水の中、天空の檻、金魚の見る夢

衞藤萬里

水の中、天空の檻、金魚の見る夢

「今帰りました~」

 玄関で靴を乱暴に脱ぎ捨てバッグを放り出すと、疲れはててリビングに転がりこんだ。身体中、汗でべたべただった。今夜の残暑は凶悪だ。

「疲れた~」

「遅かったな」

 テーブルに突っ伏す私に、ダンナはノートパソコンを閉じながら云う。微妙に非難する調子が混じっている。

「今日、何の日か憶えてる?」

「一応……」

「早く帰るって云ったよな」

「確か……」

「……今、何時?」

「……黙秘権を行使します」

「異議あり。裁判長、本件の審理にあたって、当該時刻の相互の共通認識は重要であると思われます。よって黙秘権の行使は妥当ではありません」

「妥当です、裁判長」

 不当な圧力には、断固抵抗するのダ。

「――異議をみとめます」

「やらせだ!」

 叫ぶ私。司法の強権化。法の下の平等は、こうして死んだ。

「で?今、何時?」

「九時をちょっと過ぎたぐらいかな……?」

「二時間ぐらいね……で?」

「……ゴメンナサイ」

「店はキャンセルしといたから。結婚記念日も五回目になると、もうどうでもよくなるんだ?」

「私だって好きで遅くなったわけじゃないのよ。砂田先生の報告書、いっつも遅くって。今日だって、午後イチって約束のはずが、届いたの六時だよ……」

「言い訳しない!まぁ、君は元々、記念日とか興味ない性格だからね。オヤジ体質だから」

「ぐぐぐぐ……」

 云い返せない。

「あ、そういえば」わざとらしく、思いついたふりをするダンナ。「お義母さんから、さっき電話があったよ」

「あうっ!?」

 先日めでたく四十路に突入した私への、実家の母の「マゴハマダカ攻撃」は、鬼神も三舎を避ける。鈍感で能天気なダンナは、ぼちぼちですって答えといたからと、ニヤニヤ。

「……お風呂入ってくる」

 力なく私は立ち上がった。戦略的撤退。


 風呂上りにパジャマに着替え、冷蔵庫の冷えた牛乳をコップに注ぐと、さてどう仕掛けようかと考える。

 台所をうろうろして、結局冷蔵庫の伝言ボードに決める。思いもよらぬ奇抜な手段で驚かせてやりたいと思うのに、こんな時に限って意外と陳腐な方法しか思いつかないものだ。

「あれ?ビールは?」

 牛乳のコップを手に寝室に入ってきた私を見てダンナ。

「今日はいい。出前食べてきたから、お腹いっぱい」

「昨日も胸焼けするって云ってたろ。どっか身体の具合、悪いんじゃないのか?」

「私だって呑まない日ぐらいあるって」

 ベッドに飛び乗ると、いつものおねだりをする。

「何かお話して」

 我ながら子どもっぽいと思うが、こんな時間があったっていいんじゃないかって思う。

「何かって何?」

 ダンナはいつもどおりの素っ気ない反応だ。

「今日……あったこととか……」

 私もいつもどおりの応え。

「もう遅いだろ」

「結婚記念日なんだから、いいじゃない。私だってプレゼント、ちゃんと用意したんだから」

「おや珍しい。初めてじゃない?何、罪滅ぼしなの?」

 そう云った口調は、もう怒っていない。機嫌はなおったみたいだ。

「そんなことないって。台所にあるから、私が寝てから探してね。見つけても、絶対私起こさないでね。約束、約束」

「何だ、そりゃ」

 ダンナは笑いながら、それでも寝室の壁際に置いてある水槽を泳ぐ金魚を見つめながら、ちょっと考える。

「今日、金魚の本を読んだ」

 去年の秋、夜市ですくってきた金魚は何匹かいなくなったけど、しぶとく生き残ったやつらは、一年たってずいぶん大きくなった。

「金魚って元々はフナが原種なんだけど、交配によってあんな赤や白になる。だから生まれたばかりの時は、フナと同じ色をしているらしい。知ってた?」

「産まれた時から、あんな色だと思ってた」

「金魚は中国で改良されて、日本には室町時代に渡ってきたんだ。最初は上流階級だけの嗜好品だったけど、江戸時代の中ごろには庶民も飼うようになった。タライに金魚を入れて売り歩く金魚屋が、夏の風物詩になるほど、大ブームだったらしい。時代劇でもよく見かけるだろう?」

