向かう通学班を避けて曲がり道に入ると、意外と至近距離まで先生が来ていることに気付き、遮断機が降り始めた踏切を走り抜けた。


振り返ると、遮断機がほぼ水平になりかけてたところに先生が飛び込んできた。


「あっ!」


声を出した時には、目の前を電車が遮っていた。ドンと嫌な音がして、電車が通り過ぎた後、先生は死んでいた。私は取り乱して、その場を逃げ出してしまった。






 次の日、学校に行くと、机にマーカーで暴言が書かれていた。「人殺し」という言葉や、「お前が先生の命を奪ったんだ」と私を責め立てる棘のような言葉の数々だった。


「由利香ちょっと来て」


後ろから肩を叩かれ、びくっとすると直斗が立っていた。直斗についていくと、パソコン室に通された。直斗が学校の裏掲示板を開くと、恐ろしいものが載っていた。



〈南由利香! 担任の菜津奈先生を踏切で押し倒し殺害……!〉



 匿名性を利用して、悪意ある内容を書いた誰かに対し悪寒が走った。黒い背景に赤い文字が揺れ、いつの間にか涙が出ていた。下の方までスクロールすると、証拠写真というように、菜津奈先生が倒れている写真と、私が取り乱して逃げ出した時の写真が載っていた。


「これ、みんな信じてるのかよ……」


私が完全に被害者だったことは、今隣で私のことを誰よりも心配してくれている直斗にしか証明できない。けれど、なんでこんなにも私が酷い目に遭わなければいけないのだろう?


「由利香、俺らがあいつにしてた事とこの一連の出来事って関係してたりしないかな?」


私は一人の女の顔を浮かべた。






 それは、去年の担任の先生のことだ。駆け出しの新米ということもあって、私が子供たちを立派に育て上げるんだ!と人一倍張り切っている女だった。


私はその女が心の底から嫌いだった。


そんな日々の中で、事件は起こった。


私がいつもの通りに飼育委員会の当番の仕事を済ませた次の日に、飼育小屋が破壊されていたのだ。結局、犯人は名乗り出ることもなく私が犯人扱いをされた。小屋の修理費は全て母親に請求が行き、困窮した私たちの暮らしを脅かした。そんなことを私はしないと分かってくれている友達は、先生を懲らしめようと立ち上がってくれた。学級委員長の佐伯涼真も「俺、由里香のこと助けてやるよ」とクラスメイト全員を立ち上がらせてくれた。私は先生に復讐をするというように、次の日から先生に壮絶ないじめを仕掛けた。教室のドアを開けた先生にバケツで水を被せ、近くにあった金属バットで思う存分殴った。教壇に縄を張って、先生を顔から転けさせたりもした。そんなことを続けていたら、ある日先生は学校に来なくなった。理由は明白だったが、代わりの先生は行方不明になったと言った。教師たちは、私たちがやっていた壮絶ないじめから目を背けているようだった。


「俺さ、最近見ちゃったんだよ」


直斗に声を掛けられて回想を止めると、外には雨が降っていた。


「何を?」


聞き返してみると、さも恐ろしそうな顔で直斗は話し始めた。


「俺が最近、隣町に出かけた時の話なんだけどさ、たまたま葬式場の前を通りかかったんだよ。そしたら、河村って方の葬式をやってたみたいだったんだ。もちろん、そんなにジロジロ見るのも良くないからさ、そのまま通り過ぎようとしたんだよ。でも、恐ろしい光景を目にしちゃったんだ。怖いなぁ怖いなぁ」


怪談の語り部のような喋り方に苛立って「早く話して!」と急かすと、直斗は少しだけ口調を早めた。


「その葬式は、親族だけでやってたっぽいんだけどさ、霊柩車に棺が運ばれてきた後出てきたのが……


「由利香ちゃん、ちょっと話があるんだけど」


私が気づかぬうちにパソコン室の入り口には学年主任の先生が立っていた。直斗は来た瞬間を見逃さなかったようで、口を噤んでいた。いつもより化粧が濃い先生を気味悪く感じていると、直斗に背中を押された。


