朱い仮面の中で

葦沢かもめ

朱い仮面の中で

 「阿波の国」が生まれた陰で、消えた国の話をしよう。

 徳島は、四国の南東部。中央構造線と呼ばれる大断層が、北部を横断している。中央構造線に沿って流れる川は、吉野川と呼ばれている。吉野川流域は平野になっており、粟がよく取れたから、この辺りはかつて「粟の国」の名で知られていた。その流域は古墳時代に栄え、古墳が多く作られた。

 吉野川から南側には、人間を拒むように山脈がそびえ立っている。恐竜が闊歩していた時代の地層だ。南へ行くにつれて白亜紀の地層からジュラ紀の地層へ、タイムマシンに乗っているかのように時代を遡っていく。さらに南へ行くとまた白亜紀の地層に戻るのだが、その境目あたりの山脈を縫うように、那賀川が流れている。徳島県内では最長の河川だ。古くは長川という名前であり、そこからこの流域は「長の国」と呼ばれていた。こちらは、あまり古墳が見つかっていない。そこから南は、太平洋の潮風が吹き付ける海岸。太平洋沖では、フィリピン海プレートがユーラシアプレートの下に潜り込んで海底盆地を形成している。いわゆる南海トラフである。

 飛鳥時代、田舎である「長の国」は地方都市「粟の国」へ吸収合併され、後に「阿波の国」へと改称された。こうして「長の国」は、忘却の渦の中へと呑み込まれていった。

 想像してみよう。飛鳥時代、長川流域の山間部。年月をかけて長川が削り出した谷間にぽつんと存在する集落に、一人の少年がいる。

 年齢は十五。家族構成は四十路の父と母、それから小さい弟。この集落の人々は、植物の蔓を紋様化した朱い入れ墨を全身に入れていた。彼らの真っ赤な顔面は、外部の人間を威嚇するのに十分だった。男たちは、入れ墨を見せつけるように上半身裸で生活するのが当たり前だった。

 日が昇ると、少年は父を背負い、弟を連れて、滔々と流れる長川を横目に眺めながら急坂を登る。石灰岩の岩壁に口を開けた横穴が、彼らの仕事場だ。横穴の前に茣蓙を敷き、父を降ろす。父が震える指で示した方向へ、少年が鉄の鶴嘴を振り下ろす。弟は、転がった石ころから赤い石を選り分けて、麻袋に入れる。この赤い鉱物は、辰砂という。かつて海底にあった熱水噴出孔から噴き上がった水銀が海水で冷やされることで生まれた、硫化水銀鉱物である。この辺りには堆積層も分布しており、時折、貝殻の化石が封じ込められた岩壁も目にすることができる。太古の生命が生きていた証である。少年は、父から太古の大津波の跡なのだと聞かされ、それを疑うことなく信じていた。

 麻袋が辰砂で一杯になると、また少年は父を背負う。弟は背負子に辰砂の入った麻袋を積み、山を下る。

 家に帰ると、母は石灰岩から刮ぎ取った辰砂を石臼で砕いている。赤い粉末の山ができると、それを盆に入れて流水で洗う。辰砂は水銀化合物であるが、非水溶性のものは比較的毒性が低い。これを繰り返して細粒化させた粉末が、朱であった。用途は、虫除け、魔除け。あるいは建築物の塗料。古墳の石棺に収められた貴族の遺体の全身に朱が塗られていた事例もある。少年たちの入れ墨も、この朱を使って彫られている。

 集落の人々は、朱は大昔の人間の血が結晶化したものだと考えていた。彼らも死ねば、その身に流れる血は辰砂になり、子々孫々の生活の糧になる。それが彼らの信じるセカイだった。

 遠路遥々、長川を上ってきた商人たちに川辺の船着き場で朱を売るのも、少年の仕事だった。商人たちから外の世界の話を聞くのが、少年の唯一の楽しみだった。都の広大な宮殿の話。色とりどりの着物を纏った官女の話。それを聞く度に、少年は瞳を輝かせていた。

 商人は鍍金の仕事を持ってくることもあった。青銅を金で鍍金する技術は、これより百年ほど前に大陸から伝来していた。だが天然の銅や金は、長川流域はおろか、当時の日本ではまだ見つかっていない。商人が運んできた輸入品の青銅器と金製品を、集落で加工してやるのである。辰砂から精製した水銀は、常温で金を溶かして合金になる。この合金を塗った青銅を熱して水銀を蒸発させると、金で塗装できる。これをアマルガム法という。

 鍍金作業だけは、少年の父の仕事だった。少年の父は、無機水銀を慢性的に吸入してきたために、指の震えが止まらない。指先の感覚も無くなってきている。腎機能も障害されており、尿には血が混じっている。

