石の話

ゴエモン

石の話

石の話


 多摩川で石を割っていた。


 もう暇さえあれば、金槌を持って多摩川の 河川敷にしゃがみ込み石を割っていた。




 何が楽しかったのだろうか?

 

 石が好きだったから。


 化石を探していたから。


 ファミコンに飽きていたから。


 飛行石を探していたから。



 小学生の頃から中学生の頃もやっていた。


 中学生の頃は弓道にもハマり、道場にも通っていた。道場は多摩川が近かったので、帰りに石を探していた事もある。



 石は面白い。

 天然石においては一つとして同じ表情を持つ物は無い。

 石といっても、世の中にはただの石なんて無い。道端に転がっている石だって、必ず名前や種類があるのだ。



 雑草に雑草という名の植物はないのと一緒だ。



 石は大きく分けてその生成過程から3種類に分けられる。

 

 溶岩冷めて固まってできる火成岩。

 泥や有機物が堆積して凝固してできる堆積岩。

 既にできている岩が、圧力や熱によって化学変化を起こしてできる変成岩。


 そしてここから分類され、

安山岩、花崗岩、玄武岩、砂岩、泥眼、礫岩、凝灰岩、石灰岩、蛇紋岩、角閃岩、結晶片岩…などなど。

そしてこれらを構成する鉱物、石英、斜長石、雲母、角閃石、輝石、かんらん石、長石…などなど。


 更に産地によって名前が変わったり、綺麗な石にはブランドが付いて、石材として商品になっている。


 “大理石”なんて名はよく聞くと思う。大理石は世界中で産出される石灰岩だ。ある時は彫刻として、ある時は神殿として、またある時は装飾品として、観賞用としてそのまま床の間に鎮座する時もある。人類史において省く事の出来ない石だ。

 

 イタリアで産出する『カラーラ・ビアンコ』

 ギリシアでは『ペンテリコン』

 ドイツでは『ティーエルスハイム』


 日本では

 『紅更紗べにざらさ

 『時鳥ほととぎす

 『琉球大理石』


 これら全て大理石の名前だ。


 

 石はその姿をそのまま鑑賞用として珍重される事も多い。

 『ねじ式』で有名なつげ義春の漫画にハマったときも、“水石”という石を鑑賞し、愛でる世界がある事を初めて知った。同作『石を売る』の舞台も矢張り多摩川近辺であった事が、私の胸を熱くさせたものだ。石だらけの河川敷でバラック小屋を建て、川で拾った鑑賞用の石を売るのだ。そんな物当然売れる訳ない。そして妻に、いい加減まともに働いてよ、と嘆かれる。そんなストーリーに何故か心打たれた記憶がある。



 何かを求めていたのだ。

 

 化石だったかもしれない。

 

 飛行石だったかもしれない。


 未知なる発見だったかもしれない。


 美少女との出会いだったかもしれない。


 エロ本はよく見つけた。


 

 そういえば、私は宮沢賢治『銀河鉄道の夜』にもハマっていた。

 作中では、化石や蛍石や様々な鉱物を巡る話が随所に出る。銀河鉄道の夜だけでなく、宮沢賢治作品に見られる特徴の一つだ。作者自身が鉱物学、地質学に造詣が深かった事は有名である。


 

 幼いながらいっぱしの鉱物マニアを気取っていた私は当然、周りからは奇異な目で見られていたのかもしれないと、今更ながら思ってしまう。


 

 石割りに疲れると、平べったい石を探しては、水切りをして遊んでいた。


 水切りに適する平べったい石は、なかなか見つからない。そのうち丸い石でもいいから投げ始める。水切りは次第に遠投になっていく。私の中では競技が変わっていたのだ。



 石を投げるという行為は、昨今では危険な行為とされ、顔を顰める人も多いだろうが、子供にとっては気軽な遊びだ。誰かにぶつかるのは不味いが、空き缶などで的を作って当てたり、大きな石をどれだけ投げられるか距離を競ったり、原材料費はタダの有意義な遊びだ。