 部屋の電気を消して、ベッド横のライトだけにすると、私に合わせてダンナも横になった。光量が落ちて、途端に夜の気配が濃くなる。

「江戸時代は水槽っていっても焼き物の甕ぐらいしかなかったから、横から見るコトはできなかった。ガラスなんて貴重だったから、水槽になんて使えなかったからね。だから金魚も横からじゃなくって、上から見て一番きれいな形に改良を加えられたんだ。たとえば出目金は、上から見た時、おもしろく見えるように改良された。それからほら、あの不恰好なランチュウも」

「へぇ……」

 私は素直に感心した。何だかんだと文句を云うが、結構ダンナは本で読んだことを、こんな風に話すのが好きなのだ。

「そう云えば、江戸時代には天井を水槽にして金魚を泳がせて、下から眺めるっていう大富豪がいたらしい。でもいつ天井が抜けるかわかんないから、ひやひやして座ってなきゃならないな」

 私は神妙に相づちをうつ。

「本当なら上から見られるのが、下から見られたら金魚だって迷惑な話じゃないかなとも思うけどな?でも考えてみたら、部屋の中が水槽の中みたいな感じがしない?自分も金魚になったような、そんな感じ……」

 ダンナ、話しているうちに、だんだんと自分でも何を話しているのか、わからなくなったみたいだ。


* * *


 のぞきこむと、うつぶせのまま小さく寝息をたてていた。

 今日も忙しかったんだろう。キャリアとともに増えつづける仕事量と責任に、果敢に立ちむかう彼女は勇者だった。

 部屋の中、聞こえるのはクーラーの音だけで、それ以外はしんとした静けさに包まれている。ベッドサイドのテーブルのケータイを見ると、真夜中をすぎていた。

 ほっと、息を吐く。

 サーモスタットも使っていないただの水槽だから、何の音も聞こえてこないはずなのに、部屋の中は急に水の気配が強くなったような気がする。この部屋はマンションの四階だ。顔を上げると、街の灯りがかすかに窓から入ってきて、部屋はまるで水が満ちた水槽のように揺らめき、天空に浮かんだ檻のように限られた世界となる。

 自分たちは空に浮かんだ水槽の中で泳いでいる、金魚ようなものだな……ぼんやりとそう考えた。その有様は、今自分がしていた話の光景と一瞬だけ重なって、しかし時の速さとともに過ぎ去っていった。

 そうだ、プレゼントって何だ?

 憶いだして、台所へ行ってみる。しかし予想に反して、別に何もない。テーブルの上にも、食器棚の中にも、シンクの脇にも。首をひねりながら見回すと、冷蔵庫にぶら下がっている伝言ボードに眼が留まる。

 新しい伝言か……そう思い、眼を通す。

 ひと言ふた言――

 不意に心臓が倍の速さで動きだした。そこに書かれた言葉に、眼が釘付けになる。

 そう云えば、今日はビールを呑まなかった。昨日も胸焼けがするって……

 慌てて寝室に戻る。

 起こしかけて止める。絶対起こさないでって云っていた。起こされたくないのか……?

 あ、でもホントかどうか確かめなくっちゃ……だけど明日、自分の口から直接云いたいのかもしれないし……


* * *


 遅れている生理と、何日か前からの体調の変化で何となく予感はあったけど、結婚記念日に合わせて午後に少しだけ時間休をとって病院で診てもらって、間違いないってわかった。

 最高のプレゼントだ。

 どうやって渡そうかってずいぶん考えたけど、気恥ずかしくって、結局こんなやり方しか思いつかなかった。

 へへん、どうだ。これでお母さんだってうるさく云えないだろ。

 薄暗がりの中でにんまりしていると、台所のダンナが戻ってくる音がした。起こそうとして、ためらいがちに止めた気配がした。

 ふふふ、迷ってる迷ってる。

 ダンナ、どうするんだろ?寝息をたてながら、私は考える。起こして訊くんだろうか?それともばか正直に、明日まで待つんだろうか?ダンナ、今夜寝れる?

 わくわくする。おかしくておかしくて、口元が緩む。笑いをかみ殺しながら、寝息をたてる。あぁ、気がつかれないかなぁ?

 天空に浮かぶ水の檻の中で、私は一生懸命寝てるふりをして、ダンナはそんな私を起こそうかどうか迷ってうろうろしている。


* * *


 ――そんな所在ない、どきどきする、夢の中の金魚のような真夜中のふたり……


(了)

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水の中、天空の檻、金魚の見る夢 衞藤萬里 @ethoubannri

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