 こうした身体症状は、辰砂の神の悪戯であるとされていた。だから鍍金の仕事の前には、必ず辰砂の神様を祀る儀式が行われた。

 その日の夜遅く、少年の父親は松明の焚かれた広場に座っていた。その周りを男たちが取り囲み、朱を洗って精製するように、代わる代わる長川の冷たい水を柄杓で打ち付ける。その様子を、少年は遠くから眺めていた。朱の入れ墨をした父の体はすっかり筋肉が落ちており、震える指を地面に押し付けて祈りを捧げる姿は、惨めだった。少年の小さな手には、貝殻の化石が堅く握られていた。

 少年は想像する。少年の体は、浅瀬に棲む貝だった。海。しょっぱい水が一面に広がった大きな池。その辺縁から、山のように大きな波が立つ。貝を、魚を、小舟を。小屋を、田畑を、道を。全ては波の喉の奥底。貝は荒れ狂う波に揉まれ、気が付いた時には山の上で土砂の底に埋まっていた。水も無く、空気も無く、殻を開くことも自ら動くこともできず、ただただ圧迫されて死を待つのみ。少年の瞳に映る貝殻の模様は、父の背中に彫られた入れ墨に似ていた。少年はそんな貝を愛していたが、貝になりたくはなかった。

 明くる日の早朝、少年の父は一人で作業小屋に居た。朱の粉末が入った土器を、炉で火に掛ける。摂氏三五七度で気化した水銀は、土器に繋がれた竹筒を通って水瓶の中へ押し出される。水で冷やされて凝縮した水銀は、瓶の底に少しずつ溜まっていく。この蒸気を吸ってしまうと神経がやられる。父も、蒸気を吸ってはいけないと教わっていたが、目に見えない水銀蒸気を完全に吸い込まずに作業することは不可能だった。

 父は、鍍金技術を少年に伝授しなければならないと、頭では分かっていた。しかし少年を鍍金の作業場に入れたことは一度も無かった。家族で食事をする度に、商人から聞いた外の世界の話を嬉々として語る息子の笑顔。それだけが、震える指先で仕事をする父の活力であった。

 子供が辰砂を掘り、母が精製し、父は鍍金する。それが少年たち、さらには集落の他の家族たちの変わらない日常だった。

 だがそんな集落を、時代の波は静かに、そして華やかに襲った。

 ある日、少年が船着き場へ向かっていると、人だかりが見えた。少年の耳に、何かが聞こえてくる。雲雀の鳴き声のような笛の音。小刻みに叩かれる小鼓の拍子。見えない何かに誘われるように近付き、少年が人垣の隙間から覗いて見たもの。それは、菖蒲色や牡丹色の鮮やかな衣装を纏った仮面の一団。燕のように軽やかな舞。その後ろに付いて歩く禿頭の男が、大きな声で呼びかける。

「皆の者、お釈迦様に倣い、善行を積みましょう」

 これがこの集落の仏教との邂逅であった。日本には、これより百年以上前に仏教が伝わっていた。しかしその影響力は近畿地方に限定されており、全国への普及は途上であった。空海が四国で修行をするのも、もう少し後の時代である。

 少年には、それが仏教であるとすぐに分かった。商人からその存在を聞いたことがあったのである。法隆寺という大きな寺には、五重塔と呼ばれる高い木造の塔が立っていることも知っていた。

 舞楽団は集落を一日中練り歩き、夜には長老の家で歓待されることになった。貴重な酒も振る舞われ、仏僧も舞楽団の面々も、集落の人々と談笑していた。

 少年が、この絶好の機会を逃すはずがない。宴会に潜り込んだ少年は、舞楽団の一員である青年に話しかけた。

「そのお面はどうして朱いんだい?」

 青年の傍らに置かれた仮面は、しかめっ面をしており、その表面は朱で塗られていた。仮面と言っても平面状ではない。人の頭の形をしていて、下部に空いた穴から頭を入れて被るようになっている。麻布を何層にも重ねて、木屎と呼ばれる木の繊維を漆に混ぜた接着剤で固めて作られていた。

「これは伎楽の酔胡王という演目で登場する、酔っ払った波斯国の王様の面なんだ」

 青年は酔っ払った王様の真似をするように、腕を宙でうねらせた。

 伎楽とは、中国の呉州に起源を持つ演劇である。仏教との関わりが深く、仏教行事の際に上演されていた。

 また波斯国とは、ササン朝ペルシアのことである。イラン高原周辺を支配したゾロアスター教の国だったが、六四二年、ニハーヴァンドの戦いでイスラム帝国によって滅ぼされた。その後は、ペーローズ三世が多くのペルシア人を引き連れて唐へ亡命し、唐の将軍として仕えている。故国を懐かしみながら、ペルシア人街の酒場で酔い潰れる将軍がいたとしても不思議ではない。

「波斯国とはどんな国だい?」

 酔胡王の面に顔を近付けて観察しながら、少年は尋ねた。

「波斯国は、海を渡った唐のさらに西にある。そこに住む人々は、火を崇めている。火は清らかなものらしい。一方、人の死体は不浄だ。だから死体は塔の上に置いて鳥に食べさせるそうだ」