 この投石行為は人類史に置いて、非常に重要な行為である。

 古代において、獲物を狩るには弓矢が発明されるまでは、投石がもっぱらメインだったそうだし、戦争でも戦国時代ぐらいまでは、投石部隊があった。

 神話の時代でも、旧約聖書に登場する巨人ゴリアテを倒したのは、ダビデが投石機をつかって投げた石だ。

 近年でも、安保闘争の時は投石がアジテーションの象徴でもあった。


 当時のハナタレ小僧であった私がそこまで考えながら、石割りに没頭していたわけではないが。



 神話の時代に登場する石。日本にも『殺生石』という有名な石がある。三国を荒らし回った九尾の狐を追い詰め、ようやく討伐して石になったが、その後も毒ガスを吐き出し続けるという伝説付きだ。後の時代に殺生石は砕かれ全国に散らばった。その時石を砕いた人が玄翁和尚で、それが元で砕くのに使った金槌の事をゲンノウと呼ぶ様になったとか。

 他にも日本には、『夜泣き石』なんて、夜に泣く石が各地にある。決まって子供の夜泣きの声が聞こえるという伝染だ。回り回って、子供の夜泣きが収まるなんてのもあったりするが。


 ギリシア神話では、メデューサに睨まれたら石になる。この時の石は何岩なんだろうか?気になったのは私だけか?

 それとも石になると表現されるのは、本当に石なのか?石のように硬化してしまうことなのか?

 

 世界各地の遺跡から発見されるのは殆ど石だ。古代文明の痕跡は石しか残らない。


 モアイは巨大な凝灰岩だ。

 ギザの大ピラミッドは石灰岩。

 イギリスのストーンヘンジは玄武岩。

 奈良の石舞台古墳は花崗岩。


 それぞれ大なり小なりあるが、信仰や儀式の象徴であったのだろう。石は悠久不滅の存在なのだ。



 多摩川での石割りで手にした石は、今思うに殆ど価値の無い所謂“石”ばかりであった。

 そんな中覚えているのが、黄銅鉱を見つけたことだ。

 キラキラ鈍く黄色に光るその姿は金。子供時分に金を見つけた!とはしゃぐわけでもなく、“なんだ黄銅鉱か。河原にあるのは珍しいな”と冷めた感想だった。つまらないガキである。


 化石は見つからなかった。


 飛行石も見つからなかった。


 シータは現れなかった。


 

 1年に1回国際ミネラルフェアという催しが、新宿で行われている事を知ったときは歓喜したものだ。初めて行った時の衝撃は未だに忘れない。

 広いフロアに様々な鉱物、宝石、化石、岩石、が所狭しと並べられており、世界各国からのバイヤーが参加しているのだ。

 幼い私は、石よりも色んな外国人が一堂に会し、様々な言語で話している事の方に衝撃を受けたのだ。

 こんな場所にいる俺すごい!なんて思ってしまった記憶もある。入場料無料なので、何一つすごい事なんぞないのだが。

 それからというもの、毎年このミネラルフェアでは、何かを買うよりもその光景を見に行っていた。もちろん石も見ていたが。

 

 鉱石、石貨、墓石、宝石、庭石、碁石、石器、石炭、ガラスだって石英という石からだ。石に関わらずに生きていける人などいない。

 


 なろう系のファンタジー小説では地属性が不遇の扱いを受け、それを転移した主人公が見返す話がよくあるが、このちょっとした知識が作中の異世界側の人間には全く無いのが下地だ。


 人の文明史を振り返れば、そんな事あるわけないのだが。どれほど無教養で無学な人間で溢れているのか?その世界は石工もいなければ、宝石も無いのか?

 人は本能的に巨石や奇石を信仰し奉る文化が、少なくとも地球では、万年単位の過去から存在している。




 道端に転がる石を見てふと思い出す。


 多摩川で日がな一日、カンカンゴンゴン石を割ってはロマンを感じていたあの頃を。


 

 別に友達が居なかったわけじゃないぞ。



 石割りをやめたのは、変質者が現れるようになったと注意勧告がでたからだ。



 もしかしたら


 もしかすると



 あれは私の事なのか?


 そんな筈はないと、信じたい。

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