褥を隠したムジナ
こましろますく
兄弟
お前、暇なのか?なんなら、俺の話を聞いてくれないか。
そこの駅から線路の柵沿いに道なり真っ直ぐ行ったところに、号棟の多い団地があるだろ。今じゃ改築工事もして外壁の塗装もされて真新しい感じになってはいるが、築年数も数十年と随分古い建物でな。
昔の見た目は酷かったよ。剥き出しのコンクリートは塗装もされてなくて、年数が嵩む度に外壁のひび割れが深くなるんだ。一階や二階なんかは、風呂場の格子窓に植物の蔦が絡まっちまってて、運が悪い年はそこに親鳥が巣を作るもんだから、毎年そこらの階の家主は、身震いするほど寒くて仕方がないってのに窓に梯子をかけて、春が来る前にって必死の顔で蔦を引き剥がすんだ。
ここからが本題だ。数十年前、あそこの団地には、兄弟が住んでてな……こういうのもなんだが、兄の方はほんとに酷い奴だったよ。弟を三階から突き落として、殺すような奴だった。
小さい頃からその兄弟は、仲が良い方だったと思う。普通の兄弟がするような喧嘩もしてたが、半分に割れるアイスは分け合って食べてたし、下階のおじさん達の仕事を手伝ったりもしてたさ。身軽に梯子をよじ登って虫も怖がらずに蔦をむんずと引き剥がすようなガキなんてのは、鬱陶しい仕事を駄賃払うだけでやってくれるってんだから、重宝される 人材だったよ。
両親の帰りが遅い夜は、棚の備蓄のカップラーメンや来客用の高い菓子なんかを勝手に食べて、そのゴミを捨て損ねて二人一緒にこっぴどく叱られたりなんかもしてたな。兄弟が迷子になった時に、探しに行くって俺一人で人混みに飛び込んで、逆に迷子になって半べそかいてたこともある。
でもそんな仲良しこよしも、そう末永く続くようなもんじゃなかったんだよ。思春期になると、自然と会話を交わす数も減っていって、それぞれの言動に逐一腹が立ったりしちまうもんだ。例に漏れず、その兄弟の関係も悪化した。
確か、兄のほうが高三で弟の方が高一の時だった気がする。
夏の、比較的涼しい夕暮れ時のことだ。冷房をつけるには、湿度も気温も低い方だった。当然二人は部屋の窓を開けて換気をしてた。心地の良い涼しい風が、カーテンを揺らして部屋を回るんだ。ひぐらしの鳴き声が、夏真っ盛りって感じだったよ。
その日は兄弟の両親の帰りが、仕事と外出で遅かったんだよ。っていっても二人は、幼い時みたいに菓子のつまみ食いしたりなんかはしなかった。大きくなった身体には狭く思える家の中の、それぞれ角っこの方で壁を向いて、スマホやゲームなんかを弄ってた。
ガタイの良い高校生にしてみりゃ、団地の一室なんて自由も何もない狭苦しい場所でしかないもんだ。それが例え自分の家だとしても──いや、自分の家だからこそ、さらに手狭に感じるもんだろうな。
その時弟が急に、声をあげて笑い始めたんだ。漫才の動画でも見てたんだろうな、画面までは見てないから詳しくは知らねぇ。けど、普通ならなんでも思わないようなその大笑いは、兄の沸点に達したらしい。
「うるせぇ!」
兄のほうが、弟の様子も見ずに怒号を飛ばした。ゲームをしてた兄には、弟の笑い声なんかは気が散るものだったんだろうな。
「そっちこそうるせぇ。上手くも無いくせにボタンばっかガチャガチャ押しやがって」
対抗するように、弟が舌打ち混じりに皮肉った。弟も弟で、兄のゲーム音に苛ついていたんだと思う。
そっからが酷かった。いつもなら二人の言い合いを制止するはずの両親も居なくて、二人は汚い言葉で罵りあった。お前はいつも喧しいだとか、クソだとか、死ねだとか。二人揃って壁に向かって罵声を浴びせていた。
やがて口喧嘩は、取っ組み合いになった、二人にとっては、喧嘩の理由なんてどうでも良かったんだよ。相手より自分のほうが何かで勝っていると、証明がしたかったんだ。いつも文句ばかり言ってくる相手の口を塞いで、しめしめと思ってやりたかっただけだ。
二人は殴り合った。成長してガタイの良くなった兄弟はどちらも力が強くて、でも喧嘩に不慣れなのはどちらも一緒。兄が弟の頬を一発強く叩けば、弟は兄の膝小僧を蹴る。弟はすっ転んだ兄を組み敷いて、その首に手をかけて目一杯締め上げた。兄は段々目を白黒させて、藻掻くように首の手を何度も殴って爪を立てて引っ掻いた。
だが、ニ歳とはいえ年上の兄のほうが力が強かった。腹の上に乗って我が物顔な弟の背を、膝で懸命に蹴り続けた。それ自体に対した効果はなくて、兄は遂に意識が飛んじまうのを覚悟した。けれどもその瞬間、しきりに暴れていた兄を抑えきれず、弟は身体のバランスを崩しちまったんだ。
兄はそれを良いことに、逆に弟の上に乗り上げた──それどころか弟の腹の上に片足を乗せて、しきりにその腹を踏みおろした。首を締められたお返しと言わんばかりに、兄は弟に手加減なんてものはしなかった。何度も何度も、色んな角度から足をおろしては、弟の腸や肋骨や肺の部分を踏んだ。
