夢見さま

綿引つぐみ

夢見さま

 母が子供の頃、おそらくはもっとずっと前から、山の麓の集落に通るただ一本の街道を時折〈夢見さま〉が通り抜けた。色取りどりの襤褸を着てゆっくりと街道を歩いて行くのだ。夢見さまが通ると、家々は雨戸を閉めて人々はその中に閉じ籠る。絶対にその姿を覗き見てはいけない。閉じ籠る時には食べ物や小銭を玄関先に置いておく。

 もし、その時困り事があればそれを書いた紙片も一緒に置く。その紙片を夢見さまが持ち去ってくれれば、困り事はやがて解決するという。

 それはわたしの集落の古くからの慣習で、この辺り一帯では広く信じられている言い伝えだった。



「身体は父さんのものかもしれないけれど、あなたの中味は夢見さまから貰ったものなのよ」

 わたしが子どものころ、母はわたしにそういった。

(どういうことだろう?)

(中味って?)

 母がそんなことをいったのはそれ一度きりのことだったので、後から訊き返すのも何だか憚られて、それから母とその話をしたことはない。

 でもその言葉はわたしのなかにずっと残っていて、小さな、でも底のない水溜りみたいに佇んでいた。

 父は平凡な人で、一緒に暮らしていて存在を忘れてしまうような、そんな人だった。それでとうとう存在をはっきりと意識することのないまま、数年前に死んだ。だからどんな人だったかは定かに憶えていない。

 今この家に住んでいるのはわたしと母と祖母と曾祖母の四人だ。男のいた気配は早もすっかりない。

 わたしは一度、夢見さまを見たことがある。三歳か四歳か、小さな子どものころだ。母に抱かれて物置部屋の曇り硝子の隙間からちらりと見た。

 そしてそれが最後の通り抜けだった。年に数回、少なくとも一度、通り抜けは行われていたが、それが以来ぱたりと止んだ。止んでしまうと夢幻のようだ。真実この目で見たこととは思えない。

 夢見さまはもう来ないのかもしれない。

 そう思いながら十年が過ぎ、そしてわたしは十四になった。



 それは突然だった。街道、中通りの端に夢見さまが現れた。歩いて来たのではなく、まるで集落の外れに突然湧き出たような現れかただった。

 夢見さまはまだ若かった。時を経て代替わりするというからきっとこの十年で代わったのだ。

 しかしその印象は昔見たそれと何も変わらなかった。



 この十年の間にわたしは知ったことがある。最近惚けてきた曾祖母がいったのだ。

「ところであの子は結局誰なんだい?」

 あの子とはわたしのことだ。その時曾祖母はわたしを母だと思って話していた。

「やっぱりあの魂は夢見さんが手配してくれたものなんかねえ」

 脈絡なく断片的に続く曾祖母の長い話を繫ぎ合わせると、はたしてわたしは死んで産まれたらしい。

 突然の痛みに、母は納屋で産声を上げない赤ん坊を産んだ。そして。母はその子を離さなかった。通り抜けでやって来た夢見さまの通る道の前に、赤ん坊を、その子を、わたしを置いて差し出した。願い事を書いた紙とともに。

 夢見さまはしばらく立ち止まって、やがてわたしを煌びやかな襤褸の袖に抱き上げると無造作に歩き始めた。向かう先は納屋だった。姿が見えなくなり、出てくると腕の中にわたしはいなかった。夢見さまが行ってしまうと、母は納屋に急いだ。入る少し前から泣き声が聞こえていた。わたしはその時、そこで初めて産まれたのだ。

 母の胎内から出て、既に三日が経っていた。



 夢見さまは集落の真ん中の一本道をゆっくりと歩いてくる。時々車がその脇をすり抜けてゆく。夢見さまを知らない、他所から来て他所へ行く車だ。

 他に集落に人の気配はない。誰もが言いつけを守り家に籠っている。

 その姿がやがてわたしの家の前に差し掛かり。

 わたしは飛び出していた。頭が考えた行動ではない。足が勝手に走り出した。

「お父さん」

 わたしは呼びかける。夢見さまの表情は虚ろだ。

「わたしは誰ですか?」

 風が流れる。夢見さまの後ろから、その体を突き抜けて吹く風がわたしの頬を撫でる。

 その風が少しずつ質感を増して気がつくと夢見さまの指が頬に触れている。

体が持ち上げられる。抱かれてわたしは小さな子どものようだ。

 運ばれてゆく。一足一足に揺らされながら、わたしの眸は閉じているのか眼の前には十年前の集落の中通りの風景が広がる。

 わたしがいた。十年前のわたしだ。

 今と違って中央線の引かれていない街道の真ん中でわたしと夢見さまが対峙し、見つめ合っている。これはわたしの知らない過去だ。わたしではない誰かの記憶だ。

 わたしの無邪気な眼差しに夢見さまは怖がっている。動かない。動けない。車は通らない。誰もやって来ない。

 不意にわたしは家へと駆け戻る。わたしが家の門を潜った後、夢見さまは四半刻もそこに立っていて、そうしてまたゆっくりと歩き始めた。

 腰に下げた鈴が鳴る。すると夢見さまはもう先ほどの女の子のことは忘れている。何らかの怖れだけは微かに身の内に残っているが、それが何故そこにあるのかはおそらく永遠に思い出せない。

 それがわたしには分かった。

 生温い春の風が街道を吹き抜ける。



 ばたんと戸が閉まる音がして目を開けるとわたしは納屋にいた。麦藁の上に寝かされている。

 抱かれていた腕の感触が体にしっかりと残っている。物心ついてから男の人に抱かれるのは初めてのことだ。

 傍らに紙片が落ちていた。

 拾い上げるとそこには母の字が書かれている。

 それは夢見さまへの願い事を書いた紙だった。

 ──どうか無事に産まれますように

 


 わたしは生まれた。

 そしてわたしは育った。

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