海に絵を流した日

椿恭二

海に絵を流した日

 海の近くの街で育った。

 自転車で二、三十分走れば、海岸線が広がる沿岸道路にまで辿り着く。

 遠方の岬に風力発電の風車と、灯台があった。巨大な子供のおもちゃのようなテトラポットが積み重なる景色が見渡す限り続いているが、波間が強くて遊泳は難しい。  

 青々として流麗な波打ち際など嘘で、夏でも微かに淀んだ群青にしか染まらない。台風になれば、人など雑作もなく飲み込んでしまう。

 海の街の人は、それをよく知っている。


 高校の一年後輩に、内崎佳奈美という女子がいた。

 夏になると日焼けして色黒だった。スポーツをやっていないのに、あまりにも小麦色に焼けているので話を聞くと、いつも外にいるらしい。切れ長の綺麗な一重瞼で、そこそこに可愛らしい子だったが彼氏はいない。


 僕たちは同じ美術部に所属していて、それなりに仲が良かった。

 飼い慣らしていない猫のような無邪気なやつで、よく寝坊したのか思い切り自転車で校門に滑り込んでくる姿を見かける。流石にパンは咥えていなかったが、帰り道で、「からあげクン」を食べながら自転車をこいでいるところは見かけた。


 後輩なので授業態度は知らないが、僕が地理の授業を受けていると、思い切りドアが開き佳奈美が立っていたことがある。教室中がきょとんとしたが、彼女は周囲を見渡すと、無表情で再び何事もなかったかのように、ドアを閉めた。


 僕たちは付かず離れずに親交を深めていた。モグモグと硬そうに口を動かしながら、コンビニでもスーパーでも見かけない、毒々しい色の海外産のグミの袋を差し出されることがあったりしたり、駐輪場で錆だらけの自転車に乗った佳奈美に出会うと、帰路を共に知ることもあった。

 僕が彼女について知っているのは、そのくらいだ。

 もう一つ、絵は上手かった。


 終業式まで残り数日となった夏の日、急に佳奈美に話しかけられた。

「海に行かない?」

「なんで?」

 彼女の手には絵を丸めてしまう、筒状のケースが握られていた。卒業証書の入っているものに似た、大きなケースだった。

「この絵を流すんす。水葬」

「せっかく描いたのにもったいない」

「いい、それのほうがいい」

 詳しく話を聞くと、彼女は自分の作品を整理して保管することはしたくないらしい。これから今まで完成したものを海に流すのだという。それが頭から生まれて、キャンバスに描かれた風景やイメージの弔いの儀式なのだそうだ。

 退屈な海の街から、せめて私の作品だけは海を超えていくように、と彼女は結んだ。

 