「僕たちは死んだら朱に還る。その国で死んだ人たちは、一体どこへ還るのだろう? 鳥になって火の煙と一緒に天へ昇って、消えてしまうんだろうか」

「死んだ後のことなんて考えてどうするんだ。俺たちは今を生きている。それで精一杯だ」

「でも貴方達は仏教徒でしょう? 仏教では、死んだらまた生まれ変わると聞いたけれど」

 青年は、唾を飛ばして笑った。

「俺たちが仏教徒? 朱い顔の小童よ、いいことを教えてやる」

 誰にも聞かれないように、少年の耳元で青年は囁く。

「あの禿頭はな、実は僧侶じゃない。仏教徒ってのは酒を飲まない。だが見ろ。あいつの顔は酔胡王みたいに真っ赤だろう? あれは偽僧侶だ。俺たちも演舞なんて習っていない。稲が不作で困っていたところを、あいつに雇われただけだ」

 青年の告白に、少年は口をぽかんと開けたまま固まってしまった。まるで時が止まったかのようだった。憧れの塊が、あっという間に土石流となって少年を飲み込んだ。目の前で賑やかに虚構が演じられていることが、少年には信じられなかった。

 不意に少年の視界が遮られる。鼻をつく漆と汗の混じった匂い。酔胡王の仮面を少年に被せた青年が、酒の勢いに任せて少年の肩を叩く。

「だが、俺の舞は本物だ。偽物なんかじゃない。踊りは、今を生きる俺の魂だ。踊らなきゃ、やってられん」

 青年は勢いよく立ち上がり、盃を手にした人々の合間を野兎のように跳ね回った。手の平で宙を掻き、夢の中を泳ぐ。旋風がどこからともなく巻き起こり、床板も柱も屋根も天高く月の向こうへ吹き飛ばす。仮面の中の少年の目には、そう見えた。

 このまま青年にくっついて、諸国を踊りながら旅してみたい。心の赴くままに少年も立ち上がり、不如帰のように腕を振り、靭やかに足を運ぶ。少年の心は、外の世界へと羽ばたいていった。

 その時だった。宴会の席に怒号が響いた。場が水を打ったように静まり返った。

「止めろと言ってるだろう!」

 少年の父が、偽僧侶に腕を掴まれていた。

「いや、見過ごすわけにはいかない。お主の指が震えているのは、餓鬼に憑かれているせいだ。餓鬼は全てを燃やしてしまう。このままでは、お主の体は餓鬼の炎に焼かれてしまうぞ!」

 偽僧侶にも、良心というものはあった。善行を積みたいのは、彼自身だった。

「餓鬼なんぞ知らん!」

「餓鬼とは、仏教の教えにおける亡者だ。不浄の者だ」

「わしの体には朱が流れているのだ! 浄も不浄も無い!」

 睨み合う二人を止めたのは、長老の細い腕だった。

「猿は川では生きられず、魚は山では生きられない。猿は泳ぎを教わることはできるが、魚の姿になることはできない。旅人よ、そろそろ川が恋しくなったのではないか?」

 側に座っていた長老の娘が、麻布の包みを禿男の前に差し出す。禿男がそれを手に取ると、中から銅銭の擦れ合う音がした。悔しそうに地団駄を踏んだ禿男は、包みを懐にしまって土間から走って行ってしまった。それを見た舞楽団の面々も、荷物をまとめて長老の家から飛び出していく。すっかり酔っていた青年も、血の気が引いた顔をして追いかけていった。酔胡王の仮面を、少年に被せたまま。

 船着き場には煌々と松明が焚かれていた。夜に川を下ることなど無いのに、舟はいつでも出立できるように準備されていた。一同が乗り、舟が岸を離れた後も、禿男はずっと悪態を吐いていた。

 一方、少年は、青年を追いかけて出て行かなかった。誰もいない広場に、一人立っていた。青年の忘れていった酔胡王の仮面を被っている。酔胡王の瞳は、夜空に向けられていた。砂粒のように天に散らばった、朱や碧や白の星々。一つ一つ、それを拾うように酔胡王は足を前に出し、手を頭上へ伸ばす。愛するように、もがくように。酔胡王は、海に溺れていた。酒の海。朱の海。貝の流した、朱い血の海。貝殻の中で、仮面の中で。漆と汗。水銀蒸気。餓鬼の炎。清らかな炎。高い塔。鳥。

 指の先まで朱い血を行き渡らせて、少年は今を抱き締めるように舞っていた。待っていた。いつか、おどりを愛する誰かにその声が届くことを。


*********************************************************

Copyright © 2021 Kamome Ashizawa All Rights Reserved.

*********************************************************

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

朱い仮面の中で 葦沢かもめ @seagulloid

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