夜に魅せられて

きと

夜に魅せられて

 別に誰にもとがめられないのだが、なんとなく後ろめたい気持ちがあり、青年は静かに玄関の扉を閉じた。

 今の時刻は、夜の零時。日付も変わる深夜だ。

 青年は、はじめてこんな夜更けに外に出た。

 悩みがあふれてしまった、自分自身の家を飛び出して、気分転換をするために。

 あるいは、知らない世界を見てみたいという好奇心を満たすために。

 夜遅いというだけで、見慣れたはずの街並みも、なんだか変わって見える。雰囲気も、人がいないので静寂せいじゃくに包まれており、いつもの街並みとは違う。

 まるで、世界に自分しかいないかのようだった。

 ――なんだか、怖いな。

 そう思いながら、青年は夜の街を繫華街はんかがいである駅前まで歩いていく。

 家の明かりもまばらで、ただ規則的に並んでいる街灯と月の明かりだけが青年を照らしていた。

 しばらく歩いていくと、目的の繫華街に着く。

 はじめて訪れた、夜の世界。

 そこには、自由があった。

 仕事を終えて、お酒に飲まれて酔いつぶれている会社員たち。

 寮の門限を過ぎてしまったといいながら、バカ騒ぎをする自分と同い年くらいの男女のグループ。

 まるで、昼にあったはずの仕事や勉強など、もとから存在していないかのようにはしゃいでいる。

 しがらみやわずらわしさなどない。明日のことなど気にめていない。

 楽しむこと。街行く人達は、それしか考えていないかのようだった。

 ――僕みたいに、悩みなんて抱えている人がいないみたいだ。

 もちろん青年が思ったように、誰もが悩みごとがないなんてことはないだろう。

 むしろ、悩みを払拭ふっしょくしたいと思ってお酒などを楽しんでいる人もいるはずだ。

 でも、そんなことを感じさせないかのようだった。

 それほど、夜の世界に生きる人々は楽しそうに見えた。

 ――悩み、か。

 青年の脳裏に、自身の悩みが浮かんでくる。

 高校時代。数学者になりたくて選んだはずの大学進学。

 だが、実際に数学というものを突き詰めていくと、楽しいという感情を感じることが少なくなってきた。

 次第に、大学に行くのも億劫おっくうになってきた。

 今のところは、まだ通学しているが、ほとんど惰性だせいと学費を払ってくれている親への申し訳なさで行っているようなものだ。

 本当にこのまま惰性で歩き続けて、数学者になれたとして。

 今抱えているモヤモヤを抱え続けたままで、生きていくことになるのではないか?

 その将来は、夢を叶えた人間が見る光り輝いている世界なのか?

 ――ああ。かつての想いは、情熱は、楽しさはどこへ行ってしまったんだろう?

 青年は、思考する。

 いつからだろう?

 夢を失ってしまったのは。

 何もなく、ただ息を吸って吐くだけの。ただ生きているだけの人間になってしまったのは。

 ――ああ、いっそのこと、自由になれたなら。

 そこまで、考えて、ハッとする。

 ――自由なら、今、見たばかりじゃないか。

 そうだ。今、自分がいる夜の世界。

 そこに自由を感じたばかりじゃないか。

 しがらみやわずらわしさなど、どこ吹く風。

 誰もが抱えているはずの悩みごとなど、感じさせない。

 明日のことは明日の自分に任せて。今、この瞬間を楽しむことに全力を注ぐ。

 太陽などないのに。青年には、夜の世界はとても光り輝いて見えていた。

 「見つけた……」

 青年は、ぽつりとつぶやく。その声は、あっと言う間に夜の世界に消えていく。

 青年は、きびすを返し、自分の家へと歩き始める。

 再び、街灯と月の明かりだけが青年を照らす世界へと戻ってくる。

 だが、少し前まで抱えていた恐怖は微塵みじんも感じなかった。

 そして、青年は家に帰ってきた。悩みにあふれて、どうしようもなくなっていた家に。

 ――さて、あの世界に身を置くなら、どうすればいいのかな?

 悩んでいたことなどうそのように。

 青年は、確かな希望を持って家への扉を開けた。

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夜に魅せられて きと @kito72

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