 佳奈美の自転車は寿命を迎えた。ゴミ廃棄場から持ってきたようなあれだけのポンコツに、毎日の佳奈美の一刻を競う暴走運転に耐えられなかったらしい。

「なんであんなに錆びていたの?」と聞くと、「海に通っていたらああなった」と、本当かどうか怪しい答えが返ってきた。

 彼女はカゴに鞄を放り込むと、僕の背中に絵の筒を押し付け、荷台に跨った。

 絶対にくっつくなよ、と僕が釘を刺すと、へらへらと笑った。

 自転車を漕ぎ出すと、いつも友人を載せるときよりも、何倍も軽快に走った。

 吹き出す汗を、蝉時雨が嘲笑うかのようだった。それとも僕たちを笑っているのかもしれない。


「はーれた空、そーよぐ風、憧れのハワイー」

「何それ?」

「憧れのハワイ航路。おじいちゃんが歌ってた」

「変な歌だな。俺もハワイでも行きたいよ」

「ここ、つまんない街だね」その時の背後の佳奈美の表情は分からないが、声は溌溂さに欠けて、どこかぼんやりとしていた。

「だな。もうすぐ卒業だから、大学に行けばマシになるかも」

 道路標識に『小田原まで80キロ』とあった。このまま走り続ければ東京に着くのか、と僕は思った。

「美大に行くの?」

「絵はやめるよ。そんなに偏差値も高くないから、テキトーな一般大しか行けないな」

「やめちゃうんだ、絵。上手いのに」

「やめるさ、そんなに世間は甘くないし、甘えてもらんない。夢を見て生きていける時代じゃないんだ」

「オトナじゃん、流石先輩。カッコいーい」

 僕は少し唇を噛んだが、それが嫌なものではなかった。

「私は、やってみよっかな」

 何も答えないほうが、僕と佳奈美には今はまだ良い気がした。


 全身から汗が吹き出して、その匂いが佳奈美にバレないか不安になった頃、海に到着した。

 波間は穏やかで、水平線が定規で引いたように真っ直ぐ見えた。

 花火の燃え滓、土に還らないペットボトル、鉄のガラクタの転がった浜辺はハワイのように白くも何ともなく、疲弊しているようにも思えた。

 歩を進めるが、彼女はところどころで立ち止まる。そうして何の部品だったか分からない歯車や、漁師の船から落ちた集魚灯を拾っては眺める。たまに「おお」と声を上げると、バッグにしまう。


「そんなゴミ集めてどうすんだ?」

「こういうものから着想するんですよ、先輩」

「それ拾いに海に通ってんのか」

「イオンとか伊勢丹に行っても、意味の分かるものしか売ってないでしょ? でもここには意味不明なものがたくさんあるんす。それ良くない?」

「まぁ、言わんとしていることは分かるが……」

 僕の呆れた態度とは裏腹に、彼女はトレジャーハンターのように、熱心に足元を観察しながら歩いていく。段々と興味が湧いてきて、「これはいる? 綺麗だよ」と貝を差し出したりする。

「貝なんて凡庸。もっと訳分かんないものですよ」と、佳奈美は灯油の錆びた一斗缶を嬉しそうに手に取ったが流石に大きすぎたのか、渋々諦めた。


 砂浜の色がグラデーションを描いて変わっていく。黒曜石のような色の土になった先に、無数の微生物の死骸の匂いのする、煙草の煙に似たうねりを描く波間が現れる。そこに二度と同じものは現れない。