空気の違う廊下に出ると、二度と戻って来れないような気がした。






 先生は振り返ることもなく言った。


「机にあんなもの書かれて可哀想ね。酷い人間がいるもんだわ」


「どうしてあんなことされるんでしょうか」と聞き返すと、先生は長い廊下の途中で足を止めた。


「あら、分からないの」


私は一年前のことをわざわざ今年来た先生には話したくないと思い、黙った。数秒間時間が止まったような廊下には誰一人として通ることはなかった。


「なんて、冗談よ。何事にも原因があるから気をつけたほうがいいわよって私は言いたかったのよ」


先生は振り返ると笑いながらそう言った。


「ねぇ、今日から私の家の子供にならない?」


スロットのように表情を変えた先生の顔を見て、私は頷くことしかできなかった。






 先生の家に着くと、先生は身長よりも高い門扉を前にして、スイッチを押した。ガガガガガと音を立てて開いた門扉の間を通ると、豪華絢爛な住宅がはっきりと見えた。


こんな住宅が隣町にあるとは知らなかった。噴水は無かったが、幼い頃に絵本で読んだような豪邸を目の当たりにして怖気付いていると、後ろから「さぁ行きましょう」と先生に肩を叩かれた。迷路の様な長い玄関アプローチを進んでいると、後ろの方でガガガガガと、さっき入ってきた門扉が閉まる音がした。もう帰れないような気がしてちょっと怖かったが、先生は足を止めなかったので、私は前に進むしかなかった。


庭には色々な花が咲き乱れ、野菜を育てる家庭菜園があった。とはいえ、それはほぼ畑の規模だった。ただ、少し不思議に思ったのが、そこには異常なまでに異臭が漂っていたことだ。中央に一体、肉ばかり食べて肥満しているような、畑には不調和な案山子かかしが立っていたが、どうやらその辺から臭う気がした。尋ねると、先生はこう言った。


「野菜の肥料っていうのはこんな臭いがするのよ。全く今の子は、スーパーマーケットでしか野菜に触れていないから、肥料の臭いなんかにも敏感に反応するのね」


私は納得がいかなかったが、そこを先生が離れていったので、私もそこを立ち去った。


けれど、玄関までの道に立ち並ぶオリーブの木々は素敵で、前じゃこんな家には住めなかったななんて皮肉なことを思った。画廊のような狭い道を抜けると、この家の顔が姿を表した。玄関の上は、ほぼ全面がガラス張りで吹き抜けになっているようだった。家の外壁には漆喰が塗られていて、角の辺りにはタイルやレンガがあしらわれていた。


「お邪魔します」


重厚感ある木製の扉を開けると、中央には階段があって、二階、三階へと続いているようだった。


「まずは手洗いうがいをしようね」


先生が玄関でマスクを外した瞬間、私は血の気が引いた。あの女だ。目の前にいるのは、私が去年いじめていたあの担任の女だ。マスクの上は整形してたのだろうか、目や鼻の形から全く気が付かなかったが、噛んで噛んで噛んで噛んで腫れ上がったようなたらこ唇は確実にあの女のものだった。


ニヤリと笑った女は、下足入れの上にあったトレーにマスクを置くと、私に一歩ずつ近づいてきた。私は後ろの階段に気付かずに足を引っ掛けて思い切り後頭部を打った。


「痛っ」


素早くロープで縛られ、私は飼い犬の様に引っ張られた。そのまま失神スレスレの状態で納戸に連れて行かれた。足と手が縛られた私は、思いきり段ボールの山に投げられた。


ドアを閉められ施錠をされると、私は死んだように眠るしかなかった。日光がほぼ入ってこない納戸は、昼間でも夜のような暗さだったが、日が落ちると真っ暗で何も見えなくなった。






 眠りから醒めた私は、納戸が面する廊下の奥の方から誰かが近づいてくる足音を聞いた。部屋の前で足音が止まり、牢屋の鍵が開いた。


廊下の光を背にシルエットになった誰かは、男の体格で、恐らくあの女の夫だった。男は近づいてくるなり私の腹に思い切り蹴りを入れ、「俺の妻をよくも傷つけてくれたな!」と怒鳴った。腹の虫が治まらない様子の男は、私のことを気が済むまで殴った。そして、男は煽るように言った。