踏まれる度に弟は、苦しそうに顔を歪めた。口から泡を吹いて、やがてそれに血が混じって、ぶしゃりと口の端を汚した。ばきゃりっていう鈍い音はきっと、弟の肋骨か何かが折れた音だったんだろうな。力の良い兄に踏まれて、まだ華奢な方の弟の内蔵なんかは、潰れたりしちまったもんだろう。
それでも兄は止まらなかった。短く切られてた弟の髪の根を掴んで、窓際まで弟の身体を引きずった。その頭を無理矢理引き上げて立ち上がらせて、弟の身体を壁に叩きつけた。
「謝れ!」
兄は弱りきった弟に屈服させて、優越感を得ようとしたんだよ。今思えば、そこまで甚振っておいて何をしてるんだって感じだがな。
だが、弟はまだ諦めていなかった。思春期特有の意思の強さというやつか、例えぼろぼろにされても、一言ごめんと言うのも嫌だったのかもしれない。嫌いな相手な向かって、ごめんなさい救急車を呼んでください、と頼みたくなかったんだろうな。
壁際に押し付けられながら、弟は暴れた。左右に大きく身じろぎして、兄の手から逃れようとした。弟が一際大きく腕を振ったとき、拳が兄の側頭部に当たって、兄は大きくよろめいた。その瞬間、兄の手から弟は開放された。
それは、部屋の大窓の前だった。
外窓は、換気のために大きく開け放たれたままで、カーテンが揺らめいていた。古い団地のベランダ柵は赤錆に塗れていて、弟の体重を支えきることができずに軋んで、わずかに根本が折れた。
弟が頭からひっくり返るには、それだけで充分だった。
兄の目の前で弟は、頭から姿を消した。裸足が視界から格子の縞模様に隠れた後に見えなくなると、数秒間だけ何の音も聞こえなくなった。
やがて、ごっぱぁぁぁんと何かが割れるような音が、団地に響き渡った。それを皮切りに、あれほど喧しくも風流だった蝉騒が、ぴたりと止んだ。
兄は弟に殴られてぐらついた頭を抑えて、その場でぼうっと窓の外を眺めていた。段々と、外が騒がしくなり始めた。一番下の階で昔お世話になったおばさんが、歳に合わない悲鳴をあげたのが、何故か遠い階層の兄の耳にもしっかりと聞こえた。
人のざわめきが徐々に増えてくると、遠くから救急車のような警察のようなサイレンのが何台も近づいて、団地の側で音が動かなくなった。
兄は、五階まで駆け上がってきた警察と救急隊に保護された。顔面蒼白で憔悴しきった姿を見た救急隊によって、急いで近くの総合病院へ搬送された。
放心状態が収まって食事も喉を通るようになって来た頃、病室に話を聞きにきた警察に、兄はこう言った。
「弟が急に暴れ始めて、ベランダから身を乗り出すもんだから、急いで止めようとしたんだ。弟を押さえ込んだら抵抗して、俺の首を締めた。苦しくてあいつを止めていた手を離したら、弟は俺の方を見ながら、柵の向こうに消えた」
兄は運が良かったんだよ。
古い団地だから防犯カメラも無くて、強盗が多い割には住人数もかなり少なかったことだ。一階まるまる誰も住んでいないようなこともあって、兄弟の住む五階は、上下どちらも住人はいなかった。
だから兄弟の罵り合う声や揉めあう音は、誰も聞いてなかったらしい。兄は無罪放免どころか、罪にも問われず寧ろ哀れまれてたさ。目の前で弟の自殺を目撃してしまって、さぞかし心が辛かっただろうって。
帰ってきた両親は、ぐちゃぐちゃになった弟の死体と、怪我をしてぼろぼろになった兄を見て、顔色を悪くした。母親は思わず絶叫して、それを父親が必死に宥めた。そうなるのが当たり前だ。むしろ弟の死体を見て冷静を保っていられた父親の方が、おかしいとすら思える。
弟はかろうじて人間の四肢を生やしてはいたが、人間とは呼べないようなものだった。頭は潰れて無くなっていたし、下肢はひしゃげて外を向いていた。
母が落ち着いた後に父は、諭すような声で兄に言ったよ。
「そんなになるまで、よく弟を止めようとしたな。悔いなくていい、俺達に悪いと思わなくてもいい。お前はよく頑張った……なんで弟は、死んでしまったんだろうな。悩んでることがあったのなら、言ってくれればよかったのに」
長くなったが、これがあそこの団地であった話の顛末だ。驚いたもんだろう。今でもあの部屋には、その兄が住んでるよ。
──殴り合ってたんなら、その傷が飛び降りの傷じゃないって警察に気づかれたんじゃないかだと?
考えてみればそうだな。じゃあ、それも含めて運が良かったことに含めておくさ。
褥を隠したムジナ こましろますく @oishiiringo
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