 二人の足跡を消しては、再びそこに靴底が現れる。

「この波のリズムは一体誰が考えたんだろな」僕は素朴な疑問を口にした。

「地球は芸術の神様なんす。だからここに返すのが一番」

「不法投棄だろ?」

「少々の違法行為には神様は寛大なんす」

 全く、と思った僕が腰掛けて、彼女の儀式が終わるのを待とうとすると、「先輩、出番です」と言われた。

「出番?」

「そうです。できるだけ遠くで、ハワイに着くように流して下さい。私はここで絵を描きながら先輩の活躍を見守っています」

「嘘だろ。溺れたら死ぬぞ」

「葬式には必ず出ます。早く行ってください」


 僕はしばらく海を見つめると、それほどまでに荒れていないことを確認した。これならば数メートル先に行くくらいならば問題ないだろう。

 しかし、どうして佳奈美にこんなことをしてやらなければならないのかは、さっぱり分からないし、今後も分かる日が来るとは思えない。

 彼女から絵を受け取ると、一応中を確認した。そこには長年かけて描いてきた、たくさんの絵が納められていた。

「筒のままじゃダメですよ。流れ着いたりしたら、ロマンがありませんからね」

「良く分からないけど行くよ」

 僕は渋々足の裾を捲ると、海に入っていった。

 暴風波浪警報が出ていなくても、海水浴場ではない場所は危ない。

 佳奈美はテトラポットに登ると、スケッチブックを取り出してさっさとスケッチを始めてしまった。まるで優雅な司令官だ。


「ここでいいか!」僕は二メートルくらい先で、彼女に向かって叫んだ。

「もっともっと! 絶対に返ってこない場所まで!」

 せっかく上げた裾がとっくに海水を含んで重くなる。これでは母親にどやされるのは確実だ。

「この辺でいいか!」腰掛けた彼女の表情が分からない。

 佳奈美から返事がない。

「おーい! これ以上は危ないからここで流すぞ!」

 小首を傾げながら、自分を見つめている彼女がいる。

 僕もそれ以上は何も言わずに、ただ見つめ返した。

 遠くに入道雲が見えたので、しばらく眺めていた。

 そして、思い切りたくさんの絵を海に放った。

 絵はキャンバスから解放されて、藍色の世界を、色とりどりの動物や植物、作者自身の似顔絵で染めていく。

 夏の風に揺蕩うと、遠方に向かって戻っては進みを繰り返し、水の底に消えた。

 びっしょりと濡れた下半身を気にしながら、僕が波打ち際に戻ると佳奈美が笑顔で出迎えた。

「散々だ。俺まで海に還りそうになった」

「ご苦労様です。女子の後輩とのひと夏の思い出、これは一生モノですよ、先輩」

「そんなわけあるか、バカ」


 帰り道に二人でコンビニに寄ると、クーラーが効いていて涼しかった。一気に海水が乾いて塩が浮いた。

 僕は佳奈美のワガママで、アイスを奢ることになった。どこまでもこの後輩の理不尽な言いつけに振り回されなければならない一日らしい。

「先輩、今日はありがとう」

 彼女の瞳が妙に真摯なものだった。

「いいよ。たまには来よう」僕は照れ隠しに淡々と述べた。

 彼女はその提案に何も答えず、食べ終わった「スイカバー」の棒を背後に放って微笑んだ。


 僕たちは相変わらず、付かず離れずの関係で高校最後の日々は過ぎていった。

 二人で、海に行くことはなかった。

 佳奈美とは卒業式の後に、しばらく立ち話をした。「ボタンとか貰われたいですか?」とおちょくってきたので、さっさとその場を後にした。

 それ以来、彼女には会っていないが、風の噂では美術大学に進学したのだそうだ。


 それから僕は高校を卒業し、大学に進学した。絵とも海とも無縁の一般大学の経済学部だった。

 僕はすっかり彼女のことなど忘れて、社会の荒波に巻き込まれる前の漂流物のように、一瞬の青春を謳歌していた。

 二回生の冬休みに、大学でできた友人と海外旅行の計画が立ち上がった。

 パリ、ローマ、ベルリン……。様々な候補が上がったが、結局は凡庸なハワイで落ち着いた。


 大学の友人たちと定番のワイキキビーチで泳いだ。だがそこ人工的に作られた小綺麗なもので、ガラクタは転がっていなかった。海もチューブから出したばかりの水色のようだった。

 自由行動の時間ができたので、巨大な『アラモアナ・ショッピングセンター』にも赴いたが、意味の分かる商品ばかりで、どれも日本でも買えそうだった。

 気分が向いたので、ホノルル美術館の方向に向けて歩んでいった。

 深紅色の丸い瓦屋根の家や、純白の木造の小さなレストラン。絵葉書に描いてあるような、ヤシの木の街路樹の生えている道路の先には、開放感溢れる空が広がっていた。

 初めての海外だった僕は、海の先に解放された気分だった。


 ふと、路上にコンクリートの建物を見つけた。小洒落たモダンで、この土地に似合わないアール・デコのものだったので、僕の気を引いた。

 よく看板を読むとギャラリーとあった。しかし、お土産によくあるカラフルなハワイアンの絵画を買うつもりもなかったが、展示物は現代アートのようだ。

 通り過ぎようとすると、ポスターに日本人の名前があった。

 僕は自然を顔が綻ぶのを感じた。

 見上げた空に大きく広がる入道雲が、高校生の夏を思い出させた。


 中に足を踏み入れると、入り口に小さな展示があった。

 それは箱だった。題名に『イメージの種子』とある。

 中身は、歯車や集魚灯といった海に流れ着く様々なガラクタだった。そして、その横には一斗缶が置かれている。

 こうすると作品に見えるもんだな、と僕は苦笑した。


 奥へ進み、一つ一つ絵画を眺めていく。どれもが、あの日海に流したものよりも、何倍も洗練されたものだった。

 一枚の大作が飾られている。これがこの展示会のメインの作品らしい。

 それは、青々しい日本の夏の海の先に向かって、一人の青年が歩んでいくものだった。

 あの日の絵は、ここに流れ着いたのか、と笑みが溢れた。

「いらっしゃい」と女性の声がしたので、僕は振り向いた。

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海に絵を流した日 椿恭二 @Tsubaki64

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