「ちょうど子供もできなかったし丁度良いなぁ〜今日からはうちの子だからなぁ?」


私は地獄の様に救いのない日々を覚悟した。






 明くる日、男は部屋に改造したような電撃殺虫ラケットとバケツいっぱいの水を持ってきた。這いつくばって逃げようとする私を捕らえ、水を浴びせると、電撃殺虫ラケットを思い切り私の皮膚に当てた。


「痛いっ!」


バチバチと音がして、皮膚がひどく腫れ上がった。それからも、突然牢屋を出してもらえたと思えば冷たい浴槽に顔ごと埋められたり惨い拷問が半年ほど続いた。それに加えて、食事もろくに与えられなかったから、生き地獄のような日々に自殺したくなった。けれど、自殺をする道具さえ、私には与えられなかったのだ。






 意識が朦朧とし始めた頃、河村恵子は私の元に来るとこんなことを言った。


「由利香ちゃん、もうここまで復讐を受けたら過去のことは反省したでしょう?」


こくりと頷くと、彼女はニヤリと笑って話を続けた。


「もしあなたが私の要求を飲んでくれたら、今日付で復讐は終わりにしてあげてもいいわよ。これからは私の目的達成の為に、私の元で働くのよ」


目の前の女がよからぬ事を考えていることだけは分かった。けれど、もう精神的にも限界を迎えていた私は、この生活から脱出できるのならと思い、あっさり口を開いた。


「私は何をすれば良いんですか?」






 僕のクラスメイトだった南由利香は、あの日を境に学校へ来なくなった。その日の放課後、僕は彼女と学年主任の先生が車で学校の外へ出ていくのを見た。何かあることは察していながら、僕にはどうすることもできなかった。僕はただ、黒いアウディが遠くへと消えていくのを見届けた。次の日になって学校に行くと、「南由利香さんは転校されました」と教師は明らかに嘘をついた。


彼女のことを助けてやれなかった後悔を引きずりながら、僕は中学生になってしまった。今思い返すと、学級委員としても、一人の男としても情けなかったと思う。県道沿いに並んだ桜の花びらが散りゆく様を、感傷的な気分で眺めた。


朝の鐘が鳴って、我に返ると、担任の先生が入ってきた。だが、それを見て、僕は愕然としてしまった。つい最近卒業したばかりの母校の学年主任だった教師が担任になっていたのだ。


「今日から一年A組の担任になりました、河村恵子と申します。この時間は自己紹介をしていきましょう」


小学校の時には名前を聞いたこともなかったその女は、平然と教壇で名を名乗った。


河村……?河村という苗字は、去年の地元新聞の事故の記事で見かけたような気がするが、誰だったかまでは思い出せない。担任の女は僕の戸惑いに気づかないように、淡々と指示を出していった。


隣の人、前後の人、気になる人という順で自己紹介をし合っていく流れらしい。気になる人に話しかけに行くというスタイルを取ったところで、初日からそこまで積極性を出すような奴はいるのだろうかと疑問を持ったが、それよりも、自分の中で渦を巻く何とも言えない担任への不信感の方が気になった。


まずは隣の女子からだったが、その隣の女子は見た瞬間から目を奪われる様なルックスだった。やや紅潮した頬に艶のある髪、人形のような整った顔立ちを見て、彼女を射止めたいと思った。出来もしないことを言って見栄を張ると、彼女は目を輝かせて言った。


「もし良かったら今日、私の家に来ませんか?」


僕には断る理由が無かった。






 彼女は、自分の名前を美波と名乗った。僕の中学校は、小学校からの友達が意外と少なかったので、友達を作るのが大変そうだ。ただ、彼女を作るのは案外上手く行きそうだなと隣の美波を見ながら思う。中学校の横の、傾斜が急な坂を一段ずつ「よいしょ」と言いながら下りていく後ろ姿はとても愛おしかった。

坂を下りると、歯医者さんがあったりスーパーマーケットがあった。十五分ほど歩くと、住宅街の中に自分の家を見つけたが、彼女に腕を引かれ、通り過ぎた。「遠くない?」と僕が話しかけると、彼女は「でもうちめっちゃ広いし綺麗だから楽しみにしておいてね!」と言った。


合計三十分ほどで、やっと彼女の家に着いた。彼女の家は想像以上の豪邸で、入るのも躊躇してしまうほどの規模感だった。


「じゃあ行こっか」


手馴れた手つきで彼女はスイッチを押すと、門扉はガガガガガと音を立てて開いた。踏みしめるような足取りで中に入ると、門扉は勝手に閉まった。豪華な建築を見ていると、ワクワクする気持ちが強くなっていった。玄関まで着くと、ドアを開ける前に美波は「お母さんにちゃんと挨拶してね」と言ってインターホンを押した。


「はーい!」


甲高い声が聞こえたと思うと、扉から顔を出したのは担任の河村恵子だった。


「美波、どういうこと?」


僕が尋ねると、彼女は顔色を変えてこう言った。


「まずは人助けする勇気でも先生に教えてもらえよ、イキリチキン野郎が」


はっとした。僕が狙っていた女子は、いなくなった南由利香だ。去年は眼鏡をしていたから、おおよその印象でしか見ていなかったが、彼女は綺麗な顔立ちをしていた。


でも、なぜだ?なぜ、僕が今この二人に囲まれている?二人はグルなのか?


「何突っ立ってんだよ、先生いるんだから早く教室入れよ」


意味不明なことを言う南由利香に首を傾げると、担任の河村恵子はこう言った。


「あなたは今日から私の子供になるの」


「は? 俺、親いるし」


「もういないわよ」


「何言ってるんだよ!」


声を上げた途端、後ろからガタイのいい男に蹴りを入れられ、数メートル飛ばされた。全身に走る痛みを庇っていると、頭を掴まれた。


「お前さ、俺の奥さんに去年何してくれた?」


あまりの形相に震えると、後ろで扉が閉まった。


「随分と躾がなってないのね。最初から私の元に生まれてくれば良かったのに」


恵子は閻魔のように笑った。






 佐伯涼真を誘拐し、その上、私と同じように復讐という名の暴行をしようとしている先生の取り憑かれたような顔を見て、私は我に返った。


——自分は、我が身の為に犯罪に加担してしまったのではないか…。


そう思った途端、私は誰のかも分からない凝血を拭き取る雑用をやめて駆け出した。


佐伯涼真が監禁されている納戸の前まで行くと、そこには南京錠がかかっていた。四桁の暗号を当てなければ鍵は開かないが、施錠をするのはいつも恵子の夫だった。復讐に加担するくらい愛妻家(悪い意味で)なのだから、きっと恵子の誕生日に違いない。あっさり開いた南京錠を外すと、素早く中に潜り込んだ。助けを求める佐伯涼真は助けてやるか迷ったが、二人だと逃げるのにも倍のリスクが伴う。残念だが、自分のことを見捨てた男を助ける義理は無い。投げられていたランドセルから財布を取り出した。このまま正面玄関から飛び出した場合、あの長い門扉までの道のりで捕まる可能性が高い。


私は一瞬で思考を巡らせ、ガレージに出る裏口があるのを思い出した。納戸の鍵を閉め、廊下の奥にある寝室を覗き込むと、四本の素足がベッドの上で絡み合っているのが隙間から見えた。今なら行ける。私は弾かれたように走り出した。


しかしその数秒後、廊下にある備え付けの電話が鳴った。びくりとして倒けると、寝室から不機嫌な顔をした裸体の男が出てきた。


「何やってんだ!」


怒鳴り声を聞き終える前に私は豹のような速度で駆け出し、ガレージに飛び込んだ。ボタンを押すとゆっくり上がるシャッターに体を滑り込ませ、目の前の国道を裸足で駆け出した。


シャッターはまだ一定の速度で上がっているが、恵子の夫はきっと追ってこないはずだ。なぜなら彼は裸だったから。


辺鄙なところに建つあの大きな家は、駅へのアクセスがとてつもなく悪い。私は、夏真っ盛りで日に焼かれるアスファルトを涙目で走り続けた。母親は私に付きっきりにはなれないからと、多めにお金を持たせてくれていた。きっと、これで東京で暮らす父親の元を尋ねることができる。顔も思い出せないが、住所だけはなんとなく知っている父親に一縷の望みをかけるしかなかった。最寄り駅に着くと、周囲を窺いながら中に入った。切符を通して改札を抜けると、ホームのベンチに座って、河村恵子が語った事件の真相を振り返った。






 去年、担任の歌方菜津奈が踏切で亡くなった次の日、地元新聞は一面で事故を報じたが、そこに載っていた名前は全く知らないものだった。


河村和美。


私が衝撃を受けたのは、歌方菜津奈を名乗っていた河村和美と、学年主任であったが名前を明かすことはなかった河村恵子という女は、親子だったということだ。私たちのいじめによって心を病んだ河村恵子は、去年の夏、実家に帰った。元々、河村恵子はアイドルグループに入るのが夢だったが、両親はそれに猛反対し教員になりなさいと強制したらしい。親の言う通りに教員採用試験を受け、無事に合格、華の学園生活が待っていると思えば待っていたのは壮絶な私たちからのいじめ。


恵子は、実家で怒りをぶちまけた。父親は既に病気で他界しており、いたのは母親だけだったという。それを聞いて、和美は「あなたを救ってあげたいわ」と言ったらしいが、具体的な考えはなかったみたいだ。恵子は和美が教員免許を持っていることを思い出し、夫の病気の看病で教職から離れていた母親を教師として復帰させた。それも、悪役として。悪役を作ることによって自分に対象の相手を近付け、その相手に鳥籠の中で暴力を振るう。それが、河村恵子の復讐スタイルだった。母親は悪役をやることを嫌がったため、毎日謝礼を渡すことによって我慢をしてもらっていた。そして、最後に踏切で死ぬことを指示したという。捨てられたと感じた和美は嫌になって本当に自殺した。和美は悪役を全うしたのだ。しかし、そう考えるとあの女の元から逃げてこられた私は強いのではないか。私は自分を誇らしく思った。






 遠くの踏切で遮断機が下りる音がして、電車が来ているのだと、ふと回想から現実に引き戻される。ベンチを立ち、遠くから来る三両編成の電車を覗き込むと、後ろから思い切り線路に向けて背中を蹴られた。


全く状況が飲めずにいると、いきなり電車のスピードが上がったような気がした。棒高跳びの様な目線で電線が目に入ると、走馬灯に流れたのは、幸せな想い出を全部塗り潰した黒い復讐の数々だった。風を切る音が耳に絶えず近づいてくると、思い切り鉄の塊に身体がぶつかって、再び空中に投げ出された。


その弾みに見えた駅のホームには、腰まで髪を伸ばした女が立っていた。白い着物を、左前で着付けした女が。顔はよく見えないが、あれはもしかしたら歌方菜津奈、いや、河村和美の亡霊なのではないか……?だとしたら、私はきっと生贄になったんだ。駅員が事故を察知してこちらに駆けてくるが、女が亡霊だから見えないのか、はたまた女のことを見て見ぬふりしているのか、その横を女はひらりと躱して人混みの奥の方へ消えていく。


「生きたままでいれるとでも思った?」


女の叫び声はホーム中に響き渡り、私の夏に終わりを告げた。






 それから数年経ち、河村恵子とその夫は幾重にも重ねた罪を暴かれ、重刑を課されることとなった。しかし今でも、南由利香の母親や佐伯涼真の両親は行方不明のままである。


河村恵子が夫と一緒に住んでいた愛の巣、いや、犯行現場は、取り壊されることが決まった。なぜなら、そこで人が殺されたような形跡も残っていたからだ。


畑には、復讐目的で子供が連れてこられる度、案山子の数が増えていたと近隣住民は語っている。今はまだ、案山子は回収されていないが、奇しくもあの日のような雨が降っている。雨が強さを増してゆくと、案山子の表面が剥がれ始めた。そして、そこからは妙にリアルな肌色が覗いている。


本当に、案山子は単なる人形だったのだろうか?


畑に害獣・害鳥が全く寄り付いていなかったのは、案山子以外に何か理由があったのではないか?


それはまだ、誰も分からない。

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